第10章 3

文字数 4,000文字

 瑠奈はそれから三〇分くらいは泣き続けていた。漸く嗚咽が止まると、雨粒がぽつり、ぽつりと落ちるように語りだした。
「私は、もうずっと小さい頃から、不安を引きずっているんだ。一番古くて覚えているのは、幼稚園の時かな。幼稚園では週に一回、園外保育っていって、先生に連れられて園バスに乗って近くの大きい公園で遊ぶ時間があったんだけどね。いつも、公園に一人だけ置いて行かれるんじゃないかって、園バスが幼稚園に帰っちゃうんじゃないかって、びくびくしてた。置いて行かれた経験なんてなかったのに、おかしいよね。一人っ子だったし、小さい頃は身体も弱かったから、友だちと外遊びすることってほとんど無かったし、だから、みんなと少しズレていたみたい。それも私を不安にしたんだと思う。一生懸命、空気を読んで、それでもやっぱりズレているみたいで、結構、笑われた。良かったのはイジメられるんじゃなくて、天然でおかしな子、っていうポジションになれたこと。ホッとしたよ。でも、やっぱり怖かった。だって、空気が読めていないってことは、他の人には分かっている先のことが自分には分からないってことだから。園外保育と一緒。いつ自分だけ置いて行かれるかとびくびくする気持ち」
 たくさんの園児が公園を駆けまわっている中で、こっそり怯えている幼い少女の姿を想像してみる。誰か気づいてやれよと思う。気づいて、そっと抱き寄せて、大丈夫だよ、バスはちゃんときみのことを待っているからと、伝えてあげてくれれば良かったのに。幼稚園の先生も同い年の小さな友人たちも、少女の内面の怯えには誰も気づきはしない。おとなしい子だとしか、認識しない。
「一番怖かったのは、もう会えないんじゃないか、これで最後なんじゃないかって、思い始めた時だった。あれ、いつ頃だったかな。小学校の高学年くらいかな。たとえば、父親が家から出勤していく時。母親が買い物に行く時。ふと、思ってしまったんだ。出先で大地震が来て死んでしまうかもしれない。交通事故に遭って死んでしまうかもしれない。日常の中で何の気なく『いってらっしゃい』って見送った、それが最後になってしまうかもしれない。そう思い付いてしまったら、私は心配になった。心臓がどきどきしたよ。毎回、そういう感じになるわけじゃなくて、でもふいに思ってしまう。そうすると、不安で心配で悲しくなってしまうんだ。そういういろんな不安があって、ただ中学に入ってからは、何ていうか少しずつ自分の中での均衡の取り方が分かるようになった。不安を全部無くすことは出来ないとしても、不安と不安同士をぶつけたり、受験や剣道の試合みたないプレッシャーをぶつけたり、そういう工夫で、それなりにやり過ごすノウハウを組み上げていった感じだった。で、高校入って、亮ちゃんやボン、杏と四人でいるようになって、そうしたら変化が起こったんだ」
 瑠奈の声に少し張りが出る。
「初めのうちは例によって、空気を読めない『天然』の私としては、おっかなびっくりの手探りだった。それが、何だったんだろう。ほら、よくマンガとかだと、信頼感が一気に高まる大事件とかがあるでしょ? でもね、そういうのは無かったと思うんだ。ただね、鎌倉の遠足の準備でクラスで机寄せて四人で話をして、放課後にも教室に残ったり、そのままカラオケボックス行って歌ったり相談したり、そうするうちに、均衡とか考えなくて良くなった。不安が入り込む隙間が無くなっていた。私、ここで四人でいれば大丈夫なんだ、って思えるようになった。安心できた。ずっと続くと思っていた。少なくとも高校を卒業するまでは、いつでも一緒にいられるはずと信じていた。あんなに不安がっていたはずなのにね。そうしたら、そうしたら――」
 それで瑠奈は、目を伏せた。
「突然、ボンが死んでしまった。最後にボンと会ったのは、終業式の後の教室だったんだよね。ボンはまだ机で誰かと雑談していて、部活に行く私はボンに声を掛けた。最後の会話だったのに、何て声を掛けたのか覚えてないんだ。ボンはそれに対して、何か言ったはずだけど、これも覚えてない。その時、私は以前みたいに、『このまま旅先でボンが死んじゃったらどうしよう』とかは、全然思い付かなかった。でもそれは起きた。起きてしまった。不安を忘れた時に不安は最悪の形で現実になった。私の中で、全部崩れたんだよ。中学の頃のように均衡を取ることも出来なかった。何も出来なかった。私の毎日に不安と恐怖が戻ってきた。もう会えないんじゃないか、これが最後になるんじゃないか。不安が裏付けされたんだよ。じゃあ、次は? 次は誰がいなくなる? きっといなくなる。私が一番怖かったのは、亮ちゃんを失うことだった。だって、亮ちゃんは見ていて心配になる」
「俺が?」
