第3章 3

文字数 4,595文字

「入って入って。遠慮しないで」
 木南さんは、今時珍しい合板の玄関扉を少しきしませて開き、手を伸ばして明かりを点けると言った。
 そこはかなり年季の入った木造二階建てのアパートだった。木南さんは、こじゃれた賃貸マンションに住んでいるんだろうなと思っていたから、なかなかに衝撃だった。
 しかも部屋は散らかっていた。さすがにカップラーメンやコンビニ弁当のゴミがそのまま、なんてことはなかったけれど、とにかくいろんなものがゴチャゴチャゴチャゴチャと床の上、テーブルの上、下、テレビ台の回りなど、至る所でのたうちまわっているのだ。
 玄関口で呆然とする僕に、
「あはは、入れっつっても、入る場所ないか」
 木南さんは無邪気っぽく笑って、それで、足で玄関を上がったところに転がるものたちをがががっと、モーゼのエクソダスじゃないけど両脇に押し避けて、僕の前に道を作った。
 割烹から木南さんちの近くの居酒屋まで移動して飲んでいて、当然に終電が無くなって、それで、「悪いけどあたしはさ、絶対に山崎くんとはやらないよ、あたしは友だちとはやらない。でも、お祝いにつきあってくれて、終電もないし、だから、お招きしたいけど、それでいい?」と、僕を自分の部屋に誘った。相当に飲んで僕はもう景色が緩やかに揺れている感じになっていた。それに、そもそも僕の方にも姐さんに下心はない。「いっすよ、それで。行きましょう」と、木南さんについてきたのだった。
 木南さんは、部屋の中のゴチャゴチャもやっぱり足で押しのけて、何とか小さいテーブルを挟んで折り畳みイスを二つ拡げる。テーブルの上のゴチャゴチャは部屋の端っこの方にそのままワープさせた。それで、
「さ、飲み直しいー」
 と半分歌うように言って、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
「山崎くんも飲むでしょ?」
 僕は、木南さんとアルコールのキャパを比べること自体、失礼な気がして来た。
「いえ、水でいいっす」
 と答えざるを得なかった。
「ははん」
 木南さんは僕のことを軽く鼻で笑った。それでインスタントコーヒーを淹れてくれた。折り畳み椅子に斜めに腰かけ、木南さんはなおも結構なペースで缶ビールを飲み続ける。僕は熱くて苦いコーヒーが食道から胃に落ちていくのをじんわりと感じていた。木南さんはエアコンはつけずに小さなファンヒーターを使っていて、部屋はなかなか温まらない。だからコーヒーの熱がありがたかった。
 木南さんのお喋りは陽気でパワフルだ。冷えたビールをガソリンにして、言葉が溢れ出る。
「そっかあ、就活、うまく行かないんだ」
 どういう流れだったか、話題は僕の就活のことになり、そしてそこをきっかけにして、木南さんは話し出したのだった。
「あたしは就活なんてしたことないからなあ。仲良かった先輩が東京に行くって言うから、連れてってくださいって高校中退して、いきなり何にも決めずに上京したし。――あたし、Sのことが大好きでさ」
 Sは国民的アイドルグループのメンバーの一人だ。
「私のいた愛媛のはずれじゃツアーだって来ないし、Sに会える可能性なんてゼロなんだけど、東京に住んでれば会えるんじゃないかって思ったんだよねえ。バカでしょう? でもまあ、バカの一念で、あたし、東京に出てきて何回もナマでSと会ったよ」
「マジすか?」
「マジマジ。最初はツアーを観に行って出待ち。自由になるお金は全て注いだね。何回も行った。そうするうちエキストラのバイト始めて、ついにSくんと同じドラマに出たよ。通行人役だけど、嬉しかったなあ。でさ、もっと近づいてやろうと思った。なんだけど、一緒に上京した先輩がさ、ルームシェアしてたのに、『あたし、東京はムリ』って言い出して実家に帰っちゃったからさあ」
