第47話 イセエビ

文字数 3,692文字

 とある港。
 深夜の防波堤上の車中でふて寝をしていた俺は、かすかな声に起こされた。
 べつに幽霊ってわけじゃない。相手はハクレン後輩だ。
「先輩。ちょっと起きてください」
「なに? イカ、釣れた?」
「いや、イカじゃあないんですが……」
 後輩は声を潜めている上に、非常に歯切れが悪い。
「ちょっと見てください」
 そう言って、クーラーボックスをそっと開ける。どうやら何かが釣れたことには違いないようだが、何故にそんなにコソコソするのか?
 見渡すと、さっき俺が眠りに落ちる前は、防波堤上にたくさんいた釣り人達はすっかり減り、数十メートル離れた場所に二、三組を残すのみ。
「う……うをっ!? コイツは!?
「あまり声を上げないでください。周りの人が気付くと、みんな狙い始めますから」
 そう言われても、これは驚く。声を出すなという方が無理だ。
 クーラーの中にはなんと、二十センチ以上はありそうな、立派なイセエビが踞っていたのだ。

 さて…………このエピソードを書くのは、少し迷った。
 何故なら、違法性がある可能性が、ある話だからだ。
 だが、色々調べてみた結果、完全な黒、ではなくどうやらグレーっぽい。しかも、意図的なものではないし、もう二十年以上経っていて、今も同じ場所で同じことが出来るとは思えない。
 よって、書いてみることにした。そういうわけなので、ご容赦いただきたい。
 前述したように、もう二十年以上前のことになる。場所は太平洋に面した、とある海岸だと思っていただきたい。
 俺は、例のハクレン後輩、投網後輩など数人と、イカ釣りに行ったのだ。
 釣り新聞によれば、どうやらアカイカの群れが押し寄せてきているらしく、一晩で百数十パイも釣った強者もいるとのこと。俺達は、それはもう期待で胸をいっぱいに膨らませていた。
 関東地方でいうところのアカイカ……標準和名・ケンサキイカは、イカの中でも高価で味も良いと定評がある。市場価格でいえば、スルメイカなどの倍くらいで取引されていることもあるくらいだ。
 仕掛けは完璧、準備は万端。
 いくら釣り師が押し寄せてきているとはいっても、それほどの群れが来ている状況で、まさかボウズはあり得まい。そう思っていた。
 夜釣りであるから、宿は取らない。
 海岸にテントを張ってベースキャンプとし、夕方からいざ出陣。イカの釣りやすい防波堤へと繰り出して、不思議な形の疑似餌がたくさん付いた仕掛けを、えっちらおっちらと上下させた。
 次第に夜が更けてくるにつれて、釣り人の数も増え始める。
 見ると、我々が持っていないような強力なサーチライトを海面へと向け、そこに集まるイカを一網打尽にしようという作戦らしい。
 そうこうするうちに、魚影が見え始めた。
 どうやらイカの前に、魚が集まってきてしまったらしい。ヒラヒラとした大きな胸びれ。見たこともない魚……と思っていたら、サーチライト釣り師達は、いきなり長い柄の網を取り出し、その魚をすくい始めたではないか。
 なんという反則。イカ釣りに来ているというのに、魚すくいを始めるとは……しかも、得体の知れない胸びれのでかい……って、よく見たらトビウオやないかい。
 隣のオッサンがすくい上げたのを見て、ようやくその正体が分かった。
 トビウオは、店頭に並んでいるところも、切り身も、飛んでいるところも見たことはあったが、ゆったりと泳いでいるところってのは初めて見た。
 その後も、ちっともイカの群れは来ず、トビウオばかりが押し寄せてきた。どうも、イカとトビウオが狙っている餌の小魚は同じモノであるらしく、トビウオが来てしまったせいで、今夜はイカが深いところから出てこなかった、ということのようであった。
 そういう状況だから、ベテランっぽい釣り師はたまにイカを釣り上げているが、ほとんどの連中の竿は一向に曲がらない。
 俺達は、状況を知らずに来たよそ者である上に、この釣りに関してはほぼ素人。しかもトビウオを捕らえたくともそんな長い網は用意してきていない。
 結局、三時間ほど粘った挙げ句、俺はイカもトビウオも完全放棄。仕掛けを底モノ用に変えて、魚の切り身を餌に、堤防の真下にいるであろう、底魚を狙い始めてしまったのであった。
 しかし。黒潮打ちつける堤防だから、きっと底魚も豊富であろうという予想を裏切って、なかなか釣れない。どうも、魚が食いつく前に、何者かが餌にちょっかいを出すので、底まできちんと餌が落ちていかないのが原因であるらしかった。
