第6章 2

文字数 1,896文字

 家族は喜んだ。これまで親が就職に関して僕にあれこれ言うことは無かったけれど、心配して見ていることは、ありありと分かっていた。週末にはお祝いということで、母親が松茸ご飯を作った。「国内産の松茸よ」と、少なからず浮かれていた。母親のそんなところは、久しく見ていなかった。そうだった、この人は少女のように喜ぶんだよなあと、思い出した。父親も単身赴任先から戻ると、「就職祝い、何がいい?」と聞いてきた。「新車ってわけにはいかないけど、それなりにいいよ」と。
 僕本人だけが何だか取り残された気分になっていた。けれど、これほど喜んでくれている両親にそういう素振りは見せられなかった。
 SNSで友人たちにも内定を伝えた。もちろん、「クマの子」にも。
「クマの子」からは、すぐに「おめでとうございます!」の吹き出しのついたクマのスタンプが送られてきた。夜遅く、さらに、過去一番の長文メッセージをくれた。
「犬さん、就職内定、おめでとうございます。
 私には、大学がどんなところなのかは分かりません。ただ、働くということについては、以前、犬さんとSNSで少しやり取りしてから、自分でも調べたり考えたりするようになりました。ですので、学ぶ人から働く人になる犬さんに、私が考える『働くこと』について、書いてみようと思います。
 私の知っているのは農業だけだから、犬さんの仕事とはだいぶ違うのかもしれません。インターネットやSNSでは、働くこととは自己実現だ、みたいなことが書いてあるのをよく見かけました。正直、私の回り、ここに働きに来ている人たちがみんな自己実現と思っているのかは、疑問です。私自身も疑問です。それよりも、前に犬さんが書いていたように、生きていくお金を稼ぐためという方がピンと来ます。大変だと思います。厳しい。かつて父と母が病気になったのは無理したからです。前に犬さんとやり取りしていた時に、私がたずねたと思います。働いて自分が壊れても、それでもお金が足りなかったら? 父と母は、まさにそういうことだったのです。ここよりずっとひどい状況ではありましたが。何が自己実現だよ、と思ってしまいます。そんなことが言えるのは、ほんの一握りの人たちだけじゃないのかって、思います。たぶん、私はその一握りには入れない。だって、私の回りで同じような立場の人たちには、その一握りに入っている人なんて全然いないから。
 犬さんはどうでしょうか。大学に通って、卒業しますね。私の回りとは違う。でも、犬さんの書いてくれることとか、あとインターネットを見ていると、そんな犬さんでも、仕事で自己実現なんてするのは、やっぱり難しそうです。きっと、犬さんが就職してから経験する大変さの種類は、私や父や母の大変さの種類とは全然違うのでしょう。けれど、やっぱり大変には違いないんだろうなって思います。立派な会社が詐欺みたいなセールスとか、検査の偽装、あるいは異常なノルマでニュースに取り上げられたりもします。
 世の中の働くことの大変さ、――必要な大変さは仕方ないと思うんです。でも、不必要な大変さにも満ちています。私の回りにはたくさんあるし、犬さんの回りにも、きっとあるのでしょう。これが減っていけばいいのにと思います。そうしたらもしかしたら、みんな、自己実現にちょっとくらい近づけるかもしれない。では誰が、減らしてくれるのでしょう。
 私は少しだけ想像してしまうのです。犬さんは偉くなろうとは思わないって言ってたけど、でも、私の相手をしてくれた、私の知っているやさしい犬さんが偉くなって、もし世の中から不必要な大変さを減らしてくれたらって。
 なんか、訳の分からないこと言ってますね。意味分からないですよね。就職内定のお祝いのメッセージなのに。すいません。でもいつも思っていることを書きました。きっと、初めのうちは毎日を過ごすので精一杯だと思いますが、でも犬さんには未来があります。可能性があります。私よりもずっと。私は期待しているのです。
 おめでとうございます。
 もし良かったらこれからも、就職してからも、暇な時だけでいいので、時々、SNSで私の相手をしてくれたら嬉しいです。」
 「クマの子」は、おそらく僕とはかなり違う環境に生まれ育ってきた。それでも感じ方は近い。「クマの子」が言いたいことは伝わる。就活してきた中で、あるいは父の姿をずっと見てきて、「クマの子」の指摘には感じるところが大いにある。
 とはいえ、「クマの子」の僕への期待は明らかに無理筋だ。僕にそんな力は無いし、これからもきっと無い。「クマの子」よ、過剰な期待は止めて欲しい。
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