第2章 3

文字数 5,039文字

 増尾の姿を見なくなった。FMAの活動に出てこなくなった。授業ですらあまり見かけなくなった。結果、増尾班は消滅し、僕もまたFMAでの活動場所が無くなった。佐伯さんみたいに他の班に移ることは出来たけれど、なんだかもうそれも面倒になっていた。どうせ翌年の一月で三年は引退になる。あと数か月、幽霊部員で上等だ。
 秋以降はインターンシップを名乗っていても、会社によってはもう事実上の就職面接になろうとしている感じがした。けれど僕は依然として、書類選考で落ち続けた。大学の就職相談センターや就職斡旋会社のカウンセラーにも会ったけれど、そんなの分かってるということを聞かされるばかりで、うんざりだ。
 講義に出てみても空虚だった。そもそも興味のある学問分野でもなく、勉強しているうちに興味が出てくるということもなかった。就職活動は出遅れたまま進まず、サークル活動も無くなり、これといってやりたいこともない。なので、バイトを入れられるだけ入れて小金を稼いだ。このままじゃ拙いのは分かっているけれど、じゃあ、どうしろっていうんだ。
 十二月に入ってすぐのことだ。増尾を見なくなってから一カ月半くらいが経っていただろうか。僕は学食で同級生と昼食をとっていた。「増尾さあ、実家のある地元の企業から内々定を貰ったらしい」。そう聞いて、食べかけていた鶏の唐揚げを思わず取り落とした。まだ十二月なのに? もう? サークルの中をかき回して勝手に姿消したと思ったら地元で? 僕は飲んでてあいつに胸倉まで掴まれて、慰めてやって、愚鈍に講義出続けて、インターンシップにも応募し続けて、落ち続けて、全然前に進んでいないっていうのに? ふざけんな。ふざけんなよ――。
 激しい感情は翌日には収まっていたけれど、ただ、もう増尾には会いたくないと思った。
 時々、バイト先で木南さんを見かけた。夏の終わりに連絡が来た飲み会には、参加予定の面子を見てこれは無いなと思い、行かなかった。バイト現場で木南さんと会うと、「また飲み行こうね」といつも互いに言い合う。でも実現しない。過去何度もバイト仲間で飲んでいるし、僕が企画すれば来てくれるとは思うのだけれど、僕の中ではそこまでの優先事項という感じでもない。めんどくさい。
 木南さんは、相変わらず、何をしているのかつかみにくい人だった。ついこの間、どこだったかで話したバイト仲間は、木南さん、ガールズバーで働いているよと、店の名前まで教えてくれた。金を払って客として木南さんに会いに行くつもりはなかった。別の人は、木南さんってもう三十過ぎなんだって、と言った。そうなのかもしれない。そうじゃないのかもしれない。女性の、特に綺麗に化粧している女性の年齢は、僕ごときには分かりはしない。もし本当なら、木南さんは本人が十七で上京したと言っていたから、今みたいな感じの毎日をもう十五年くらい過ごしていることになる。それは木南さんにとって、あっという間だったのだろうか。それとも、長い長い日々だったのだろうか。これも、僕ごときには分からない。

 増尾からLINEが来たのは、年内の講義が終わる直前のことだ。二人で会って話がしたいとあった。LINEの文面からして完全な平謝りで、確かにもう増尾の顔なんか見たくはないけれど、でも増尾の真摯っぽいLINEすら無視するほどに強い思いも、今はもう無い。結局、時が経ってしまえば、増尾のあれこれは僕にとってはいずれもたいしたことではないのだった。
 そして、いつのまに増尾の良からぬ評価がFMA女子の間で蔓延していた。粘着質だとか、変に上から目線だとか、何様だよと思うよねーとか、そういうのだ。当たらずとも遠からず。でも、生理的にダメ、なんていうのまであって、それはちょっと言い過ぎじゃね?と、同性からは思える。増尾も状況は察知しているようで学食のFMAのたまり場には近づきたくないらしく、大学近くのビア・バーを指定してきた。ビール代は俺が払うからと言って。
「今更だけど、ごめん。山崎に八つ当たりして悪かった」
