第5章 1

文字数 4,064文字

 増尾から突然にLINEが来たのは夏休みに入る少し前だ。
「夏休み、どうする?」
 どうもこうもない。まだ就職先が決まらない以上、就活を続けるしかない。ヤツは地元スーパーに決まっているからいいが。で、返信を何度か書いたり消したりしてから、ただ単に、
「就活」
 と二文字で返した。その返事はすぐ来た。
「俺の行くスーパー、話だけでも聞いてみる?」
 あー、同情をかけられているのかと思った。すぐに次のLINEが来た。
「そのスーパーだけじゃなくて、こっち、意外と人手不足。別に田舎でなんか就職したくないってなら、それでもいい。気分転換でもいい。一度、来ない?」
 増尾の意図が分からない。既読がついたままで放置して、他のSNSを流し見していたら、また増尾からLINEが来た。
「結局、山崎だけなんだよね、こっち来いよって言えるの。俺の高校の時に一緒だった奴らに会わせられそうなの」
 増尾は結構顔が広かったし、あちこちに出入りしていた。そんなふうには見えなかった。
 また十数分して、LINEが来る。
「山崎には佐伯とのこととかバレてる。だから俺のH市のくそダサいことも別にもうバレてもいい。こっちに来いよ」
 要するに、とにかく来て欲しいみたいだった。
 「クマの子」は僕に書いてきた。「世界はきっと広いです」。まずは身近なところからだ。
 僕は増尾に、「りょ」と変顔の犬から吹き出しの出ている了解スタンプを返した。