「そこから一人ですか?」
「うん。家賃払いきれないんで、マンションからここに移った」
「心細いとかなかったすか?」
「どうだろうなあ。あたし、あんまりいろんなこと考えない、想像したりしてみない性質だからね。親譲りかもだけど、前しか向けないし、今か、せいぜいが明日のことくらいしか、注意が行かないんだ。てか、東京で暮らし出して刺激的なことが毎日どんちゃか降ってくるからさ。先輩がいなくなって少ししてから、あたし、エキストラ仲間の子に誘われて地下アイドルやってたんだよ」
 木南さんの東京での日々は、万華鏡のように、――縁日で売っていそうな安手の万華鏡だけれど、そのうすっぺらさに負けずに、キラキラと光り舞う。
「すごいっすね。アイドルを追っかけてたら自分がアイドルになったと」
「はははは」
 木南さんは豪快に笑い、音をたてて缶ビールを飲む。
「でも、あれだよ。ホントに地下の地下。ぼろっぼろの雑居ビルの地下の、スナックを三軒ぶちぬいたみたいな、トイレ臭いようなところ。それでもお客さん、来たんだよお。何か知らないけど来た。数はそんなに多くなかったけど。あたし、ヒラヒラしたドレス着て、ポンコツなミラーボールの光を浴びながら、ステージで歌って踊ったあ。あたしを推してくれるオジサンとかもいたし。お客さんたちと一緒に歌って踊って盛り上がったなあ――。でも続かなかったんだよ。所詮は大手の真似事をやろうとしただけで、自分で言ったら自虐ネタだけど、アイドルったってたいして可愛くもない、歌もたいしてだし、踊りも別にだし、プロダクションがかけられるお金もみみっちかったし。だからギャラが安くってさ。ずっとバイトもしてた。それで一年半で解散した」
「ショックだったんじゃないですか?」
「どうだろうなあ。あたし、もとから、どんなことも長く続くなんて思ってないからなあ。あたしのママがつきあう彼氏も長続きしなくて、ママの勤め先も長続きしなくて、でもそれはそれで回っていくっていうか、あたしはママと愉快にやってた。東京でのあたしも、そこは一緒だよ。回っていくんだよ。楽しいことだけ見ていればいい。地下アイドルのステージで歌っていて、あたし、ママがホステスやっていたスナックを思い出したな。店には子供の頃からちょくちょく出入りしてたからね。お客さんと歌っちゃったりして。ママのいたお店は、どこも好きだったよ」
 楽しいことだけ見ればいいなんて、僕は無理だ。僕には怖すぎる。
「母親の彼氏にいじめられるとか、スナックに来るヤクザに付きまとわれるとか、そういうの、なかったんですか?」
「無いよお。一度も無い。ママに人を見る目があったってことなのかな。こんなにしてたら、虐待受けたりDVになったりしそうだもんね。でも、無かったよ」
 それは単に運が良かっただけじゃないのか。次の一歩では、地獄への落とし穴が拡がっているんじゃないのか。
 そういう思いが顔に出ていたのかもしれない。
「ふふふふ」
 木南さんは、地下アイドル時代みたいなブリブリな感じを作って、恥じらい笑いをした。
「山崎くんは心配性だなあ」
 アイドル発声で呟き、僕の頭を撫でる。頬を撫でる。鼻の頭をつつく。
 誘惑してきているように、思えなくもない。
 なんだよ、と思う。犯すぞ。
 でも犯せない。ひどく酔っぱらっているからだけじゃない。素面でもだ。僕の身体は、いつの間に、そうならなくなってしまっていたから。
 僕が固まっていると、
「山崎くんは心配性なんだよ」
 今度はいつもの木南さんの声に戻って繰り返した。
「そうでしょうか?」
「そう思うよ」
 木南さんのビールが空になった。それで木南さんは空缶を持って流しに行き、帰りに冷蔵庫に寄って新しいビールを取り出す。
 まだ飲むのか。