 乾杯し終えると一番に、増尾は僕にそう言って頭を下げた。久しぶりに会う増尾は、悪評を流されているにもかかわらず、もうどこか解脱したかのようにさっぱりとした表情をしていた。
「就職決まったんだって?」
 こっちから振ってやった。
「ああ。実家に戻るよ。Uターン就職。ちんけなスーパーだよ」
 それで増尾は天井を見上げて、中くらいの大きさのため息をついた。わざとらしくないため息では最大、という感じに聞こえた。
「ちんけな町のちんけなスーパーだ。そこのオーナー社長が俺の爺さんの幼友達でさ。ま、コネだよ」
「まだ正式な就活期間も始まってないのに、決めるの早くね?」
「地方企業は採用数も少ないしな。埋まらないうちにってことだ。その方がスムーズだしな」
 今目の前にいる増尾は、僕が大学で知り合ってからの三年弱の間で、一番話し易い感じがした。だからだろうか、僕は尋ねていた。
「こういうこと、ちゃんと聞くことって無かったけどさ、増尾って、上京してきて、何か志すところってあったの? それとも、まずは東京に出て考えようみたいな?」
 増尾は、過去を振り返る感じで遠い目をした。
「志すところはさあ、もやっとあったんじゃないかな。すげえ偉くなってやろうみたいなのは無いよ、そりゃ。大学のレベルだってそうだし。もちろん、うちの大学だって何しろ全体の人数が多いしさ、尖って飛びぬけたヤツ、世界に出ていくようなヤツもいるんだろうけど、少なくとも俺は、俺自身について、そんなことは考えなかった。いくら田舎にいても、それくらいのことはちゃんと分かっていたよ。でもそれと同じくらい、Uターン就職するとも思わなかった。俺はこんな田舎で終わる人間じゃないとか、他の奴らとは違うとか、思ってたんだなあ。恥ずいな」
 増尾は自虐的に笑い、お気に入りのクラフトビールをぐっと呷った。
「山崎さ、俺の出身のH市には、来たことないだろ?」
「近くまで行ったことはある。S市とか」
「あそこはちょっとは観光資源もあるからな。行ったのはS寺だろ?」
「まあ、そうだな」
「H市には何も無いよ。ただ、田んぼがあって、農道が走っていて、さびれた駅があって、ピークを越えた感じのモールがあって、国道沿いにいくつか店が並んでいる。そういうところ。で、県立の普通高校、工業高校、商業高校が一つずつある。電車に三〇分くらい乗ってS市までいけば県立の進学校もあるけど、俺はそこまでは行かなかった、っつうか、行けなかった。だからH市の普通高校に、H高に行った。H高では、結構イケてる方でさ、成績もまあまあだったし、部活はサッカー部で、弱かったけど副主将で、まっさん、まっさん、って呼ばれてた。女子にもそこそこモテてたし、仲間同士でモールの屋上で踊って撮ったTikTokはちょいバズッたし。TikTokだけ見てると、東京のヤツらと変わらないじゃんと思ったんだよね。十分イケてる、東京でも全然大丈夫と思った」
「H市と東京で、そんなに違うか?」
 すると増尾は少し考えた。
「東京にも俺みたいなヤツ、俺くらいのヤツは、たくさんいる。ってか、俺くらいのヤツがほとんどだ。その意味じゃ違わない。違ったのは、俺が自分のことを少しだけ特別だと勘違いしていたってことだ。TikTok、俺の動画の方が都心の高校生の動画より『いいね』が何倍も多かったりして、東京の大学への進学も決まって、勘違いした。俺はH高ではちょっと特別だったけど、東京では、ってかH高を出てしまえば、ありきたりの普通の存在でしかなかった。ホントに、ごくフツーの存在でしかなかった。東京に出てきておそらくすぐに、そのことにうっすら気づいたんだと思う。でも、ちげえよ、これからだよ、俺は特別だったじゃん、と思いたかった。そっちが勘違いなわけだから、ま、儚い希望は壊されていくよな。合コンでもクラブでも、あらゆるところで、それがぐいぐい実感されてくる。おかしい、何かおかしい、こんなはずじゃなかったと思って、でも何もできないうちに、もう三年だ。就活だ。今度はインターンシップにも受からない。全然、受からない」
「まだ諦めんなよ。インターンシップに行けなかったのは増尾だけじゃねえよ。俺もだよ」
「でも山崎は、勘違いなんかしてなかっただろ?」
