第9章 2

文字数 4,763文字

 クリスマスの三日前の金曜夜。杏からLINEが入った。
「もしかして、明日、予定空いてたりなんか、しないよな」
「空いてるけど」
 いちおう、FMAのクリスマス・パーティーには、もうOB扱いだけど顔を出した。この時期の「らしいこと」としてはそれくらいで、増尾は地元に帰ったきりだし、高校の同級生でのクリスマスは結局今年は無くなった。
 瑠奈との関係も、LINEのやり取りはあるものの、良い方へは動かせずにいる。クリスマスを誘える雰囲気には出来なかった。「クマの子」のことをどうするかも、僕には手に余る問題だ。何も出来ないから、明日も暇なのだ。
「寂しい男だな」
 杏はLINEで軽口を叩く。就職しないと決断した後、ずっと機嫌が良い。アドレナリンを垂れ流しながらずっと走っている感じだ。
「嫌味言うためにLINEしたのか?」
「空いてるなら、家の車のドライバーやってくれないかなと思って。わたし、免許ないから」
「どこかに行くの?」
「引越し。ルームシェアする先輩が早く来い来いって煩くて。単位は全部取ってるし、新しい生活のスタートを四月まで待つ必要ないだろ」
「ドライバーじゃなくて、荷物運びも込みの引越屋?」
「亮ちゃん、話が早いから好き。愛してる」
 杏は全開だ。

 杏がこれから住まうところは、新しくもなく、便利な場所でもないけれど、一応はオートロックがついた五階建ての賃貸マンションだった。間取りは2DKで、先輩と杏で一部屋ずつ使える。その先輩は高校のマン研で杏の二個上だった人で、美大を出て、今はゲームの背景みたいなのを描いたり、美大予備校の助手みたいなことをして収入を得ていると言った。なんだか、まあるくて大きな人で、話しているとキャラ的にも見た目通りみたいで、ことごとく杏とは対照的なので、笑いそうになった。
 今日僕が運んだのは、主にマンガと本。衣類は何回かに分けて杏が自分で電車で運んだらしい。でも書籍系は重いのでそうもいかない。ダンボールに十一箱もあった。マンガは比較的比重が軽いけれど、クソ重い画集なんかもある。管理人に頼んで台車を借り、部屋のある三階まではエレベーターを使った。それでも結構腰に来た。杏は僕が運び込む端から、本を書棚に立てかけていく。台車を管理人室に返しに行って戻ってきた時には、もう半ば以上が収納されていて、漫画家・杏先生の仕事部屋みたいになっていた。
 まあるい先輩がちゃんと挽いた豆でコーヒーを淹れてくれて、一休みした後、杏と二人で、車を杏の実家に返しに戻る。先輩は、下まで降りてきて僕らのことを見送ってくれた。
 もう日が暮れようとしていた。道が混んできて、僕らは渋滞に巻き込まれた。
「亮ちゃんにお礼、どうしようか。時給千円の最低賃金でもいい?」
 杏が気持ち悪いことを言い出し、
「いらないよ」
 と僕は即座に断った。でも杏は粘る。
「いや、いかに亮ちゃんでも、いや、亮ちゃんだからこそ、ほら、親しき中にも何とやらで、ちゃんと礼はしないと」
 これから独立してお金が少しでも多く必要になるはずの杏から、現金を受け取るわけにはいかない。
 しばらく考えていて、あっ、と思い付いた。
「じゃ、代わりに、相談に乗ってくれないかな」
「相談? 瑠奈っちのことか? こないだも言ったけど、わたしには見守って行く以上の何のアイデアもないけど」
「いや、違う。違うんだけど――、いいか? 相談で」
「今日のお礼は別として、構わないよ。わたしが亮ちゃんの話を嫌だって聞かなかったことなんて、ないだろ?」
「ま、そりゃそうか。ただ、ちょっと、法に触れるようなことだから、杏を巻き込んでいいのかどうか」
 僕がそれでも渋っていると、
「何だよ。余計気になる。話せ。いいから、すぐ話せ」
 と、杏はハンドルに乗せた僕の左手を強く引っ張った。
「危ないな」
「何言ってんだ。車、さっきからちっとも動いちゃいない」
