第10章 2

文字数 5,211文字

 バスを終点で降りると、ボンの墓のある寺に着く。駐車場横の広場では、フリマみたいなのをやっている。それを横目に見て境内に入る。初詣の準備はもう概ね終わっているようだ。あちこちに参拝客を導くようにロープが張られている。境内を抜けると階段になる。鬱蒼とした木立に囲まれた階段を上っていく。寺の裏山の上まで出てもなお木々は高く、その間の遊歩道を進んでいくとやがて木立が消えて墓地になる。
 誰もいない。車道からはだいぶ上がってきたから車の音も届かない。野鳥が高低さまざまな音色でさかんに鳴いている。
「花、持ってくれる? 俺は水を汲んでくるから、先にボンの墓に行ってて」
 瑠奈に花束を渡して、小走りで手桶に水を汲みに行く。
 水道にも誰もいない。
 ぽっかりとこの一帯が世界から切り取られたようだ。
 四十九日の納骨の後で、迷惑かもとは思ったけれどボンの親に電話をして、墓参りをしたいので場所を教えてくださいと頼んだ。電話に出たのは母親で、ありがとう、と言って、丁寧に教えてくれた。それで三人で墓参りをした。高三の五月のことだ。一周忌、三回忌のタイミングでも、三人で行った。三回忌も、もう三年近く前になる。
 離れたところから、瑠奈が見えた。瑠奈は、墓の線香置きに残った燃え滓をビニール袋の中に捨てたり、花束のビニールを破って纏めたりしている。墓に着くと、瑠奈を手伝う。僕たちは無言で、つまりは心の中で何かをボンに語り掛けつつ、花立てを洗い水を満たし花を入れ、線香に火をつけ、それで。
「いいよ、瑠奈っちからで」
「うん」
 瑠奈は柄杓で水をそっとかける。立ったままで手を合わせ、それから跪いてもう一度手を合わせた。ふと、そこにボンがいるんだという感覚に襲われた。瑠奈がボンに懸命に何かを訴えかけ、ボンは「うん、うん」と頷きながら聞いている。僕はそれを横から見ているのだ。二人の中へは入っていけない。見ているだけだ。墓前に来るのはもう四回目なのに、こんなことは初めてだった。
 瑠奈は、ずいぶんと長い間、ボンと会話していた。漸く立ち上がり、
「じゃ、亮ちゃん」
 と場所を代わる。
 僕は手を合わせ、目を閉じ――。
 初めに思ったのは、やはり瑠奈のことだ。ボン、今、瑠奈から話を聞いただろうか? ごめん。瑠奈っちは陰謀論に嵌った。俺、何やってんだろうな。全然、ダメだな。どうやったら信じるのを止めてくれるのか分からない。しかも、こんな感じのままで、瑠奈っちも俺も、それに杏も、みんな、離れ離れだ。俺は、社会人になるっていうのに、気持ちはまったく追い付いて来ないし、どうしようもない。「クマの子」に何をしてやれるのかも、分からない。就職してどこか地方に行って働き出せば、もうそれで一杯いっぱいになるのは明らかだ。いま、何とかしたいことは山積みなのに、どうしたらいいのか分からず、今後の見通しもつかず、ただ流れて行ってしまう。俺では、どうにもならない。ボンがいなくなってから、いや、ボンがいなくなったから、世界はちっとも良い方になんか向かわない。俺には全てが手に余る――。
 墓前で祈っても、ボンは何も語り掛けてくれなかった。以前は、僕の脳内では会話が成立していたのに。杏にまたポエムと言われそうだ。要は、僕の中に、ボンに言って欲しいセリフが既にあったということだろう。今は違う。ボンに「会いに」来ても、何も解決などしない。
 僕は諦めて目を開け、手を下ろした。
「長かったね」
 瑠奈が呆れたように言った。
「瑠奈っちもじゃん」
 僕が言い返すと、
「まあ、そうだけど」
 瑠奈は少し膨れた。
「ボンと話せた?」
「話せたよ。たくさん」
 瑠奈はそれで、墓を数秒見て、僕の方に視線を戻すと言った。
「私の大事な人たちをどうか守ってくださいって、お願いした」
「ボンは応えてくれた?」
「うん。絶対守るって約束してくれた」
 何言ってるんだよ、と思ってしまった。脳内会話なんだよ、妄想なんだよ、と。たぶん僕は、ボンといまだ会話が成立する瑠奈が羨ましかったのだ。妬ましかったのだ。僕だけが、はじかれたような気持ちになった。
「良かったじゃん。俺はダメだったよ」
「え?」
「ボンは返事してくれなかった」
「亮ちゃん――」
「ついに、ボンに見放されたかなあ」