「就活、ここまでダメだとは思わなかったけど」
「それでも、おまえは分かってたよ。それが結構、癪に障りもした。見下されてるみたいで。俺と同レベルのくせに見下してるって」
「見下してねえよ」
「分かってる。今は分かってる。ただ、そんなふうに感じたこともあったってことだ。大学で三年に進級してすぐ、地元に残っていたヤツからSNSが来た。就職でUターンしないかって。その時は断った。まだどこかに、俺は特別なんだって思いの残りかすが燻っていたんだ。でも、その残りかすもどんどん吹き飛ばされて、追い詰められていく。帰るのか? 東京で何も出来ず、何も残せず、H市に、何も無い町に帰るのか? ――爪痕を残したかった。その最後のとっかかりが佐伯だったんだよな、きっと」
 急に佐伯の名前が出てきて、僕は、
「え?」
 と聞き返した。
「佐伯、G女だろ?」
 増尾は、佐伯の出身校、G女子高の名を挙げた。
「それが?」
「そこな」
「え? 何が?」
「伝統あるお嬢様学校のG女はさ、俺にとって、東京の特別の象徴だったんだわな」
「そうなの?」
「山崎にはピンと来ないかもな。もし佐伯と付き合えたら、やっぱり俺は特別で、だから東京で就職も出来るんじゃないかと妄想したり、そのすぐ後では、たとえUターン就職になっても、佐伯と付き合えたっていう、何て言うかな、特別であることの証明が自分の中に残せるだとか、――佐伯にも失礼な話だよな。あいつは、そういうところも、もしかしたら見透かしていたのかもなあ。必要以上に、きっちりと拒絶されたしなあ。それでやっと踏ん切りがついて、で、昔の友だちにも連絡して、地元企業のインターンシップだとか、そういう情報をかき集めだしたんだよ。実家に帰って親とも相談して、後は東京と実家を行ったり来たり」
「大学の講義、ずっと出てなかっただろう?」
「いや、進級出来るギリギリは出てたよ。何か気まずくて、おまえや、他のFMAの奴らに見つからないようにしてた、かな」
 その様子を想像すると、かなり可笑しく、少し哀しくもあった。でも増尾はさして気にするでもなく、続けた。
「親だけでなく、東京にいる兄貴とも今後について話をした。あのスーパーに決めるまでに一カ月以上かかったな。まだ時期的に正式じゃないけど、解禁日に来れば入れてあげるよって。ちんけなスーパー」
「とにかく良かったじゃん」
「どうだかな。――東京から地元に、しかも生半可な衰退ペースじゃない地元にUターンすることの重たさは、山崎にはたぶん分からないだろうなあ」
 確かに増尾の様子をみれば、希望に満ちた場所といは言いづらくなる。本当のところどうなのかは、僕は知らないけれど。黙ってしまった増尾に僕は、
「それでも、お前を受け入れてくれるところがあるだけいいんじゃね? 東京生まれには東京しかない。就職が決まらなくても、ここにいるしかないんだから」
 と自虐で慰めっぽいことをもごもごと言った。そうしたら増尾は、ふと目覚めたように、改めて僕を見た。
「そうだな、山崎も、就活うまくいってないんだったな」
「全然ダメだね」
「H市に来るか?」
「Iターンかあ。でも、さっきも言ったけど、まだ正式な就活期間が始まる前だしな。東京で引き続きトライする」
「大変だな。俺、今、H市をディスったけど、広々してて、のんびりしてて、コメも美味いし、そんなに悪いところでもないから。って今さらフォローしても遅いか。それに、これからは俺もいるし、って、これも全然、アピールにならないな」
 それで増尾は、カラカラッと笑った。全面謝罪モードから憂鬱モードを経て、平常運転に戻ってきたようだ。調子の良いヤツだ。あまり好きでもないし。でも、と僕はカウンターのビアグラスを見る。ビール代は増尾の驕りで、会いたいと言ってきたのも増尾で、おそらくは僕にない何かを持っているのも増尾だ。もしこいつがいなければ、僕の大学生活はもっと単調で味気ないものになっていたのかもしれない。そう思うことにする。
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