 たしかに車は止まったきりだ。

 「クマの子」の一件をすべて話し終えた時には、車は漸く流れ始め、それでも杏の実家まではまだ三〇分くらいはかかりそうだった。いつのまに夕日は逆光の中の家々の黒い影の下に潜っていき、真冬の夜がやって来ようとしていた。
「ちょっと話が身近なレベルを一気に越えちゃって、どう考えたらいいのか、何をしたらいいのか、分かんないんだよね」
 僕は話の勢いに乗せて、弱音を吐いた。
「警察には行けないだろ? 不法就労なんだから。でも、自分だけじゃ、どうにもできないし。このまま放っておけるかっていうと、そうするにはあまりに俺は『クマの子』と繋がりが出来過ぎたんだよ。彼女はいつも素朴で飾り気のない返事をくれるから、だからずっと就活のことなんかを愚痴ってたし、相談してたし、励まされたし、気づかされたこともたくさんあった。何とかしてやりたいんだよな」
 カーステレオを点けていないので、車の中には音楽もDJのお喋りもない。いわば、そのままの背景音だけだ。ハイブリッドの静かなエンジン音。暖気を吹き出す空調音。それに、他の車やその他のあれこれが合わさった、東京二十三区片側二車線道路の音。密閉度の高いガラスで遮られて、輪郭を失いぼんやりと耳に届く。
「ボンがいれば、また違ったんだろう」
 また弱音が出た。気の置けない杏が相手とはいえ、ちょっと愚痴り過ぎだと思う。でも、ついつい言葉が零れた。
「ボンに相談できたならと思う。生きていたなら。何年も経って今更だけど。何かあると、つい考える」
 車が信号で止まる。対向車線、右折車のウィンカーがオレンジに点滅する。デフロスタを入れているけれど、さっきからずっと、フロントグラスは四隅が曇ったままで、オレンジが滲んでいる。
「わたしは」
 いつもは早口な杏が、ゆっくりと喋り出した。
「亮ちゃんほどに、ボンの信者じゃないんだ。変に取らないで欲しい。別にボンや亮ちゃんのことを揶揄しているわけじゃない。ただ、わたしとボンとの関係性は、亮ちゃんや瑠奈っちのボンとの関係性とは違ったっていうことだ。わたしは、四人グループの中での自分を、他の三人とは少し違って捉えていたのだと思う。だいたいが、わたしは、ホントならやりにくいポジションだよな。初めのうちはともかく途中からは、亮ちゃんとボンと瑠奈っちの黄金の三角関係? みたいなところにいつもくっついていたわけだから。もちろん、亮ちゃんとも瑠奈っちとも良い友だちになれたわけだけど、言ったように、ちょっと、わたしとボンとは特殊な感じだったんだ」
 車内は暗い。街の光はほとんどが車体に遮られ、杏の表情をはっきり知ることは出来ない。
「わたしとボンじゃ全然性格が違う。育った環境も違うし、持っているものだって違う。でも不思議だな、おそらく思考プロセスが似ているんだと思う。ぴぴって分かったんだよ。わたしはボンが何を考えているのかが分かるし、ボンはわたしが何を考えているのかが分かる。お互い、あっ、て分かる。二人だけ、普通の人間関係とは違う周波数で通じているみたいな?」
「エスパーかよ」
 突っ込みを入れながらも、言われてみれば思い当たる節もいくつかあった。
「マジ、そう思ったくらいだ。もちろん、本物のエスパーじゃないんだから、いつも分かるわけじゃない。時々だよ。それでも、おおって、ちょっと驚くよ。――きっかけはその辺からかな。お互いに、だんだん分かってきたんだ。こいつ、表には絶対出してこないけど、なんか心にしんどいもの、やっかいなものを抱えてるなって。こう見えてわたしにもさ、小さい頃からわたしなりの生きにくさみたいなのがあって、わたしの中で整理がついていたつもりだったんだけど、まあ、知らず知らずのうちに積み重なって結構ストレスになっていた。でも誰も気付いてはくれなくて、まあ、自分で気づかれないようにしていたんだけど、それでも気付いてくれないかなって、どこかで思っていたりしてな。