 一面に広がる青々とした稲穂の海。その真ん中、真っ直ぐに伸びる農道を、僕は原付の後ろに乗って走っている。前に乗っているのは増尾だ。
 X県H市、その端っこの辺りを僕と増尾は走っている。灼熱の太陽が脈を打っているように感じられるのは、おそらく僕が自分の脈を、心臓の音を感じているからだ。
 たしかに暑いのだけれど、風がびゅんびゅんと吹き付ける。増尾の後ろにいてもだ。かなりスピードが出ている。
 嗅いだことのない匂いがずっとしている。真夏の水田の匂いなのだろう。それに、感じたことのない風の肌触り。これもまた、真夏の水田の風の肌触りだ。
 東京から途中まで新幹線を使っても四時間はかかる。家を出たのは七時前、途中でローカル線に乗り換え、十一時にG駅に着いた。観光客目線でみれば何も無い駅であり、何も無い場所だ。駅を降りても店などない。ガランとしたロータリー、というか広い空間があり、でも車は一台も止まっていない。空地か耕作放棄地かみたいなところに家やアパートが粗くばら撒いたように散らばるだけだ。
 間もなく、駅から真っ直ぐに伸びた道を一台の原付がやってくるのが見えた。次第にそれが増尾だと分かってくる。LINEで電車の着く時間を知らせておいたのだ。
「悪い、待ったか?」
 東京で見る増尾と、やはり明らかにどこか違うのだった。ここは増尾の「ホーム」だ。
「いや、今着いたところ」
「ほれ」
 増尾は前かごに入れてあったヘルメットを僕に放ってよこした。
「うちには車二台あるんだけど、親父とお袋がそれぞれ仕事で使ってるんで、原付で案内するわ」
 僕がヘルメットを着けるのに手間取っていると、
「あれ? もしかして原付とかバイクとか、乗ったこと無い?」
 と尋ねてきた。
「無いよ。初めて」
「そうか。いまどきの東京の若者は乗らないかあ。かもなあ」
 と唸りながら、手伝ってくれた。
 後部座席に座ってみる。座席とも言えないような心もとなさがある。二人乗り可能なタイプの原付らしいけれど。増尾も前の席に跨る。つかまるような手すりや棒があるかと探すけれど、見つからない。どこで支えようかともぞもぞしていると、
「何?」
 増尾が振り返った。
「いや、つかまる場所ないかと思って」
「あ、これ、グリップ無いから。俺につかまってくんない?」
「増尾のどこに?」
「慣れないヤツはしょうがねえなア。山崎、ど初心者だし、安全第一だな。ちょいキモイかもだけど、俺の腹に手回してつかまっとけよ」
「え? こうか?」
 おそるおそる両手を廻し、増尾を抱え込むようにして、腹の前で両掌を組む。
「行くぜ」
 エンジンがかかり、いきなりガンと加速した。僕は慌ててしがみつく。増尾が笑っているのが聞こえるし、増尾の腹筋が揺れているのが感じられる。不愉快だ。
 まずは徐行で、駅からのがらんとした道路を抜けて県道に出る。少し離れたところにスーパーやドラッグストア、飲食店などがいくつか並んでいるものの、真夏の日中ということを差し引いても、通りを行き交う人通りはあまりに少ない。わずかな客たちはみな、車で乗り付け、必要なものを買い、さっさと帰る。そんな感じだ。
 すぐにその辺りを通り過ぎ、原付は加速する。少し走ってから道を折れると、景色はどっちを向いてもほぼ稲穂で埋め尽くされる。遠く、ところどころに住宅を取り囲むように纏まった木立が見え、車が道路をぽつぽつと走るのが見え……。それらのささいなアクセント以外は、景色の下半分は陽光を浴び風に揺れる稲穂の濃い黄緑、上半分はちぎり投げられた綿菓子のような真っ白な雲が流れる空の紺碧だ。
「少し、本気だす」
 原付がさらに加速する。
 マジか。俺はまだ、お前と心中する気はないぞ。
 自然、増尾に回す両腕に力が入った。
 増尾が何か言っている。でも、風を切る音で、よく聞き取れない。増尾は上機嫌だ。また笑った。笑い声ではなく、腹筋の震えでそれが伝わる。
 むかつく。むかつくけど、あまりビビっているのは見せたくない。それに、実際、風は気持ちがいい。間近な稲穂はビュンビュン後ろに飛んで流れていく。遠い稲穂の海は風に緩やかに波打つだけで、のんびりとそこにある。もっと遥か彼方、雲や空や、その先の太陽はもう悠久で、一瞬ごとに移ろいつつも何億年、あるいはそれ以上、変わりがあるわけもない。そうした大きな世界の中にいるという確かっぽい感触は、スピードへの興奮を上回り、徐々に僕の心を落ち着かせる。
 確かっぽい感触がもう一つ、増尾からも伝わってくる。僕は彼に触れ、彼と身体をくっつけていることで、落ち着いていく。リラックスしていく。これもまた、僕を包む大きな世界を構成している。
 ああ僕は、もうずいぶん長い間、誰にも触れていない。手もつないでいないし、握っていないし、ハグもしていないし、おんぶも抱っこもしていないし、抱き合ってもいない。バイト先の女子としようとして出来なかった一件、あの時は触れはしたけれども結局はうまくいかなかった。それを除いてしまったら、いったいどこまで遡れば、僕は誰かと触れ合っていただろう。
 大地や空や太陽の確かさは、そりゃ間違いないんだろうけれど、所詮、遠すぎて僕には直接関係のないものだ。だからある意味で、そこから訪れる安心感は僕にとっては錯覚だ。錯覚だって、ないよりはマシかもだけど、実際、気持ちもいいけれど、でもやっぱり錯覚だと僕は思う。
 じゃあ、増尾はどうだ? 増尾もまた錯覚なのか? だって増尾との関係は、たとえばボンとの関係に比べたら限りなく希薄だし、どうでもいいと思っていた。それなら増尾にこうして触れて得られる安心感も、結局は錯覚なのだろうか――。
 十数分も走った頃、真っ平に続く稲穂の海の先に、太陽光を反射する蜃気楼じみた建物が見えてきた。
「あれ、俺の出た小学校」
 小学校との距離は、高速で走る原付のおかげで、ほんの二、三分でゼロになる。
 フェンスに囲まれた広さは東京ドームほどもありそうだ。校庭にはこれまたデカいグラウンドがあり、周囲には天然の芝、さらにその周りに木立が散在する。その向こうに校舎。築年数は浅そうに見える。壁は半分以上がガラス張りになっていて、葛西臨海公園の展望レストハウスに少しだけ似た美しい建物だ。
「すげえな」
「だろ?」
 小学校の校門の前まで来ると、増尾は少し鼻を膨らませた。徐行して周囲を一周する。
「俺が小学校にあがる二年前に出来たんだ。なかなかだろ? もちろん隈研吾とかじゃないけど、そこそこ実績のある建築家が設計したって話だ。ほれ、あそこ、昇り棒が見えんだろ? 俺、昇るの早かったからね。鉄棒もばりばり回ってたし。まっさんって呼ばれ出したのも、この頃だなあ」
 この自慢話に一日付き合うのかと思うとげんなりしなくもなかったけれど、見ず知らずの小学校を前に、なぜか僕の中にも不思議なノスタルジーが湧いてくる。
 やがて原付が再び加速する。
「よし、行くぜ。次、中学な」
 小学校から中学校までは、原付で三分で着いた。中学校の校舎は、小学校とは打って変わって、地方色を前面に出した建物だった。構造は鉄筋のようだけれど、外装などには木材が使われていて、各所に赤い三角屋根があしらわれ、大きな山小屋のような風情なのだ。
 そこをまた徐行で一周し、増尾は外から見えるあれこれについて、僕にとってはどうでもいい注釈を加える。
 次に僕たちは増尾の出た高校に行き(ここは、つまらないマッチ箱みたいな直方体の校舎で、でもグラウンドだけは贅沢に存分に広がっていて、炎天下、野球部が練習をしていた)、ここら辺一帯の救急搬送先になっている総合病院の前を通り(ここは、増尾にも特に思い入れはなかった)、よく高校からの帰り道に立ち寄ったというコンビニでちょっと一息入れ(イートインでアイスを食べた。増尾はここの思い出話をしていたけれど、あまり記憶には残っていない)、そしてまた二人で農道を走った。
 やはり、どうしたって増尾の地元にはそんなに興味は湧かない。ただそれでも、信号も建物も遮るものなどほとんど何もない、田んぼだけに囲まれた農道を、原チャリにだみ声で絶叫させながらぐんぐん風を切って飛ばしていくのは、素直に気持ちが良かった。
 僕は時々、何十秒かの間、目を閉じてみた。しぶとい陽光がまぶた越しに僕の作った闇をうすら明るいものにしたけれど、それでも何も見えはせず、ただ風だけが吹き付け、吹き抜けていって、僕は増尾にしがみつきながら、もしかしたら最高かもと思っていた。
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