第36話 ヤマモモ
文字数 6,408文字
小説に行き詰まるとこっちを書いている。
本来、ストーリーテリングよりも、こうしてつれづれ心に浮かぶ思い出を書きつづる方が、性に合っているのかも知れない。
筆がノッていないのに、無理矢理SFやファンタジーを書いていると、どうしても描写がいい加減になり「ウソっぽい」とか「しらける」「陳腐な」展開や描写になりやすいってのもある。
そういう時……っていうか、いわゆるスランプの時。これまでは飼育している生き物に餌をやったり、ビオトープを改造したりしてストレス解消していたのだが、今は妻の圧力に屈して生き物は殆ど手放したし、依頼を受けているビオトープも近場にない。
そうなると、このエッセイばかり書くことになる。
さて。主題である。
初めてヤマモモの実を見つけたのは、町中であった。つまり街路樹。
最初にそれに気付いたのは、大学の時。何語なのかは知らないが『ペデストリアン』と称される高架歩道を、自転車で駆け抜けている時であった。
この高架歩道=ペデストリアン。
車道とほとんど交差も並行もしていないので、車で来た人間は存在すら気付かない。だが、寮に住む学生達にとっては、まさに生活の動脈。命綱といってもいい存在であった。
なにしろ、歩道といいながら、自転車の方が走りやすく出来ている。段差もアップダウンも少なく、信号もない。ゆえに皆、全速力で飛ばしていく。
それに引き替え「ループ」と称される循環車道は、その名の通り周辺部を囲む形でしか動けず、ゆるくカーブしているから見通しも悪い。その上、スピードを出しすぎないよう、ところどころ凸凹やポールをわざと設置してあるというご丁寧さである。
北端の学生寮を、車と自転車でほぼ同時に出発した場合、ヘタをすると自転車の方が先に南端に着くこともあるくらいなのだ。
その高架歩道上を通っていた、ある日暮れ時。
南端の学生寮を更に越え、センタービルと呼ばれていたバスターミナルに向かう途中の池の畔に、ボトボトと落ちて踏みつぶされている木の実を発見したのである。
飛び散った赤黒い果汁は、ちょっと血に似ていて不気味だった。
それにしてもすごい量であった。血に喩えるなら、乱闘したヤンキー十数人が鼻血を撒き散らしたがごとく、その実は歩道を埋め尽くしていた。
あまりにも多くて、自転車がスリップして危険なほどである。俺は立ち止まってソレが何であるか確認した。
「うおおおおお!! もしかしてコレ……ヤマモモ? マジ?」
俺は思わず歓喜の声を上げていた。
それは、たしかにヤマモモの実であった。
ヤマモモ、といえば、俺は椋鳩十の動物文学を思い出す。だが、どの作品であったか……と考えると曖昧だ。ひとつふたつではなく、様々な作品に登場していたように思う。
サルが美味しそうに食べる描写があったようにも思うし、少年が脱いだシャツにぎっしり包んで持ち帰る話もあったかと思う。
特にそのシャツが汁で赤く染んだ描写が、シンプルながら非常に美味そうで、子供心にどんな果実なのか想像を馳せ、心ときめかせた覚えがある。
なにしろ「山の桃」である。
桃の甘さ、香り高さを持ち、しかし野趣溢れる小さな実。きっと美味いに違いない。
そう思っていたのだ。
だが、ヤマモモは本来南方系の木。俺の生まれた北陸は、ちょうど北限の境目に当たるらしく、県内でも西の方へ行かないとないし、あっても個体数は少ないらしかった。
だから、どんな実なのか全く知らなかったのである。
実の姿を知ったのは、大学に入ってから。『アケビ』の項で購入した山菜本に載っているのを見て、ようやくヤマモモの実がいかなる物か理解した次第。高架歩道上に散乱したヤマモモの実を発見したのは、ちょうどそんな頃であったのだ。
ここは北関東。南方系の木の実が、こんなところにあるとは思いもしなかった。
だが、現に目の前にある。大量にある。一体どういうことなのか?
