第1章 3

文字数 3,036文字

 杏には悪いけど、コミコミューンはあまりに混むし行かないことにした。でも、杏の同人誌はちゃんと買うからな、と伝えた。三部買って二部は知り合いに配るという形での販売協力だ。杏の大学とは近いので、直接会って、同人誌を買うことになった。
 小糠雨が降っていてひんやりと涼しく、記録的猛暑の夏もついに終わったのだと実感できる秋の日の午後だった。杏の大学そばのセルフのカフェチェーン店で、先に杏が座って待っていた。
 杏はちんまりしていて化粧もしないので、ぱっと見では中学生くらいに見える。本当は美大に行きたかったけれど、全部、落ちた。親には伏せての受験で美術系予備校にもほとんど通えず、さすがに無理だったようだ。だったら美術系の専門学校進学をと望んだのだけれど、これは事前に親にバレて反対された。杏の親は杏以上に理屈に優れ、話し合うとたいてい納得させられてしまうのだという。「まさに、グーの音も出ねえ」。結局、もう三月になってからバタバタと普通の私大を受験して今のところに落ち着いた。それでも僕の通う大学よりもだいぶ偏差値が高いのだから、もはや嫌味というよりも恐れ入るしかない。
「悪いな、わざわざ、こっちまで来てもらって」
 杏はその姿に似つかわしいアニメ声優っぽい地声で、でもわざと乱暴な言葉遣いで話す。
「いや、どうせ電車で二駅だし」
「じゃまず、最初にブツの取引から」
 杏の絵は正直言って、特別に上手いというほどではない。けれど、キャラの描画の揺れ具合、震え具合が微妙で、それが独特のエモさを生み出している。そして、彼女の描く世界は、ホラーではないのに、ひどく怖い。
 表紙は地味だ。むしろ幾何学的デザインのようと言っていい。黒と白のモノトーンが遠近法のように斜めに塗り分けられている。その先には、黒と白が複雑に溶け合った色彩で、少年の顔が描かれている。目鼻立ちはなく、のっぺらぼうだ。
「今度は何の話書いたんだ?」
 僕が袋を開こうとすると、
「家で読んで。わたしの前では読まないで」
 きっぱりと宣言された。ここでマンガの内容に立ち入る気はないらしい。いつもは、ここまでは強く拒絶しないのだけれど。
「うん、まあ、今は読まないよ」
「ただし、誰かに配るのは読んでからにして欲しい。ほら、わたしのマンガは」
「わかってる。読者を選ぶからな」
 杏の描くものは、いわゆるBLではないし、エロもグロも出てこない。そういう意味では、一見、近頃の同人誌としては大人しい方と見えるかもしれない。でも、読み進んでいくと、決してそんなことはないのだと分かる。
 高三の時、一度、モデルにされた。僕がモデルだということに、誰も気づいてはいないだろう。けれど、本人には分かる、と思う。そして、もちろん作者にも。
 そのマンガで、主人公は親身に相談に乗っていた友人に手ひどく裏切られ、人間不信に陥る。以来、あらゆることが面倒くさくて、深入りせずにとにかくトラブルを避けることを最優先にして生きている。そのせいか、あらゆることに興味を持てない。何かに夢中になっている同級生をみると、表面的にはなにしろトラブル嫌いなので応援してるよ、みたいなフリをしつつ、内心ではディスりまくる。心の中の口癖は、「クソが。死ねばいいのに」。そんなある日、主人公は瀕死の猫と出会い、かつての自分を取り戻しかける。「死ね、死ね」とディスりながらも、何とか猫を助けてやりたいと涙ぐましいほどに奔走する。しかし、偶然と運命のいたずらで、主人公に予想もしない災難が次々と降りかかってくる。この辺の描写はかなり残酷で、えぐく、救いがない。結局、猫は死を暗示された形で行方知れずとなり、主人公は傷つき、一層ひどい人間不信に陥る。主人公はブチ切れて、繁華街のど真ん中で叫ぶ。
