第6章 4

文字数 2,750文字

 内定を貰ってから一段落した十月半ば、長患いしていた祖父が亡くなった。祖父が住むのは長野で、父親は弔慰休暇を貰って単身赴任先の福岡から東京に戻り、喪服を持って家族三人での小旅行となった。祖父はもう八十七で寝たきりになってから既に二年ほどが経っており、老人ホームに入所していた。家は伯父夫婦が引き継いでいて、そうした実家をめぐる状況はちょっと増尾のところを思い出させる。代々医者の家系で祖父は開業医、今は伯父に代替わりしている。家は街中にあり、数年前に建て替えられてまだ真新しい。
「亮ちゃん、就職決まったんだってね。おめでとう」
 と伯母さんに声をかけられた。
「亮ちゃん、来年から社会人かあ、マジかあ」
 従兄の雅ちゃんには驚かれた。雅ちゃんもまた医師になっていて、今は市内の総合病院で内科医をやっている。
 もう何年も前、雅ちゃんが大学受験生の時に僕は中学生で、雅ちゃんに、やはり医大を受けるのかと聞いたことがある。雅ちゃんは当たり前というように肯定し、僕が、代々医師の家系だからなのかと更に尋ねたら、それもあるかなあ、とふわっと受けた後で、こんな風に答えた。
「でもそれよか、医学に興味があるから受けるっていう方が大きいかなあ」
 その、重くなり過ぎず、でもきちんと軸が定まっている感じが、かっけえ、と思ったことを鮮明に覚えている。
 今、改めて、高三で早くも職業選択を済ませていた雅ちゃんに、職業観について聞いてみたくなった。
「雅ちゃん、医者になってみてどう? 大変?」
「だねえ。当直もあるし」
 それで、雅ちゃんは僕に駆け出し勤務医のハードな毎日を、面白おかしく語ってくれた。冗談じゃなく、過労死が問題になる業界だ。
「面白い?」
「面白いってか、やりがいはあるんじゃないかなあ」
「ほら、やりがい搾取とか言うよね。あと、過労死事件もあったし」
「だなあ。確かに、やりがい搾取的なところはあると思うよ。やりがいってか、使命感搾取だな」
「それでも、この道で良かったって思っている?」
「後悔はないね。うちはほら、代々医者だし、勤務医の実態なんて全部わかってたからさ。俺が子供の頃はじいちゃんが開業して、親父は勤務医で、毎日見てたから。その上で選んでるんでギャップは少ない。あとさ、俺、来年からまた大学に戻るんだ。大学院に行くことにしたよ」
 自己実現だ、と思う。「クマの子」がダイレクトメッセージで書いてきた「一握り」がここにいる。
「進む道、はっきりしてるね」
「そうでもないよ。手探りだって」
「そうは見えないけどなあ」
「人から見ればそうかもだけど。本人にしてみれば、医学部行ってからも、そこからどう進むかは、あっちこっちふらついてる感じだよ」
「雅ちゃんにそう言われると、俺なんか、どうすんだって」
「迷いあり?」
 母親の方の血なのか、やたら大柄な雅ちゃんは、身体を横に傾けるようにして僕の顔を覗き込んだ。
「迷いも何も、内定、今のところ一社だけで、しかも秋になって漸くだから! しかもしかも、かなりブラックっぽいですから!」
「威圧すんなよ、亮ちゃん。怖いぞ」
 それで雅ちゃんは、ちょっと周囲を窺い、リビングの回りには僕らだけしかいないことを確認してから、やや声を潜めて言った。
「俺、ホント、亮ちゃんは立派だと思ってんだよ」
「何、急に」
「ほら、叔父さん、いろいろあって、叔母さんも調子おかしくして」
 親戚だし、そのへんのことを雅ちゃんは全部知っている。両親の通った病院も、伯父の紹介だった。
「でもそれと、俺が受験失敗ばっかりして就活も苦労したこととは、関係ないっしょ」
 僕は、内心で思っている呪いとは逆のことを口にした。
「亮ちゃんさ、もっと我儘でもいいんじゃね?」
「どういう意味、それ」
「そのままの意味だよ。――いいじゃない、気に食わない会社なんだったら、別に就職なんかしなくたって」
「いや、そういうわけにはいかないでしょ」
「行く行く。亮ちゃんは、基本ちゃんとした人だし、きっとおかしなことにはならない。子供の頃から変に気を遣っちゃってたんだからさ、もう誰にも何にも気を遣わないで、少し自由にしてみたらいいよ」
「他人事だと思って、無責任言うなよ」
「でもさ、そうしないと亮ちゃん、自分が何したいんだったかも分からなくなってるんじゃないかな」
 僕が何をしたいのか。両親のことがある以前、もう遥か昔だけれど、その頃から僕には特に何も無かったと思うのだ。木南さんみたいな緩い感じの夢すらない。実現すべき自己などない。使命も感じないし、代々引き継がないといけない職業も農地もない。
 いまの僕は見事に空だ。なぜだか期待をかけてくれる「クマの子」に謝りたいくらいだ。

 葬儀を終えて東京に戻った後しばらくは、僕にしては珍しく予定が詰まっていた。バイトで割烹の他に、ドラッグストアのレジ打ちが午後から夜まで、四日続けて入っていた。取り残した単位のために週に三コマ、授業に出席しなくてはならなかった。それに加えて、さすがに卒論を本気で始めないと間に合わない。まずは概要提出だ。
 だから、ボンへの内定報告をしに、例のデパートの屋上に行けたのは、もう十月も終わり頃になっていた。あの頃と同じ夕方の時間に行くつもりだったのだけれど、卒論の参考文献のコピーに手間取り少し遅くなったら、もう日が完全に暮れていた。
 僕は一人ベンチに座り、空を見上げる。曇り気味、星もあまり見えない。
 ボンは、将来、何をしたかったんだろう。そんな真面目っぽい話を語り合ったことなど無かった。ただ何となく、ボンはきっと、親と同じ弁護士になるんだろうなと思っていた。おそらくは母親と同じ人権系。誰かのために躊躇なく突っ込んでいけるボンなら。僕がそう言ったなら、きっとボンは、買い被りだと言うだろう。でももし彼が生きていたのなら、きっと、そうなっているんじゃないだろうか。躊躇なく、ごく自然に、息を吸うように、自分の道を選び、進む。普段の一挙手一投足がそうであるように。
 そんなボンは、ぐるぐるしている僕に何て言うだろう。雅ちゃんは、たしかに鋭いところ、きついところ、真実に近そうなところをえぐっていった。本人的にはそっと諭すように撫でていったのだろうけれど。
 でも、雅ちゃんは知らない。僕のどうにもならないところを知らな過ぎる。僕は雅ちゃんの言うような「ちゃんとした」人なんかではない。
 ボンにはバレていた。僕がすぐに誰かに対して「死ね、死ね」と呪ってしまうことや、人を信じられないことや、ウザがることや、優柔なことや、そういう全てがバレていた。でもボンは僕を責めず、だから僕は次第に隠す気も無くして、それでボンはいつも呆れていた。「また、死ね死ね光線だね」などとまぜっ返しながら。
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