第9章 1

文字数 4,233文字

 月日は歩みをどんどん加速させていて、すぐに師走になった。
 瑠奈とは、あの日以来、会っていない。SNSでのやり取りも低調なままだ。あまり乗って来てくれないのだ。杏には、瑠奈のことを放っておくことなんかできないと、かっこのいいことを言ってしまったけれど、何のことは無い、何も出来ていない。せめてクリスマスくらいは、瑠奈や杏と集まりたい。まだ瑠奈に気まずさがあるのなら、高校の仲間まで拡げてもいい。でも、声掛け役だった杏はマンガ誌の新人賞への投稿が間近で、世話役をする気はないようだった。
 卒業旅行用資金をあらかた貯め終わりバイトを減らした。おかげで暇で、卒論がはかどった。浦野さんお勧めの物流の本も読んでいる。でも、この本を読み始めると、数ページで眠くなる。
 午後十一時を回っていた。僕は本に栞をはさみ、あまりの進まなさ加減にげんなりし、欠伸をしながらスマホ片手にベッドに寝転がった。
 グループLINEは今日も静かだ。瑠奈と杏との三人LINEにも、何も来ていない。しばらく、あれこれSNSを斜め見してから、ダイレクトメッセージを開く。
 「クマの子」に宛てて短文を書く。
「きみはこの世界が陰謀によって動かされているとかって信じたりしますか?」
 ああ、何やってるんだろうなあと、思う。
 せいぜいが中学生くらいでしかないであろう「クマの子」に、陰謀論問題について語って何になるというのだろう。
 それでも一時間もしないうちに、「クマの子」は律儀に返事をくれた。
「陰謀ってどういうことですか?」
「宇宙人が悪い政治家や実業家をコントロールして世界を支配しているとか、そういうのです」
 今度はすぐ、クマが笑っているスタンプを返してきた。
 だよなあと思う。でも、笑えない人もいるんだって、そのことを背景まで含めてダイレクトメッセージでうまく伝えられるだろうか。
 僕は考え考え、続きを書いて送信した。
「宇宙人はともかくとして、表に見えている政治の仕組みとは別に裏の仕組みがあって、そこで世界の悪い政治家や実業家がグルになって実は支配しているっていう説です」
 今度は、?マークがたくさんついたクマのスタンプが返ってきた。
 続けて、「クマの子」のコメント。
「日本は違うでしょう? 日本はちゃんと選挙して選んで、悪いことをすれば逮捕される、法律に違反しなければ逮捕されない。そういう国でしょう?」
「それなのに、実は表側の政治とは別に、背後で密かに誰かが全部支配しているって考えです」
「犬さんはどう思いますか?」
「僕は、その考えは妄想だと思う」
 すぐにリプが来た。
「そうですか。犬さんがそう言うんだから、きっとそうなのでしょう」
 あっけない肯定。
 「クマの子」、いいのか、そんなに簡単に人の言うことを信じてしまって。ちゃんと自分で考えて判断しないと――。
 そんなふうな返事を書こうとして、ふと中断し、そのまま止めた。
 この世の中、あまりにも複雑で専門化しすぎていて、一般人には分からないことだらけだ。物流の本を読んでみても、すごく感じた。普段は当たり前のようにして使っているネット通販や宅配の裏に、これほどまでに精緻でややこしい仕組み、システム、それを司る法制度があるなんて。つまりは、プロの知識を持つ人が何かを言ったとして、それがフェイクかどうかなんて、たぶん一般民には全然分からない。一般民も自分なりに勉強することは必要だと思うけれど、でももしプロが本気で騙しにかかったら、見破ることは不可能だ。だから本当のところで出来ることといえば、発言している人が信じられる人であるかどうか、そこを見極めるしかないのかもしれない。それで、この人は騙そうとする人ではないと、信じるしかないのだろう。「クマの子」が僕に対して示したように。でもそこで誰を信じるかを見誤ってしまえば、最悪だ。フェイクの罠に落ちる。僕たちは、複雑化しすぎた世界の中で、地獄の縁、細い細い縁をおっかなびっくり歩いていくしかないのかもしれない。
 「クマの子」は、まだ何かメッセージを作文しているようだった。数分後に、メッセージが来た。
「それに、密かにじゃなくて堂々と政府が武力で倒されたり、マフィアに支配されていたり、政府側と反政府側が国を割って戦っていたり、そういう国は世界にたくさんあります。そういうところに住んでいたら、宇宙人とか言っている場合じゃないです」
 ニュースで見聞きする世界だ。テレビやネットの画面の中ではミサイルが飛び交い、ビルが倒壊し、血塗れになった子供がぐったりと横たわり、埃にまみれた老婆が座り込んで泣いている。
 陰謀論に対して、こうした問題を指摘してくるとは思わなかった。でも「クマの子」の書いてきたことは、もっともだ。さて、何と答えたらいいか。
 僕は考え込んだ。
 そのまま、二分、三分くらいだろうか。スマホをずっと眺めながら返信が浮かばず、おそらくは「クマの子」も日本のどこかの農村で、やはりスマホを眺めながら僕からのメッセージを待っている。
 静かだ。父親は赴任先の福岡で、母親は寝室、眠ってしまったかもしれない。
 突然、続けざまに掌の中のスマホが震えた。
 僕はびくっとしてスマホを取り落としそうになる。
 通話だ。呼び出しのバイブ。
 こんな時間に――?
 掛けて来ているのは「クマの子」だった。
 押し間違いならすぐ止まると思ったが、止まらない。
 怪訝に思いながらも僕は呼び出しに応じる。初めて、「クマの子」と直接話す。
「もしもし――」
 言う間もなく、誰か、若い女の子の声がスマホのスピーカーいっぱいに飛び出してきた。
「来ないでください!」
 一瞬、自分が言われたのかと思った。
 わけが分からない。意味が通らない。そんなわけはない。
 スマホのスピーカーから、やや遠く、男の声がした。はっきりは聞き取れない。僕は耳を澄ます。
 男は、脅しているような感じだ。
「来ないで!」
 女の子が叫ぶ。
「フホーだからって何でもやっていいんじゃないんだよ!」
 ――フホー?
 彼女、「クマの子」か? フホーって何だ? 何が起きているんだ?
「ほら」
 女の子の強い声がする。強いけれど震えている。
「いま、通話が繋がっている。聞いているよ、社長が私にいやらしいことをしようとしているのを、通話の向こうで友だちが聞いてる」
 イントネーションが変だ。たぶん日本人じゃない。
 男の声がバカにしたように遠く低く響く。今度は聞こえた。「そんなんで騙されるか、バカ」。それから、「言う通りにしないと強制帰国だ」みたいな。
 それで、すっと全部繋がった。「雨降りクマの子」は小学生でも中学生でもなかった。初めの頃に書いてくる文章が拙かったのは、日本語がまだ堪能ではなくて、日本のことをよく知らなかったからだ。それが僕とのダイレクトメッセージの頻繁なやり取りもあって、みるみる上達していったのだ。
「この人が聞いている」
 と、女の子の切羽詰まった声がする。
「警察に連絡してくれるって。日本人の人だよ! ちゃんとした人だ」
 また、男が何か言っている。
「来ないで!」
 女の子が叫ぶ。
「おい!」
 僕はスマホに向かって思い切り怒鳴っていた。自分でも予想外の大きさの、予想外の迫力のある声が出た。
「この子の言う通りだ。そっちで起きていることは全部聞いている。録音している。それ以上近づけば通報する」
 男がまた何か言う。さっきより小さい声だ。しばらく、女の子との間で何かやり取りがあって、やがて、ばたんとドアが閉まる音がする。
 女の子の深い深いため息。
「ありがとう、犬さん」
 と、彼女の声がした。彼女はそれでもう一回、今度は僕のフルのハンドルネームを言った。
「ありがとう、『救えなかった犬』さん。あなたは救ってくれたよ」
 通話が切れた。
 そう、僕は救えなかったのだ。ボンの死、それ自体は仕方のない、僕にはどうしようもないことだったかもしれない。でもその後、僕は何が出来た? 瑠奈が壊れてしまうのを救えなかった。一度壊れた瑠奈はまだ苦しんでいる。いまは陰謀論に入り込もうとしている。
 僕は救えなかった。父のリストラ、これも仕方がない。でも、父が心を病み、母もまた過呼吸を頻発させるのを、止めることが出来なかった。せいぜいが病院に付き添ったり、応急措置とか、それくらい。
 木南さんも行ってしまった。僕は彼女に、母親の代わりでハグすることくらいしか出来なかった。
 僕はいつも、気づくのが遅すぎるし、躊躇してしまうし、パワーが足りないし、的からズレているし、だから手を伸ばしそびれたり、たとえ伸ばせても届かなかったり、あるいは何にもならなかったり。
「クマの子」のことは何とか救えたのだろうか。分からない。あの社長はもう、「クマの子」には手を出さないかもしれない。でも代わりに、嫌がらせが始まるかもしれない。クビにされるかもしれない。その時には僕にはたぶん何も出来ないし、「クマの子」はきっと知らせても来ないだろう。

