第7章 1

文字数 5,772文字

 十一月に入っても、暖かな日がしつこく続いた。これでは、寒さの中にポツンと登場する小春日和が成立しない。小春でなくそのまま春、というか初夏に近いくらいの気候で、調子が狂う。
 バイトでは、割烹の洗い場に入っても木南さんに遭遇できずにいた。SNSには、撮影現場の様子が時々ポストされている。木南さん、結構、大きい役になったのかなあなどと、想像したりもした。
 卒論の概要提出が終わった。ドラッグストアのレジバイトも、登録していた分は一旦すべて終わった。忙しさを完全に抜けた、というタイミングだった。

 瑠奈からLINEが来た。三人のグループLINEだ。珍しく家に来て欲しいとあった。「明日、来れる?」と。僕は大丈夫だったけれど、杏には都合があった。「来週じゃダメかな」と杏は尋ね、じゃあ来週となるかと思ったら、「とりあえずそうしたら亮ちゃんだけ来て」と返事が来た。
 瑠奈の家に行くのはまだ四人でいた高二の冬以来だ。JR中央線で二十三区を出て少ししたところの駅からバスで一〇分ほど入る。新興でも昔からでもない、安アパートもないけれど豪邸もない、きちんとした「中流」イメージがぎりぎり形を残している感じの街だ。その一角、いわゆるミニ戸建て。やや古びているのは、瑠奈が幼稚園の頃に建てられたというから仕方がない。
「ちょっと、外では話しにくいことだから」と、瑠奈はLINEに書いてきた。良いことか、悪いことか。そういう時には僕はたいてい、悪いことを想像しておく。期待値は下げておくにこしたことはない。それにしても何だろう。就職に関することだろうか? いや、人間関係か。高校の同級生の誰かの良くない話か何かか。
「ごめんね、忙しいところ」
 玄関から出てきた瑠奈の様子には一見、大きく変わったところはない。それでまあ、半分くらいはほっとする。玄関を入った一階はうすぐらい。「今日は家族は留守だから」と言われて、僕は少なからず緊張する。けれど瑠奈は、おかまいなしというか、気にもしないというか、むしろ何かに気を取られているように見えた。やはり、少しいつもとは違うか。
「二階に上がって」
 瑠奈が先に立って階段を上り、瑠奈の部屋に通された。
 記憶にある高校の時の部屋とは、随分、趣が変わっていた。あの頃の部屋には、ぬいぐるみがベッドの上や床や机の上、下にまで転がって、いや配置されていた。しかもそのぬいぐるみたちには何か統一された傾向のようなものはなくて、むしろてんでばらばらで、変にブサイクなクマとか、どこかの無名のゆるキャラとか、寿司のぬいぐるみとか、なんでもありだった。それらに埋まるようにして、部活の剣道の道具が立て掛けられ、大会での盾なんかも飾られていた。そういえば、アイドルのポスターみたいなのも貼ってあった。小学校で作ったという、へんてこりんなオブジェも床から聳えていた。そういう何でもありの部屋にはでも、全体としては不思議な纏まりがあって、そこにいると何だか暖かく、とても幸せな気持ちになれる部屋だった。瑠奈の内面が溢れ出しているようでもあり、面白かったし、好きだった。
 今はもう、ぬいぐるみは一つもなかった。剣道の道具も盾も見当たらない。ポスターもないし、オブジェもない。そこは瑠奈の部屋ではなく、部屋の抜け殻のようだった。これもまた余計なものが何一つ乗っていない勉強机の上に、ただ、黒のノートパソコンが開かれて置かれていた。電源が入り、画面も開かれている。動画サイトのホーム画面だ。
 瑠奈は勉強机の椅子を引いて、
「ここに座ってて。いま、お茶淹れてくる」
 そう言い残して部屋から出ていった。瑠奈を待っていたのは、ほんの二、三分のことだったと思う。でも、途方もなく長い時間に感じられた。
 やがて、階段をゆっくりと慎重に上がってくる足音がする。たぶん、お盆にお茶を乗せているせいだ。
 ドアが開き、瑠奈が顔をのぞかせる。
「ハーブティーだよ」
 瑠奈はお盆を机の上に乗せ、そこからティーカップを二つ、並べて机に置いた。一つは客用のもの。国内の有名ブランド。もう一つは、おそらく瑠奈が普段使っている自分用だ。高校の頃、瑠奈がどんなカップを使っていたかなんて、覚えてはいない。けれど、こんなに機能美、みたいなデザインでは無かったような気がする。
「部屋、いつ、こんなに綺麗に片付けたんだ?」
「この四月からだんだんにね。就職したら私、もうこの部屋出るし、だから片付けようって」
「大量のぬいぐるみは?」
「業者があるんだ」
「業者?」
「お葬式。ぬいぐるみのお葬式をして、供養してくれる」
 瑠奈は、清掃業者が来てエアコンをクリーニングしてくれる、みたいな感じで言った。ね、便利でしょう?