つまりは、こういうコトなのだ。
街路樹や公園樹は、地域の気候や環境に合わせて違うものを選定すべき……とは、どうも官公庁は思っていないらしいのだ。以前の施工例を元に、どっかで似たような状況があって、そこにヤマモモが選定されていたならば、違う地域の工事でもヤマモモを選定してしまうというわけである。
その樹種が南方系だとか、乾燥地に適しているとか、そんなことはお構いなし。先例があるから正解、なのである。もし枯れても担当者の責任ではない。もし地域に合わせて違う樹種を選定してみて、それがダメだったら担当者の責任になってしまう。
受注業者もそうである。
指定された樹種は地域に合っていなくて、もしかすると枯れてしまう可能性がある、と思っても、官公庁の担当者が指定した樹種と違うものを納入して、もし枯れてしまいでもしたら、責任はすべて業者に来る。
そんな危険を冒すくらいなら、注文通りに植えておいて枯れた方がマシ。
いやむしろ、枯れてしまえばまた伐採&植え替えの仕事が出る。
結局、官公庁の担当者の無知と、受注業者のいい加減さが、この状況を生んだのであろう。だが、ヤマモモにとっては幸いなことに、枯れるほどの温度低下はおきず、実を付けるまでに育ったわけである。
例の山菜ハンドブックには「少しヤニ臭いが生食できる、果実酒にすると美味」とあった。
落ちている実の中で、綺麗そうなのをひとつつまんで食べてみると、酸味も甘味もほどよく、なかなかの味わいである。食べ終わった後、たしかにわずかなヤニ臭さ漂うが、この程度はクセではなく、むしろ楽しむべき風味であろう。
俺はすぐに学生寮にとって返すと、カサを持って出陣した。
むろん、べつに雨が降り出したわけではない。
ヤマモモの実は既に熟れて、地面に落下しつつあるわけだ。こういう場合は木を揺らして落とすに限るんだが、そうすると後で拾い集めるのが大変。
というわけで、カサを逆さにして持ち手の部分で枝にぶら下げ、その枝を揺する、ということを考えついたわけだ。
俺の考えは図に当たった。
枝を揺すると、ばらばらと落ちてきて、どんどんカサに溜まるヤマモモ。
枯れ葉やアリ、まだ緑の未熟果も混じるが、それでも一個一個手でとるよりは余程効率的に、大量にヤマモモを入手したのであった。
よく洗った果実を、まずは生食で存分に楽しんだ。
ヤマモモという果実は、酸味と甘味のバランスが絶妙であり、香りも良い。
だが、これがなんで果物としてあまり流通していないか、というと、その持ち運びの難しさにある。ヤマモモはいわゆる液果というやつで、しっかりした果皮がなく、ラズベリーやクワの実のように果汁をたっぷり含んだツブツブが寄り集まっているだけなのだ。
だから、少しでも重力が掛かるとすぐに潰れて果汁が浸み出してしまう。
綺麗な姿のまま運んで売るのは、至難の業なのだ。
よって、青果店やデパートで店頭売りするのは、ほぼ不可能に近い。もちろん、ネット社会となった今日では、それを克服して販売しているところがなきにしもあらず。通販のヤマモモは直径が三センチ近くもあって、街路樹で採れるものの倍ほどもあるから、お試しになりたい方は検索してご利用になってもいいだろう。
だが、むろんそんな木の実だから高価だし、仮に入手できたところで、とてもじゃないがたらふく食べるわけにはいかない。
だが、この時俺は、ヤマモモだけで満腹するほど食べた。
前述したように酸味と甘味のバランスが抜群で、香り高いので、いくら食べても食べ飽きることがないのだ。
当時は大したこととは思わなかったが、今にして考えると、実にぜいたくな体験である。
残った実は定番の果実酒にした。
ホワイトリカーと氷砂糖に漬け込んだヤマモモ酒は、三か月ほどで透き通った赤褐色の、美しい酒に変化した。口に含むと、ほのかなヤニの香りとまろやかな酸味が広がる。かなり特徴的な、それでいて癖のない、じつに飲みやすい酒であった。少々甘いので、水や無糖のソーダで割るとさらに呑みやすい。