「そうだよ。自覚ないかもだけど、亮ちゃんはすごく不安定に見える。どうにかなってしまいそうで怖い。亮ちゃんは不安定なままなのに、大学が別になって、それに今度は就活して社会人になって離れていく。――無理なんだよね。亮ちゃんだけじゃなくて、みんな、社会に出ていけば誰もが自立して一人になっていくんだから。つまりは、亮ちゃんじゃなくてむしろ私の問題ってことだ。私がまた、不安を飼い慣らさなくてはいけないんだ。そのためにも、私は、はっきりと独りでやっていけるようにならないといけないと思った。就職で東京を離れる選択をしたのって、そういうこともあるんだよ。それでも。それでもね、もう一度だけ、今日、ボンにお願いに来た。去年はみんなで水族館に行って、ボンに報告して、お願いもしてきたけど、やっぱり最後のお願いには、お墓に来たかった。ここで、どうか守ってくださいって、お願いしたかった。亮ちゃんと来たのは、亮ちゃんのことが一番心配だったっていうことと、それから――、亮ちゃんとの仲を、どうしても元に戻したかったからだよ」
 僕もまた、これまで瑠奈には打ち明けてこなかったことまで含めて、思いを語った。
 僕の人生が、イメージしていたレールからどんどん外れだして戻らなくなったと感じていたこと。いつも誰に対しても、すぐに「死ね、死ね」と思ってしまうこと。瑠奈やボンや杏と出会えて世界は蘇り、二年も経たずに失われたこと。与えられ、奪われたことに対する、悲しみ、怒り、諦め。ボンの死後、瑠奈の不安は分かっていても、自分にはたいしたことが出来ていないこと。ボンならきっと、もっとうまく出来ると思ってしまうこと。瑠奈ともっと一緒にいたいけれど、ずっと一緒にいたいけれど、でも、自分じゃダメだという気持ちと、瑠奈のボンへの強い思いが合わさると、どうすれば良いのか分からなくなってしまうこと。
 そして――。
「ごく最近、気付いたことがある。自分としてはこんなはずじゃない人生と思ってはいても、客観的にみれば、恵まれているんだよな。学費の心配をしたこともないし、両親とも今はだいたい元気になって父親はちゃんと働き出している。大学はありきたりだけど、そこでありきたりな生活を大過なく過ごすことが出来ている。サークルにも所属して、友だちも、まあいる」
 それで僕は、木南さんの話をした。東京での蜜蜂のような日々から一転して、田舎のスナックのママをやりながら、自分の母親の介護を続けている。それほどの大変化、しかも普通に考えればネガティブな変化であるにもかかわらず、木南さんの生き方のスタンスは変わらない。楽しいこと、愉快なことが出来るだけ増えるように、明るい方に、光の射す方に向かっていく。その先の、もしかしたら拡がっているかもしれない地獄の穴のことなど考えない。それで毎日を暮らしていく。
 それから、「クマの子」の話をすることも出来た。最近は、彼女の方からメッセージを送ってくることはめっきり少なくなった。「クマの子」はおそらく、日本の農村のごく普通の少女として、僕と対話するのが好きだったんだと思う。頻度の落ちたやり取りからは、彼女がそれまでと同じ生活を続けているようだと知れる。あの一件があっても、社長は彼女をクビにすることは無かったようだ。けれど、待遇がどう変わったかであるとか、あるいはイジメや脅しにあっていないかとかを、彼女は書いて来ない。もしかしたら、彼女は用心深くなっているのかもしれない。彼女の話が本当であるなら、彼女はただのビザ有効期限切れの不法就労者というだけではない。難民認定はされていないけれど、故国に帰れば弾圧や収監の危険が待っている。もし僕に悪意がなかったとしても、自分の話が変に広がって、警察に伝わることを恐れている。
「『クマの子』とのSNSでの断片的なやり取りだけだから、実際のところはよく分からないよ。けど、働いている農業会社の社長に暴行されそうになったことは事実だし、その危険が今もたいして変わっていないことも、間違いないと思う。それなのに僕は、警察に行くべきなのか、そうじゃないのかすら、とにかくよく分からない」
 二人で一時間以上もボンの墓前で、途中からは墓の前の石段に座って話していた。さすがに瑠奈の涙は完全に乾き、まぶたは腫れていたけれど、笑顔も見られるようになっていた。僕たちは、まるで子供の喧嘩のようだったかもしれない。あまりに子供っぽかったかもしれない。でもたぶん、それで良かった。それが良かったのだと思った。
「お腹が空いたね」
 話が途切れたところで、瑠奈が言った。
「メシ、食いに行こうか」
 二人、歩き出してから少しして、
「瑠奈、あのさ」
「え?」
 僕は言ってみた。
「手、繋がないか?」
 瑠奈は僕の顔を二秒くらいじっと見て、
「いいよ」
 と微笑み、僕に手を差し出した。
 そして、
「あ!」
 とその手を止める。
「何?」
「亮ちゃん、灯台下暗しだ。『クマの子』を相談するのに良い人がいるよ」
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