 ヤケクソみたいな感じで、瑠奈に言っていた。
「俺がダメだから。全然、ダメだから」
「亮ちゃん、何言ってるの? 亮ちゃんはダメじゃないよ」
「いや、ダメだよ。このままじゃ全部、どうにもならなくなる」
「全部って?」
 瑠奈には「クマの子」の件も、僕が未だに社会人になる意識を持てずにいることも、話してはいないのだった。昔だったら、四人でいた頃なら、絶対に話していただろう。いつの間に、瑠奈と僕との間の距離は、思ってもいないほど開いていた。
 今もまた、瑠奈は陰謀論に心惹かれ、そうしてさらに距離が出来ていく。ホントなら、瑠奈も一緒に「クマの子」のことでも何でも、考えてくれて、それで頑張れるはずなのに。
「亮ちゃん、全部って何?」
 瑠奈が尋ねてくるのも、もっともだ。瑠奈に今、話そう。僕は口を開こうとして、――止まってしまった。瑠奈は目の前にいるのに、今までで一番遠く感じる。さっきの、ここで語り合う瑠奈とボンの幻影が蘇る。瑠奈の想像であるボンは、瑠奈のすべてを受け入れることが出来る。陰謀論でも何でも、纏めて抱擁するだろう。僕は僕自身の想像のボンを失い、現実の瑠奈も失いつつあり、――二人から弾き飛ばされる。
「亮ちゃん!」
 瑠奈に強く声を掛けられて、思わず僕は。
「さっき瑠奈っちがここでボンと話してた時にさ、ボンは瑠奈っちの陰謀論も認めてくれた?」
 考えていたことを、そのまま言葉にしていた。
 瑠奈は表情を固まらせて僕を見る。ああ、また僕は間違ってしまった。
「ごめん、瑠奈っち。ごめん」
 数秒の沈黙の後、瑠奈は言った。
「亮ちゃん、私のこと、おかしくなったって思ってるでしょ。分かるよ、それは。私は過呼吸にもなったし、弱いから、陰謀論みたいな変なものを信じ始めたって思ってる」
「別に、おかしいなんて」
「おかしいよね。おかしいよ。『陰謀』だもん。でも、亮ちゃんだって、それ、きっちり違うって証明できないじゃない」
「そうか? したつもりだけど」
 つい、言い返す。
「してないよ。亮ちゃんこそ、騙されているんじゃない? 新聞とかテレビと同じこと言っているからって、それが正しいとは限らないんだよ」
 また、平行線の言い合いになる。
 僕は黙ってしまった。
 瑠奈も黙った。
 大晦日らしからぬ陽射しがやわやわと降り注ぎ、ほんのり暖かい。僕らが沈黙していると、野鳥が相変わらず鳴き交わしているのが再び耳に入ってくる。何を情報交換しているのだろう。求愛だろうか。それとも陰謀論について議論しているのか。
 遠くでチャイムが鳴った。
 正午だ。
「どうしてだろう」
 瑠奈がぽつりと呟いた。
「どうして分かってもらえないんだろう」
 瑠奈は不安がっている。瑠奈の不安の分だけ、僕は全身を締め付けられる。
「亮ちゃんには私のことを分かって欲しいのに。理解して欲しいのに。陰謀論と言われるものに共感する私も含めて、全部、分かってほしいのに。誰よりも亮ちゃんには」
 ああ、僕はどうしてうまく出来ないのだろう。瑠奈から誘ってくれて、折角のチャンスだったのに。僕では、それをきちんと活かすことが出来ない。むしろ、台無しにしてしまう。もっと悪くしてしまう。空回りして、ただ、おろおろするだけだ。
 これが、ボンだったら。もしかしたら、瑠奈の想像のボンと同じくらい、瑠奈を大きく受け止めることが出来たんじゃないだろうか。いや、出来ただろう。僕に出来るだろうか。
「私、さっき、みんなを守ってくださいって、ボンにお願いして。それからボンに、何とかして下さいってお願いもしたんだよ。亮ちゃんと何かギクシャクしちゃって、こんなの嫌だから。このまま、日本のどこかへ散らばっていくなんて、嫌だったから。でもどうしたらいいか分からないから。だから、ボンに……」
 そうだ、いつも僕じゃ力不足だ。瑠奈は、僕とのことについても、もう死んでしまっているボンに頼ろうとする。瑠奈だけじゃない。僕だって。瑠奈に何て言えばいいか、どうすればいいのか分からず、「クマの子」のこととか、就職先のこととか、もう全部行き詰ってきて、それでボンに「会いたい」と思った。墓前で祈ったって、願ったって、何にもならないのに。
 結局、僕じゃダメだってことだ。分かっていたことだ。ボンでなければ、瑠奈を安心させられない。誰も幸せにできない。