 ちょうどその短い沈黙のタイミングで、木南さんのスマホがバイブした。連続して震えつづけていて、SNSではなく通話の着信と知れる。
 木南さんはビール片手にテーブルの上のスマホを立ったままで覗き込む。
「あ、サッチーだ。ちょっとゴメンね」
 それで木南さんはビールをテーブルに置き、電話に出た。
「サッチー、何? どしたの?」
 木南さんの声がまた変わる。いつもの木南さんでも、さっきの地下アイドルでもない、三つめの声。甘ったるく媚びた感じの。
「うんうん、あ、そう。そうかあ。え? あたし? あたしはおうちだよ。うん、ひとり。え? もちろんだよ。サッチーに会いたいよ」
 通話は一〇分近くも続き、木南さんはだいたい相槌を打つだけだった。それでも、明日の夜、通話の相手と会うことになったのだというのは分かった。
 通話を切ると、そんな通話はなかったかのように普通にいつもの木南さんの声に戻り、新しいビールに口をつけながら言った。
「あたし、パパ活やってんだ」
「え、ええ」
「やだなあ、引かないでよ。ただ一緒に食事したり、買い物に付き合ってあげたりするだけだよ」
「でも所詮、男なんて身体目当てっすよ。危なくないんですか?」
「そこの見極めに自信がなかったらやらないよ。それに、――そもそも芸能界なんて、まだまだ枕営業とかセクハラ、パワハラが、当たり前のように残ってる。創作欲だけじゃない、名誉欲、権力欲、それから性欲、もう、どろっどろだよ。あたしは、やらないよ。別にいい子ぶってるわけじゃなくて。あたし、何を代償にしてでも何としても有名になりたいとか、そういうんじゃないんから。ただ、愉快に楽しくしていたいだけだから」
「そんな、どろっどろなところと知っても、それでもやっぱり、そういう華やかな世界にいるのは愉快で楽しいですか?」
「どろどろにまで立ち入らなきゃいいんじゃない? 別にあたしは一生、今くらいの感じでもいいと思ってるから。その時その時で愉快だなって思える方へと行くだけだよ」
 時間が経ち、小さなファンヒーターでも漸く部屋が暖かくなってきていた。それに薄いインスタントコーヒーも、木南さんが二回おかわりをくれて、その熱が僕を内側から温める。アルコールが足先指先にまで行きわたった状態で、部屋も身体も温度が上昇してきたことで、僕は急速に眠くなり始めていた。
 木南さんはまだ何か話し続けているのだけれど、その声が遠のいていく。僕はそのまま、ずるずるっと、テーブルに突っ伏していったようだった。蜜蜂のイメージだなあと、寝入っていくとろみの中で思った。木南さんは都会の楽しいところだけを、ちょうど花から花へと飛び交う蜜蜂のように飛んで行く。蝶じゃない。蝶よりもっとアクティブ。元気。あと、そこまで艶やかイメージではない。それでちょっと蜜を吸って、また次の花へ飛んで行く。
 眠りの中でも、そんなメルヘンな夢を見るかと思った。でも、木南さんの部屋で眠り込んだ僕は、何の夢も見ないのだった。

 そのことに気がついたのは二年前。大学一年の時に、短期イベント・バイトで知り合った女の子と半ば勢いでラブホに行き、そういうことをしそうになった時だ。身体がそうならない。
 その時、僕の脳裏にちらついたのは、教室の床の上でのたうちまわり過呼吸で苦しむ瑠奈の姿だった。どういう意味なのか、瑠奈のことが異性として好きなので瑠奈以外とはしたくないから、みたいな純で潔癖な理由なのか。それとも、ボンの死への連想にまで繋がっているのか。あるいはもっと、僕が小学生の時の母の度重なる過呼吸の発作にまで根をはる話なのか。罪悪感なのか、不安なのか、恐怖なのか。僕には分からない。けれど僕は今も、そういうふうにはなれないのだ。
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