第8章 2

文字数 3,962文字

 バイト中はずっと、木南さんのことを考えていた。いくら凝った食器、高価な器だとはいえ、もうここのバイトも断続的だけど二年くらいやっている。手が勝手に動く。今ばかりは、杏の就職中止も瑠奈の陰謀論も、僕の脳内の表舞台には出てこない。ただ、何をどう、ここで考えたところで、僕が木南さんに何か出来るわけでもない。人が人にやってあげられることなんて、本当にたかが知れている。瑠奈の陰謀論で杏が言ったように、基本は自分のことは自分で乗り切るしかない。まあそれでも、僕も杏も、どうにか瑠奈の力になりたいと思っているし、僕は、木南さんに何か出来ることがあれば、してあげたい。僕が送ったメッセージは、ありのままだ。
 ようやくシフトを終え、更衣室で着替え終わってからSNSを開く。木南さんからのレスは来ていない。送信してから五時間しか経っていない。それはそうだろう。きっと、大変なんだろう。
 挨拶しながら、従業員口から外に出る。
「よ!」
 目の前に木南さん本人がいた。
 あの時――、木南さんのアパートに泊まった時も、こうだった。いきなり僕のことを待っていた。僕は、一気に時間を引き戻されたような気持ちになった。
「木南さん、実家に帰られたって……」
「そうだよ。二週間前にママがスナックでぶっ倒れて、翌日、慌てて実家帰ったんだよ。で、少し容態が落ち着いたところで一度こっち来て、あれこれして、またすぐ実家戻って、で、一昨日からまた来てたってわけ。東京の片づけしにね。今日、夜九時過ぎの高速バスで戻る」
 高速バスは新宿駅からだろうか、東京駅からだろうか。いずれにしろ、もうあまり時間がない。
「ギリギリのところで山崎くんからメッセージ来たから、おおっ!ってなって、思わず来ちゃったよ」
「そんなに、おおっ!ってなりましたか?」
 ありきたりな言葉でしかなかったはずだ。
「なるよ。だって山崎くんは、社交辞令してくる人じゃないでしょ?」
「そうですか?」
「そうだよ。その山崎くんが、ああいうふうに連絡くれたから、こりゃあ挨拶せんといかんなと思ったよ」
 誉められているのかいないのか両義的だけれど、たぶん、誉められているように思えた。
「でも、よく、この店でバイトって分かりましたね」
「ママが脳梗塞で倒れたことはここの人たちにしか言ってないから、山崎くんが知ったってことは、この店ってことでしょ? で、山崎くんの性格からして、知ってすぐに、何て声かけたらいいのか分からなくなって、どうしようって、うんうんして、それでも決断して何とかメッセージ送って、結局、ああ、つまんないことしか書けなかったって後でウジウジする」
「悔しいけど、その通りです。俺のこと見てたんすか?」
「かもねえ」
 木南さんは何だか少し楽しそうに見せている。けれど空元気だ。それが分かる程度に、僕と木南さんの付き合いは長く、そして木南さんは僕に対してはポーカーフェイスが得意じゃない。いや、本気ではする気がないのかもしれない。
「で、お母さんの具合は?」
「なんとか生命の危機は脱したけどね」
「まずは良かったです」
「でもあれだよ、後遺症、ほぼ寝たきりかもでさ。ま、一人で放っておくってワケにもいかない。……ちょっと、歩こうか」
 そうして木南さんは、ゆっくりと従業員口の前から離れる。木南さんは大きな旅行鞄を抱えていて、
「持ちますよ」
 僕が言うと、
「紳士じゃん」
 と笑って、鞄を僕に手渡した。
 ここいらは赤坂とはいっても外れで、裏道なので、結構静かだ。ただ、さすがに都心のど真ん中の一帯ではあるから、車通りも人通りもそれなりにある。マンションや事務所と並んで、バイト先と同じような割烹だとか、イタリアン・レストラン、ショット・バーみたいなのも時々混じる。街灯の下を過ぎると、並んで歩く僕と木南さんの影が前に伸び始めるのだけれど、それはすぐに、アットランダムに現れる店舗の鮮やかな灯かりで消失する。
「実家に帰ったら、木南さんがお母さんの看病や介護をする感じですか?」
「そだねえ、そうなるねえ、それしかないもんなあ」
「でも、お母さん、回復したりとかできたなら、分かんないけど、木南さん、また東京に戻ってきて、これまでみたいに『楽しい』の生活をもう一回」
「潮時は過ぎてたんだよ」
 僕の言葉に被せるようにして、木南さんは言った。
「木南さん?」
「分かってた、そりゃ。ちゃんと劇団とかに入って稽古重ねてるとかならまだしも、あたしは違うから。客観的に見れば、地下アイドルの頃がピークで、で、こないだやった台詞のある役も、チャンスって言やあチャンスかもだけど、でもホント台詞は二言三言だけで、ほぼ通行人Aみたいなもんだし。あとは現場の雑用のバイトをしてたんだよ。楽しかったからいいんだけど」
「らしくないです、木南さん、潮時とかって言っちゃうなんて。すぐ先のこと、明日のことだけを見て、愉快な方だけを向いていくんだって、言ってたじゃないですか」