「でも瑠奈っち、ぬいぐるみはすごい大事って言ってなかったっけ?」
「うん、そうだったんだけどね」
「何で捨てちゃったんだ?」
「何でだろうなあ。自分でも良く分からないんだけど、捨てようって思った。そうしようって思ったんだよね。卒業、的な?」
「剣道は? 剣道の道具は?」
「あれはしまってあるよ、さすがに。――あ、それでね」
 瑠奈はこの話題をふいっと掬い取って除けると、マウスに手を伸ばし、登録チャンネル一覧を開いて、そこに並んでいる動画の一つをクリックした。
「亮ちゃんに見て欲しいんだ」
 すぐに画面には、学者然とした初老のスーツ姿の男の胸から上が映った。でも何か、学者と違う。大学でいつも僕にとっては退屈なことや、よく分からない難しいことを喋っている先生たちとは違う。
「みなさんは、どこかおかしいと思いませんか?」
 男が喋るのではなく、まず、中年女性のナレーションが入った。
「アメリカも中国もロシアもEUも、日本も、みんな、何か変だとは感じませんか?」
 再びナレーション。
「誰もがみんな、一生懸命働いて頑張っているのに、どうして豊かになれないのか。世界の人たちはみんな、平和に生きていきたいと願っているのに、なぜ次から次へと戦争が起きるのか? 今日は、そうした世界のカラクリについて、野々村世界研究所代表の野々村先生が語り尽くします」
 そこで漸く、画面に映っている男、つまりは野々村先生がもったいぶった感じで、やや浅めのお辞儀をした。
 あ、と思った。
 この男のどこが大学の多くの先生たちと違うのかが分かった。この男、小奇麗すぎる。髪型も服装もメガネもだけれど、一番小奇麗すぎるのは表情だ。イケオジ、という意味ではない。何て言うか――、アンドロイドとかAIっぽい。さすがにホントにAIではないと思うけれど。
「野々村です。ご視聴、ありがとうございます。まずはいくつか、最近の事例から取り上げていきましょう」
 男はそれで、このところ世界で話題となった紛争や独裁者の名前を挙げる。そして、報じられている事態のあらましを、さも胡散臭そうに説明していく。
「でもこれ、おかしいですよね? みなさん、どこがおかしいか分かりますか?」
 次に男は視聴者に質問を投げかけながら、一般の報道の矛盾点を解説していく。上手いなあと思う。男はすべてを正と邪に分ける。男のストーリーの中では、一般には正とされている方が邪となり、邪とされている方が正となる。そのまま聞いていると、男の解説こそが正しく思える。しかも、ずっと聞いていると、中東のあの紛争と米国のこの問題と中国のあの事件、それがみんな一本の線で結ばれていってしまう。正の仮面を被った邪な政治家や富豪たちが結託して、世界を暴力と戦乱に陥れている。むしろ邪とされている方が実は正義の士であって、悪の連合に対抗している。よくできた推理小説のようだ。時事問題や政治経済情勢に疎い僕には、男の滑らかな分析に対してロジカルに反駁などできようもない。
 そうだ、たしかに世界は理不尽な出来事に満ちている。あるいは不条理なあれこれで一杯だ。到底理解できないような侵略、犯罪、弾圧、暴動が、毎日のようにどこかで起きている。それら全部を繋ぐもの――。
「でも!」
 男はそこで声をやや張り上げる。
「これだけの多くのことが、こんなにも巧みに繋がって世界全体で起きるなんてことが、果たしてありうるのでしょうか? 仲間割れもせずに? 同時多発的に? 信じられないですよね? 横の、水平の繋がりだけでは無理だ。つまり、俯瞰しながらこれら全てのことを背後で操る誰かがいるのです。邪悪な指導者たちは、何者かに操られている、あるいは支配されている。そう考えるのが自然でしょう。そんなことの出来る大物とはいったいどんな存在でしょう」
 そこで画面が切り替わる。突然に、世界各地で目撃されてきたUFOのニュース映像が繋がれていく。さらには、そうした事案を悉く否定していく政治家、それにいわゆる有識者たちの短い動画。それでもUFO目撃情報は引きも切らない。米軍が関与したなんて話も、有名メディア報道の引用っぽく出てくる。
「つまり」
 男は大真面目で言った。
「邪悪な指導者たちを支配する何者かとUFOの出現、これが関連している可能性を否定できないのではないか。それが宇宙人と断言はできません。できませんが、しかし! 私たちの知らない、とてつもない力や科学をもった何者かが背後にいる。その何者かが、歴史を思うように動かしている。そういうことではないでしょうか? その結果が、惨憺たる戦争と悪行の山です。私たちは、この何者かからの支配、何者かの配下となった指導者たちからの支配、これを打ち破らなくてはいけません。さきほど申しましたね? 幸い、すべての要人がマインドコントロールを受けているわけじゃない。目覚めている人たちがいる。私と考えを共にしてくれる人たちがいる。たとえば!」