仲間内でも大変に好評で、酒はすぐになくなったのであった。
ただ、このヤマモモ。毎年実はなったのだが、毎年酒を仕込むことはしなかった。
これにはワケがある。
街路樹、というのは「消毒」と称して殺虫剤を撒くのが世の中の慣例と化している事が分かったからだ。
むろん、どの街路樹もそうであるわけではないし、たとえ殺虫剤が撒かれていても、時間が経っていれば、食しても問題ないとは分かっていたが、どうも気分的によろしくない。
ましてや、果樹用の農薬ではないのだから、残留でもしていたら実害もあるやも知れない。
そんなわけで、ヤマモモ酒は一回こっきりの美味となったのであった。
ここからはちょっと「きゃっち☆あんど☆いーと」の主旨から外れ、行政への……いや、人間の行為への愚痴が長文で続くので、そういう説教臭いのがイヤな人は読み飛ばしていただきたい。
街路樹の木の実が自由に食べられないと知って、俺は非常に残念に思った。
その思いは長年蓄積し、後に社会人になってから知り合った行政関係の方に申し上げたこともある。
「せっかく実のなる木を植えても、誰も食べられなきゃ意味がない。そもそも、毛虫が増えたところで、気持ち悪いってだけの話。触らなきゃ実害はないんだから、放って置いてはどうか」
というような内容を、まあ、言い方はもう少しソフトに、しかししつこく話したわけだ。
だが、その方からの返事は、実害がどうとかではなく毛虫については「住民の方からの苦情」があって、どうしても「消毒」しなくてはならない、とのことであった。
それは街路樹だけでないらしく、河原の草に毛虫がついていても苦情が来れば「消毒」せねばならないのだとか。
そりゃまあ、住民の福祉に資するのが行政マンの立ち位置なのは分かる。苦情が来れば対応せねばならないのであろう。
だが行政の方々、もしかするとあなたたち、騙されているのではないか?
何故なら、毛虫がいるかどうかなんて、木を調べでもしない限りはよく分からない。
集団で巣を作るアメリカシロヒトリとかなら目立つが、イラガやマイマイガなんか、何年かに一度の異常発生でもしない限りは、葉を食い尽くすことなんてないから、よく観察でもしない限りは、発生しているかどうかなんて分からないはずだ。
特に、歩行者も稀な田舎の国道沿いの街路樹なんぞ、たまに車が激突してへし折れても、いつの間にか枯れていても、結構長期間放置しているクセに、なんで律儀に「消毒」だけ一生懸命やらねばならんのか。
まさか、とは思うが消毒作業で儲かる連中が、市民のふりをして文句を言っているか、あるいは市民を焚き付けて文句を言わせているだけではあるまいか。
と、それは勘繰りすぎかも知れない。
毛虫嫌いな人は、本当に嫌いなんだろうし。嫌いな人は嫌いなモノを見つけるのが本当に得意だから。
俺はけっこうヘビ好きなのだが、野山を歩いてもほとんどヘビに出会わない。
で、ヘビに会いたい時には、敢えてヘビ嫌いの人を連れて野山に行く。すると、彼等が見事にヘビを見つけ出してくれるのだ。
ヘビ嫌いな人は、本当にどうしてそんなところを探すのかと聞きたくなるような場所からヘビを見つけ出して騒ぎ立てる。どうも嫌いで怖くて仕方ないから、ここにいるんじゃないか、あそこから出てくるんじゃないか、と脅えながら歩いているようなのだ。
逆に、俺はヘビがいても気にならないから、そんな執拗な探し方はしない。
ある時などは、俺が倒木に座って握り飯をパクついている真横にヘビがとぐろを巻いていて、全く気付かなかったのを、ヘビ嫌いの友人が見つけて数メートル飛んで逃げた事があるくらいだ。