「実家に戻っても、そこは多分、変わんないよ。そこは、あたしはそのままだよ。そのままの感じで、介護して、スナックも閉めるのもなんだから、まあ、やるのかな。お金も稼がないといけないし。でも、そういう今日だけ明日だけの生き方を、東京で、芸能界っぽいところで続けていくのは、やっぱり潮時は過ぎていたよねえ。過ぎても別にあたしは構わなかったんだけど、今度のママの件こそ、まさにホントに潮時だったな。見た目はママもあたしも若作りで、遠目ならどうにでもしちゃえるかもだけど、身体の内側はそうもいかない」
「お母さん、お幾つなんですか?」
「えっと、確か今年で七十一だったかな。あたしはママが四〇過ぎてからの子供だったから。もうママは一人じゃ無理だって。それ、分かったから、東京のアパートを引き払いに来た。今はママのことでお金もいるし、無駄な家賃は払えねえってね。敷金も思ったよりたくさん返ってきたよ」
 裏道から表通りに出た。一気に昼間のように明るくなる。歩道の幅はさっきまでの裏道ほどもあり、そこを多くの人たちが、さんざめきながら、議論しながら、あるいは一人音楽を聞きながら、歩いていく。僕と木南さんもその海流に飲み込まれそうになる。その手前で、木南さんは足を止めた。
 目の前が地下鉄の入口だった。
「バス、東京駅からだから、山崎くんとは反対方向」
「木南さんが帰っちゃったら、みんな、寂しがる」
「かなあ。そうだと、ちょっと嬉しいけど。どうだろね。SNSでは相互フォローがたくさん残ってるけど、もうほとんどの人たちと会わないもんね。あたしたちは、なんだかいつでも、人ですごく込み合った町で通りから通りへと歩き続けていてさ、途中ですれ違う時にだけ、すれ違う誰かと話したり喧嘩したり恋をしたりもして、でもほら、何しろ止まらずに、止まれずに歩き続けているから、だからすぐに行き過ぎていく感じだよね。で、SNSの相互フォローだけ残ってんの。それもそのうちフォロー解除して、新しくすれ違った人をまたフォローして」
「やっぱり、みんな寂しがりますよ。木南さんのファン、バイト仲間にだってたくさんいたんですから。時間に余裕があれば、きっと送別会をしたがると思う」
「そうかな?」
「そうです」
「……だといいな」
 今日更衣室で、とにかく送信して良かった。あそこで送信していなければ、木南さんは僕に会いに来ることなどなく、実家に帰っていた。気づいた時にはもう、木南さんはいない、そうなっていた。ボンの時のように、さよならを言う機会すらなく。
 後になって、実家からSNSでメッセージをくれるかもしれない。けど、きっと、それだけだろう。僕たちは電子的な存在じゃない。肉があって血が流れていて息をしていて、触れれば暖かいのに。そのことを忘れそうになる。
「ねえ、山崎くん。一つだけ、お願いをしていいかな」
「もちろん。メッセージに書きましたよね。出来ることがあったら何でも言ってくださいって」
「うん。ありがと。あのさ、――ハグ、してくれないかな」
 木南さんはそれを、まるで幼い少女のように、恥ずかしそうに言ったのだった。
「ハグ、ですか?」
「山崎くんさ、ずっと好きな女の子がいるんじゃない?」
 いきなり言われて僕は、
「え、いや、それ、何でですか?」
 と慌ててしまった。木南さんは誤魔化せない。
「いるでしょ? 分かるよ、そのくらい。でも、ハグだったらいいよね。ハグは、そういうんじゃないから。ママがね、小さい頃から、何かって言うとハグしてくる人だったんだよね。学校に行く時に玄関でとか。家の中ならいいけど、人前でやられるのが嫌でさ、たまんなかったねー。最近でも、たまに帰省して、で、また東京に戻る時とか、必ずハグしてくる。もうお互いいい歳なのにねえ。バアサンとアラサーが何やってんだかって感じだよね。あたしが嫌がってもそれでも、バアサンは必ずアラサーにしつこくハグするんだよ。けどさ、もう、バアサンはハグできなくなっちゃったからさ」
 僕はそれで、木南さんをハグした。
 周囲を行く人たち――ぎょっとしたようになって僕と木南さんを避けて行く人たち、僕たちのことをガン見しながら通り過ぎて行く人たち、あるいは、何もなかったように見なかったようにして過ぎていく人たち――、この街の人たちはホントにいろいろで。
 そういう多彩な色をした海流の端っこで、僕は木南さんをずっとハグしていた。木南さんは、というよりは僕が、溺れそうな中で流木にしがみついているような感じがした。でもその流木は柔らかくて、じっとハグしているとしんみり暖かく、そしてダウンジャケットに遮られているのだから物理的にはあり得ないはずなんだけど、確かに、互いの鼓動を感じることが出来るのだ。
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