なんとも屈折しているけど。みんな、多かれ少なかれ、高校生ぐらいってそうなのかもしんないけど、わたしも、まあそうだったんだよ。それな、ボンもやっぱり、いろいろあったんだと思う。それが、ごくまれに、ふっと顔を出す。あんなに何でも出来て恵まれて、それなのに何だろうね。具体的にどこがどう心の中でトラブっているのかは、分からんよ。でもさ、あ、いま、心が不調をきたしている、しんどいんだって、そこだけは例の周波数で伝わったんだよね。そういうのがお互いに、何となく分かる。そうすると、こそっと、大丈夫か、なんて。そんな関係性になれたのは、後にも先にもボンだけだ」
 僕には、ボンのそのへんのことは分からなかった。杏は感じていた。正直、ちょっと悔しい。でも、そうやって四人がそれぞれに補い合い、互いの不可欠だったからこその日々だったのだろう。
「だからかな、結構わたし、ボンと二人だけで話したんだよ。変なタイミングで変なところで話したことが多かったなあ。整形外科の待合室とか、担任の自宅の塀の前とか、あと、そうだな、夜九時過ぎの閉店前のスーパーっていうのもあったな。ちょっと時間あるかな、みたいな感じとか、あるいは、ただ偶然にバッタリ会ってそのまま話し込んだりとか。――だから、わたしは知ってるんだよ。ボンは瑠奈っちのこと、好きだったけど、でも、ボンが気にしていたのは瑠奈っちじゃない。ボンに言わせると、瑠奈っちは脆いところはあるけど、ヤバくなるとちゃんと頼れる誰かを見つけ出してくるから、潰れはしないって。ボンが気にしていたのは、わたしでもない。わたしはわたしだ。時々引き籠り勝ちになるけど、それは世間に出ていくのが怖いからじゃなくて、わたしはわたしだからだ。ボンは、そういうわたしを、ちゃんと分かっていた。つまりさ、ボンが気にしていたのは、亮ちゃんなんだよ。ボンはいつだって、亮ちゃんのことを心配していたんだ」
「俺、そんなに危なくみえるか?」
「亮ちゃんは、いつも人を救いたいと思っているでしょ? 今だって、瑠奈っちを陰謀論から助け出したいと思っている。それから『クマの子』のことも。ボンが死んでしまったことですら、理屈で考えれば関係ないし無理に決まっているのに、それでもどこかで責任を感じているんじゃないの? なんで、ボンを死なせてしまったんだって、どこかで思ってるでしょ。亮ちゃんはいつも助けたいって考える。何とかしてあげなくちゃと思っている。それが出来ない自分はクソだと思ってる。そのくせ、亮ちゃんは誰にも頼らないよな。頼らないんじゃなくて、頼れないのか。亮ちゃんはアニメのヒーローじゃないんだ。『クマの子』の話にしても、あんまり自分を追い込むなよ。わたしは、こういうこと言う柄じゃないけどさ。ボンはもういないし、そうすっと、亮ちゃんのそういうところを心配する人、フォローしてくれる人って、いないのかなあと思って。わたしはボンじゃないから、フォローまでは出来ないけど、でも、どうよ?って、口を挟むくらいは、まあ出来るから」
「ありがとう。ありがたいけど、――でも、『クマの子』の件、やっぱ、俺はもう少し、自分でやってみる。やりたいんだよ」
 はあ、と杏は少し大袈裟にため息を吐いた。
「そうだよな、亮ちゃんはそう言うよな」
「悪いな」
「悪かねえよ、ねえけどな。何があっても、ちゃんとご飯は食べるんだぞ」
 杏は母親みたいなことを言って、それで僕の左手を今度は軽くパンとはたいた。
 自分は心配される方ではなく、する方だとずっと思っていた。でも、ボンが心配していたのは、僕だった。ボン自身も生き辛さを抱えていたと杏は言う。それでも彼は、僕の心配をする。気を配る。フォローしようとする。まるで息をするように自然に。ありのままで。
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