「なんだよ、どうしてこうなるんだよ。精一杯やったよ。精一杯やってきたんだ。助けられなかった。何もうまくいかなかった。――死ねよ。死ね。死ねばいいんだ。みんな、死ね!」。
 そこで場面が暗転する。
 ラスト。主人公は教室の机で眠っている。いわゆる「夢オチ」かと思う。主人公は寝言で、「死ね、死ね」と苦しげに呟いている。その脇をクラスメイトたちが談笑しながら通り過ぎる。主人公の苦しみには誰も気づかない――。
 せめて、スルーさせるのは止めてくれ、と思った。クラスメイトが主人公の寝言を嘲笑っていた方が、まだ救われたように感じただろう。まあ、そこまで感情移入している時点で、マンガの主人公はつまりは僕だという状況証拠みたいなものなのだけれど。その最後のやや大きめのコマでふと目についたのが、猫のストラップだった。ストラップは、眠る主人公の机の上、ペンケースに結び付けられている。そのブサイクな顔。
 僕のだ。中学の時に付けていた。高校に入学する前に壊れたので捨てた。杏は僕と同じ中学で、同じクラスになったこともあった。特徴のあるストラップなので、杏も覚えていたのだろう。
 杏はじっと僕のことを見ていたのだと思う。中学の時の僕も。高一、高二の時の僕も。そして高三のその時の僕も。僕だけじゃない。杏はいつも誰かを、何かを、じっと観察している。そして描く。杏はそのマンガ冊子を一冊、僕にくれた。敢えてあのストラップを描いたのは、当時、内側はどん底だったのに外面を取り繕い続けていた僕への、分かっているよという杏なりの慰めと励ましのメッセージでもあったのかもしれない。もちろん、マンガの主人公の状況やストーリーが直接、僕と重なるわけではない。それに、杏が僕の状況をすべて知っているわけでもない。それでも、僕にとっては明らかに痛く通じるものがある。――あるいは、全てが僕の深読みかもしれない。杏は何も言わなかった。杏にとっても辛い時期だったから、杏自身が投影されていた、ということかもしれない。
「亮ちゃん、インターンシップ、全滅だったんだって?」
 今目の前にいる杏は、小さいボリュームで、でもこれも彼女の癖でかなりの早口で尋ねてきた。
「瑠奈っちに聞いたのか?」
「ああ」
「おしゃべり瑠奈」
「大変だねえ」
 呑気そうにしている杏に、
「他人事じゃないだろ」
 と言い返した。
「さあねえ」
「何? 就職活動しないの?」
「してるよ」
「そうなの?」
「何社もインターンシップ応募したよ」
 杏はそれで、アニオタでもゲームオタでもない僕ですらよく知っているビッグネームを、五つほど挙げた。僕は呆れて言った。
「舐めてんのかよ」
「ちげーよ。パパとママへのアリバイ作り。こんなにたくさん応募したけど、ほら、みんな落ちましたよって」
「じゃ、就職しないつもり?」
「そうだねえ」
「また他人事かよ」
「そうだねえ」
 杏は頬杖をつき、わざと僕から視線を外し、窓の外、昼下がりなのに薄暗い町を眺めた。
「でもどっちにしろマンガはずっと描くんだろ?」
「うん。まあね」
「就職しないで描く?」
「どうだろうね。たぶん就職しなくても、パパはわたしを家から追い出したりはしないと思うけど」
「で、プロを目指す」
「はははは」
 杏は虚ろさをことさら演出したようにして笑った。
「目指すだけならいくらでもね」
「杏の描くもの、クオリティ高いと思うけど」
「コミコミューンとかに行けばよく分かるけど、いや、その必要もない、ウェブにいくらでも載ってる同人マンガ。みんな、マジうめえんだよ」
 それで杏は、かなり砂糖をぶちこんだカフェオレをごくりと飲んだ。
「ねえ、亮ちゃん。どうしようね」
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