 僕は思わず言っていた、
「ボンじゃなくて、俺が死ねばよかったんだ」
 瞬間、瑠奈の顔色が音を立てたように変わった。
 また良くない方に向かっている。分かったけれど、止められなかった。それは、僕がずっと抱えてきた本音だったからだ。本心からの思いだったからだ。
「ボンの代わりに俺が死ねばよかった。そうしたら、きっとみんなうまく行った」
「亮ちゃん」
 瑠奈は蒼ざめた顔のままで言った。
「それは絶対に言っちゃだめ」
「瑠奈っちにとっても、その方が良かったんだ」
 瑠奈は、小さな子供のように首を横に振って拒絶した。
「瑠奈っちも、きっともっと苦しくなく、うまく生きられたはずだ。ボンなら、ちゃんと瑠奈っちを助けてくれる。分かってくれる」
「亮ちゃん、止めて」
 瑠奈が僕を押し止めようとする。でも僕は止めなかった。
「いいんだ、だってホントのことだ。俺は、ずっと瑠奈のことが好きだった。けど、言えなかった。瑠奈はボンのことが好きだったし、ボンが死んでしまった後も、やっぱりボンのことが好きだったから。もっと好きになってたから。いなくなったのが俺だったら、全然無理なく、ボンと瑠奈っちは生きていけた。みんな、楽に生きていけた。今みたいに、こんなふうにならないで」
「ボンのこと、好きだったよ。でも、亮ちゃんのことも好きだった。比べられないよ。それに亮ちゃんだって、ボンのことを好きだったでしょう?」
「勿論だよ。生まれて初めての心を許せる友だちだった。他にいなかったし、今もいないし、これからもきっといない。ボンだけだ。でも、俺がボンを好きだっていうのと、瑠奈がボンを好きだっていうのは、意味が違う」
「違うかもだけどでも、私は二人のことが、同じように好きだったんだよ。それにボンだって、亮ちゃんのことをものすごく大切にしていた。きっと、私のことや杏のことよりもだよ。なのに、『俺が死ねばよかったんだ』なんて、ボンが聞いたら悲しむ。そうでしょ? 亮ちゃんだって、ボンを悲しませたくないでしょう? 言ったらダメなんだよ。心の中で思うのだって、ダメなんだよ」
「でも思うよ。だって俺、結局何にも出来てないじゃん。ダメじゃん。高三の時に瑠奈っちが過呼吸とか不安定になるのも止められなかったし、ボンが死んで残された三人はだんだんにバラけて行って止められないし、今だって、瑠奈っちは一人で陰謀論に入り込んでいって」
「陰謀論って見下したように言わないで」
「ごめん、もういいんだ。もういい。結局全部、俺の力不足だ。なぜなら、俺はボンじゃないからだよ。な? だからやっぱり、そうなるだろ? ボンじゃなきゃ、ダメなんだ。四人の中で、ボンじゃなくて俺が死ねば、瑠奈だって誰だって、もっとうまくいった。そうなるだろ?」
「止めて」
「思うことを止めることなんて出来ない」
「止めてよ」
「無理だよ」
「止めて」
「無理だ」
 そんなふうに何度も繰り返した。
 そうするうちにふっと、瑠奈の言葉が途切れた。瑠奈が、ひっと息を吸い込む。
 過呼吸の発作が起きる。
 僕もまた言葉を切り、息を詰め、瑠奈を見た。
 でも違った。
 瑠奈はもう一度、ひっ、と息を吸い込み――、それからさめざめと泣き出した。
「亮ちゃん、死ぬなんて言わないで」
 すぐに嗚咽混じりになる。
「私の前からいなくならないで。絶対に、いなくならないで。もう、止めて」
 やがて号泣になる。
 あー、あーと、声を上げて泣く。
「ボンみたいに、いなくならないで、お願い。いてくれるだけで、それだけでいいから。喧嘩したままでも、見下しててもいいから」
 ボンが亡くなったと聞いた時、瑠奈は泣かなかった。葬儀などで、ほんのり涙ぐむことはあっても、こんなに子供のように泣くことは無かった。
 時に、人は声をあげて泣かなくてはならないのだろう。そうしなければ、窒息して死んでしまう。
 僕は瑠奈の手を握り、背中をさすってやった。瑠奈はされるに任せたままで、でも泣き声が収まる気配はない。瑠奈は泣きながらそのまま僕にもたれかかってくる。僕は、ごく自然に瑠奈を抱き止めていた。
 瑠奈は、僕の肩に顔を埋めて泣いた。涙と鼻水で僕の肩を濡らしながら、あー、あーと、泣き続けた。
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