だから、毛虫嫌いの人はそう思いながら街路樹や下草を眺めているのであろうし、それだから、見つけなくてもよい毛虫を見つけ出して、苦情を申し立てるのかも知れない。
だが、毛虫嫌いの人達に敢えて言おう。
毛虫を殺すために殺虫剤を撒けば撒くほど、毛虫は増えていく。そして、延々と撒き続けなくてはならないことになるのだ。
これは別に感情論ではなく、ちゃんとした根拠もある。
例えばイラガにせよ、アメリカシロヒトリにせよ、年に二回発生する。つまり、春先に出た毛虫は夏までに卵を産んで死に、その年のうちにもう一回成虫になるのである。
これに対して天敵であるカマキリやクモは年一回だけ産卵して死ぬ。親になるのは翌年である。
また、蛾は飛ぶのが上手い虫ではないが、そこそこ飛翔力がある。これに対して、カマキリは飛翔すること自体が珍しいし、クモなどは羽すらない。
この条件でシミュレートしてみよう。
まず殺虫剤が撒かれ、街路樹の毛虫が全滅する。もちろん、そこにすむクモやカマキリもいっしょくたに死ぬ。
さて。蛾は飛翔力があるし、野山に全くいないわけではないから、美味しそうな葉っぱがたくさん残っている街路樹へ成虫が飛んできて、産卵する。
しかも、ご丁寧なことに蛾を引き寄せる街灯まで点いているわけだから、その確率は高い、といえるだろう。
種類にもよるが、親蛾の産卵数は平均で数百個くらいであろうか。
一年に二回成虫になるってことは、卵はすぐに孵って毛虫となる。そして、秋には数百の成虫となるわけだ。広い街路である。数百程度の蛾は目立ちはしないわけだが、この成虫達がそれぞれ数百個の卵を産めば、数百×数百で、翌年には万単位の数の毛虫が発生する。そしてまた、街路樹に毛虫大発生……となるわけだ。
ところが、天敵のクモやカマキリはそうはいかない。飛翔力が低いから飛んでくることも滅多にないし、万が一飛んできて産卵したとしても、卵が孵るのは翌年。
つまり対抗できるカマキリやクモは、翌年には蛾の数百分の一しかいないことになる。
太刀打ちできるはずもない。
その結果、業者さんはそらみたことかと、嬉しげに「消毒」を始めるわけである。
こうやって、街路樹で毛虫は毎年発生し続けることになる。
じゃあ、自然界で異常発生が起きないのか? といえば、そんなことはない。
去年、マイマイガという蛾は八年から十年に一度は当たり年(笑)になり、山の木々などは当然として、下草のススキやヨモギまで食い尽くし、丸坊主にしようかという勢いとなる。それが一斉に成虫になると、街灯や店舗の明かりにとてつもない数が押し寄せ、ニュースになったりもする。
だが、しょせんは異常事態。これがいつまでも続くかと言えばそうではない。
ウイルス、寄生カビ、寄生バエ、寄生バチなどにとっては、餌だらけの環境となるわけで、あっという間に感染し、バタバタと死ぬ。大発生は二年くらいで自然に収まり、また約十年周期でこの大発生を繰り返す。
だが、街路樹の場合には、毎年人間が天敵を駆除してくれるわけだから、マイマイガのような周期性のない蛾も、毎年大発生することが出来る。
まさに蛾にとっては人間様々ということになる。
しかも人間は、毛虫の天敵であるハチまでも退治してくれる。
オオスズメバチはまだしも、アシナガバチなんぞ軒下に巣を作っても、手を出しさえしなければ何の害もないのだが、わざわざ専用殺虫剤で見つけ次第殺してくれるわけだ。
それぞれの価値観だから、べつに蛾やハチ、クモを好きになってくれとは言わない。だが、蛾を殺そうと躍起になることで、町に蛾天国を作り出している人間は、実に滑稽だなあと思う。
なんだかヤマモモの話とはすっかり離れてしまった。
だが、公園や街路に、せっかく実のなる木を植えたところで、毎年殺虫剤を撒いて台無しにしているのでは何にもならないように思う。
ヤマモモはそれほどまでに、美味な果実なのであるから。