 その生き物は、口が小さいのかなんなのか、ぐいぐいと引っ張るものの、決して針には掛からない。何度合わせをくれても、上がってくるのは無惨に食い千切られた餌の残骸のみ。
 結局すべてを諦めた俺は、一時間後にはふて腐れ、車に潜り込んで寝てしまったのであった。
 だがしかし、ハクレン後輩は諦めなかった。
 イカが釣れなかろうと、トビウオは捕れなかろうと、餌を引っ張る生き物がそこにいるなら諦めるわけにはいかない。そう思ったのか、徹夜覚悟で謎の生き物とのやりとりを続けたらしいのだ。
 まさに、見上げた釣り人根性。コイツのこういうところは、本当に尊敬する。
 さて、もうお分かりであろう。
 底モノ釣り用の餌を引っ張っていた謎の生物、それこそがイセエビだったのである。
 俺は、魚だと思いこんでいたので、アタリがあるとすぐに合わせようと、竿をしゃくっていた。これでは、餌をつかんで食っているイセエビに針は掛からない。
 ハクレン後輩は、餌の引っ張り方からどうやらこれは魚ではない、カニか何かだと当たりを付けて、ザリガニ釣りの要領で、ゆっくりと引き上げてみたらしいのだ。
 そうしたら釣れる釣れる。
 堤防の周りにかなりな数がいるらしく、餌を下ろせばすぐに食いつく。もちろん、俺もやってみて、見事に一匹ゲットした。
 その気になれば、そのやり方で何十匹でも釣れそうだったが、俺達の鉄の掟『釣ったら必ず食う』からいって、一人あたま二匹、つまり七、八匹もあれば充分すぎる。
 そういうわけで、適当に数が揃った段階で、俺達はベースキャンプに戻ったのであった。
 俺達は土日を利用してきていたから、翌日には帰らなくてはならない。
 つまり、獲物を食うのは今夜しかない。というわけで、深夜の一時過ぎから宴会の準備。刺身と味噌鍋が出来上がって乾杯する頃には、すでに白々と夜が明け始めていた。
 イカをたらふく食うつもりだったが、イセエビであれば大満足。
 明け方の海岸で、俺達はイセエビづくしに舌鼓を打ったのであった。
 面白かったのは、海岸に投げ捨てたイセエビの殻に、大きなムカデがたくさん寄ってきたことだ。ムカデは肉食で様々な昆虫を食うとは知っていたが、まさか海産のエビの残骸に群がるとは思わなかった。
 今後、ムカデを飼育する場合にはエビも使えるな、と思ったものだが、残念なことにそれ以来、ムカデを飼う機会に恵まれていない。大型のトビズムカデなどは、その行動は実に迫力があり、また機能的な美しさを持つ上に、子供を丁寧に育てるという慈愛に溢れた生態を持つ生き物なので好きなのだが……まあ、それが一般的評価だとはさすがに俺も思ってはいない。
 なにより、そんなものの飼育を妻が許してくれるはずがないわけだが。
 ところで、後で聞いたところによると、俺達のやったことは、この地域ではかなりなルール違反行為であったらしい。
 もちろん、当時の我々は、まさかそれが違法行為の可能性がある、などとはカケラも思ってなかった。アワビやサザエなどと同じく、イセエビだって漁業権のある場所で潜って密漁すれば犯罪行為である事くらいは理解している。
 だが、潜って捕ったならまだしも、釣れてきたモノならべつに問題ないと思っていたし、ラッキー、くらいの感覚だった。もちろん、それが適用される地域も多々あって、イセエビ専門で狙う釣り人までいると聞くが、漁業権のしっかりしたところでは、捕まると罰金どころか地元漁師さんに袋叩きに遭うこともある、と後で聞いた。
 俺達の場合は、深夜だったことや、騒ぎ立てなかったこと、さっさと料理して食べてしまったことなどが幸いして、誰にも見つかることなく帰ることが出来ただけなのだ。
 そういうわけなので、うかつにマネしないでいただきたいが、イセエビってやつは防波堤でも釣れるものだ、くらいは覚えておくと良いかも知れない。
 何も釣れない時に、そういう漁業権の厳しくない地域であれば、そっと足元に仕掛けを下ろしてザリガニ釣りの要領で試してみるのも悪くないからだ。
 ただ、何度も書いているが、イセエビはアメリカザリガニほどには旨くない。と、俺は思う。
 身は多いし、刺身にも出来るし、食べやすいのは間違いないのだが、どうも、旨味成分が少なく、独特の臭みもあるように思う。
 その点、ザリガニの旨味は相当なものであるから、泥抜きの方法さえ間違えなければ、極めて美味だ。だから、違法行為の危険を冒してイセエビを捕るくらいなら、そのへんでザリガニ捕って食っておいた方が幸せな気がするのである。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み