 それで男は、内外の特定の政治家や活動家、指導者の名前を挙げていく。男の分類を借りれば、その人たちは一般には正ではなくて邪として報道されている方だ。人道上の罪で逮捕投獄されている外国の元指導者もいる。
「みなさん」
 動画の再生時間はもうすぐ終わりを迎える。男は言った。
「どうか注意して、世界の真実を見てください。どうか騙されずに。あなた自身、そしてあなたの大切な人を守るためにも。私は断固、戦う。ともに戦って、少しずつでも、より良い世界にしていきましょう」
 動画が終わった。終わった後には、次にこの動画を再生しませんかという候補動画がいくつか提示される。その中には、「野々村先生」の似たような動画の他にゆるキャラのショートムービーが混じっていたりして、それで、現実に引き戻される感じになる。「野々村先生」の動画の再生回数は万を超えている。それほど大勢の人たちがこの動画を見て、そのうちいくらかは共感をしている。おそらくは、瑠奈も。
 陰謀論だと思った。そして陰謀論は、それを信じてしまう人がいるから蔓延る。
「ねえ、亮ちゃんどう思う?」
 待っていました、というふうに、瑠奈が尋ねてきた。もちろん、肯定は出来ない。ではどう返すべきなのか、咄嗟の判断がつきかねた。
「いや、だからこれ……」
 でも、表情には思い切り表れていたみたいだった。
「デマだと思ってる?」
 もはや、頷かざるを得なかった。
「これ、デマだろ」
「なんで?」
 拙い展開だと思ったけれど、ここから立て直すのは難しい。
「なんでって、だって、おかしいじゃん」
「どこが?」
「どこがって――、全部」
 瑠奈の表情が、怒ってはいないのだけれど、固まっていく。
「証拠は?」
「え?」
「デマだって証拠は?」
「そんなこと、動画をいきなり見せられて詰められたって、分かんねえよ」
「分かんないのに、どうしてすぐにデマって決めつけるの? それに、ほら、この人も推薦している」
 瑠奈がネット画面のお気に入りを開くと、そこに、ちょっと前まで時々テレビでも見かけていた元政治家が映っていた。この元政治家は、さっきの野々村氏を広い視野で俯瞰的に世界と歴史を見ることが出来る慧眼の持ち主と賞賛していた。
「亮ちゃん、私ね」
 瑠奈は身を乗り出して僕を見つめた。
「ずっと思っていたの。世界は暴力と矛盾だらけだし、それは日本でもそうでしょう? 社会に出たら、ひどいクレイマーに絡まれたり、詐欺師集団に騙されたり、道を歩いているだけだって危険運転で殺されたり。そうでしょう?」
「いや、そうかもだけど、それとさっきの動画、関係あるかな」
「世界がこんなにもひどいのは、うまくいかないのは、何か大きな存在が悪意をもって、そっちへと引きずっているからだと思わない? 野々村先生、あの動画の先生が言っていたように」
「いやでも、その証拠はないでしょ?」
「そうかな。野々村先生が、一つ一つ、説明してたよね」
「いや、あれって、そうかもしれないって、あくまで推測だよね」
「でも、そうじゃなっていうのも、推測でしょう? 私だって野々村先生の言うことを一〇〇%信じているわけじゃないよ。UFOとかね。でも、ああいう見方、考え方も、たしかにあり得るんじゃないかって思う。ううん、むしろ、大いにあると思うよ。主流のテレビとか新聞のメディアをまるごと信じて、野々村先生の言うことをちゃんと聞きもしないで全否定するのは、要するに騙されちゃってるってことじゃないかな。それじゃダメだよ。危ないよ」
 そこからはもう平行線だった。結局、最後まで、瑠奈が折れることはなかった。最後には僕が、
「分かった。分かったから。とにかくもう、今はこの話は止めよう」
 と引き取るしかなかった。
 その後、少し雑談なんかもして、瑠奈はハーブティーのおかわりを持ってきてくれたけど、でも、どうしてもどこかギクシャクした感じは抜けなかった。
 別れ際。
「私、心配なんだよね。亮ちゃんも杏も、私もか、これから社会に出ていって、仕事をして、生活をして、っていう中で、騙されたり酷い目に遭ったりせずにちゃんとやっていけるか。だから、いろんな情報が気になるんだよ」
「大丈夫だよ。大丈夫」
 僕は瑠奈の腕をぽんぽんと軽く叩いてから歩き出し、僕が小さく手を振ると、瑠奈は遠慮がちに手を振り返した。数十メートルも歩き、曲がり角まで来て振り返ってみると、瑠奈はまだ玄関の前で僕を見ていて、それでもう一度、小さく小さく手を振った。
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