 その夜、「クマの子」からは何もメッセージは来なかった。
 僕はずいぶん考えて、
「大丈夫?」
 とだけ、送った。
 次の日も、何も来なかった。
 その次の日も。
 三日後になって、ようやく「クマの子」から返信が届いた。
「社長のことを告発しようとかは止めて下さい。社長はスケベだけど気が小さいから、一線を越えるようなことはしてきません。婿なんで奥さんや先代が怖いんです。騒ぎを大きくしてしまったら、私がどうなるのか、分かりません。今より良くなる保証はありません。行先がなくなれば、帰らなくてはならない。でも帰れないのです。私は、帰れない。」
 僕はもう少し状況を聞き出そうと「クマの子」にレスを返し、そうしたら今度は比較的すぐにその返信が来て、……というように、僕と「クマの子」はメッセージを往復させた。それで少しずつ、彼女のことが明らかになっていった。知識のない僕は、彼女が書いてきたことを、いちいちウェブで調べていった。
 端的に言えば、「クマの子」は不法就労ということになる。彼女の母国はアジアの途上国で、独裁政権による圧制と内戦、その中で女性の弾圧もひどいようだった。けれど彼女は難民でもなんでもなく、日本語研修のビザ期限切れによる不法滞在そして不法就労。そこにはどうやら反社も絡んでの外国人労働斡旋のようなものも見え隠れする。
 僕は無力だ。正真正銘、まったく無力なのだ。
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