第44話 フユイチゴ

文字数 3,996文字


 ある晩秋の昼下がり。
 日本海側にしては珍しく、晴れ渡った日曜日のこと。
 うららかな日差しの下で、俺は裏庭の通路に座り込んでフユイチゴを収穫していた。
 家の中からは、時折、息子の叫び声と妻の怒鳴り声が響く。
 定期テストの勉強期間となり、イマイチ真剣味の足りない息子にやきもきするのは分かるのだが、どう考えても逆効果。
 いちいち怒鳴ったってどうしようもない、ということが、何度言っても妻には分からないのだ。そうすることが、どれだけ勉強意欲を削ぐかが分かっていない。しかも激昂することで頭に血が上って更にミスを誘発する。さらには言われないと勉強しない、という習慣づけも同時に行われてしまい、自主性まで無くなっていく。
 結局のところ、効率を最大限まで低下させているだけだ。
 挙げ句の果てには、教えている自分が計算違いや覚え違いでミスを犯し、合っていたのに怒られた息子は、不信感を募らせる。 
 そう注意すると、「じゃああんたがやってみなさいよ!!」と言うクセに、俺が教え始めて数分も経たないうちに横から口を出してくるので元の木阿弥。
 アホだなあ。
 そう思いながら、ぷちぷちとフユイチゴを収穫する。
 話を聞く限りでは、どうも学生時代は、妻の方が俺より勉強は出来たらしい。
 だが、勉強の出来たヤツには勉強の出来ないヤツの気持ちは一生分からないのだ。
 なんで息子がその問題が理解できないのか、妻には理解できない。
 なんで何度教えても同じ箇所でミスをするのか、妻には理解できない。
 なんで机に向かっているのに、息子の勉強がはかどらないかも理解できないようだ。
 俺に言わせりゃ、至極当たり前の現象なのだが。
 いたたまれなくなった俺は、荒んだ空気のリビングを抜け出して、裏庭でフユイチゴを収穫し始めたのであった。
 このフユイチゴ、娘の植物採集で採ってきたもののうち、元気そうなものを挿し木して殖やしたものだ。それが二年間で庭の一角を完全に覆い尽くし、赤い実をつけるようになったのは今年から。
 キイチゴ類には珍しく、その名の通り寒い晩秋から冬にかけて赤い実が熟す。味も香りもそう悪くないのだが、これまで料理できるほど収穫したことはなかった。
 それというのも、野生状態では非常に実付きが悪いからだ。
 俺の住む地域では、どこに行っても林床に普通に生えている植物であるが、大抵の場合ちょぼちょぼと赤い実が見える程度で、モミジイチゴやクサイチゴのようにたわわに実っているのを見たことがない。
 林床は日が当たりにくいのと、山の木の実が少なくなる時期でもあって、熟す端から小鳥や獣に食われてしまうせいだと思われる。
 それが、家の裏庭がよほど気に入ったのか、今年になって驚くほどたくさんの実を付けたのであった。
 林床よりずっと日当たりがいいこと、自宅は住宅地で、イチゴを食べに来る生き物が少ないこと、何よりすぐ傍に犬糞を集積している堆肥場があることが、大きな要因であろう。
 ウチの犬たちは雑種の姉妹犬なのだが、糞はゴミに出していない。
 裏庭に木枠をしつらえ、もみ殻や牛糞堆肥、カブトムシ幼虫の飼育後のマットなどを堆積しておき、そこに混ぜておく。すると、うまく発酵していい肥料になる。これを俺が管理している他所のビオトープで、局所的に大きくしたい植物の根元にすき込むと、効果抜群なのである。
 浸み出した窒素分は周囲の土壌に活気を与えるらしく、庭にはミミズやハナムグリの幼虫が増え始めた。時折殖え出すハエの仲間は、すごい数のアマガエルが集まってきて食べてくれている。
 フユイチゴは、もともと少し離れた場所に植えていたのだが、その堆肥枠から先にどんどん匍匐枝を伸ばし、長さ五メートル、幅五十センチほどの通路脇を、しっかりと覆ってくれたのであった。
 俺はその通路に座り込み、金属のボウルを片手に、またぷちぷちとフユイチゴの実をつまむ。
 ルビーのように透きとおった美しい繊細な実は、酸味が強く、ほのかな香りがする。
 生食では大して美味くないが、そういう実ほど果実酒やジャムには向くのだ。
 フユイチゴはボウルに一杯収穫でき、重さはほぼ一キログラムほどにもなった。
 こんなにたくさんフユイチゴが採れたのは生まれて初めてだ。
 どうするか?
 キッチンに戻って腕組みをしている俺に、息子との激戦の熱も冷めやらぬ妻がやってきて、怒りの声を上げる。
「どこ行ったのかと思ってたら、こんな余計なコトしてたんか!!
「余計なこととは何だ。時間を有効に使っただけだ。やるべき事があればやるよ」
「そんなモン捨ててしまえ!!
「捨てるなんてとんでもない。見ろ、この美しい実を!! どんだけ苦労して採取したか……」
「う……」
 妻の舌鋒がわずかに鈍る。
 こういう時に綺麗で可愛い実は良い。透きとおった赤い実ってのは、アピール度が高いのだ。
「じゃあ、ジャムにでも何でもしなさいよ」
「ふむ。じゃあジャムにするか」
「いや待って。ダメ。果実酒にしなさい」
 ジャムは長時間煮続けるので、ガスを使い過ぎるといって妻は嫌がるのだ。
 ジャムにしても良かったのだが、この実なら相当美しい色の果実酒が出来そうだ。
 俺ももともと果実酒は好きであるから、妻の指示通り、果実酒を作ることにした。
 繊細な実は氷砂糖だと潰れてしまうから、グラニュー糖を使う。
 よく洗って水気を切った実と交互にビンに入れて満遍なくまぶす。半日も置いておくと赤い実のエキスが染み出してくる。そこへホワイトリカーを少し多めに注ぎ、三ヶ月も熟成させれば飲めるようになるわけだ。
 飲むのは無論だが、作って並べておくのが好きなので、キッチンにはすでに果実酒が幾つか並んでいる。
 こういう人は多いと思う。よくそのテのHOW TO本には、ログハウス調の木の棚や半地下室みたいな場所に、琥珀色の液体を湛えた瓶が所狭しと並んでいる場面を写したカラーページがあるし、そうした画像がブログにアップされていたりもする。
 むろん梅酒が一般的だが、梅でなくとも様々な果実で果実酒は作れるから、入手困難な果実で作った酒などは、希少価値も手伝って実に美味そうに見える。
 本にもいかにも美味そうなことが書かれているし、年数が経つほど味がまろやかになる、なんて書いてある場合もあって、味わったことのない方は想像を膨らませると思うが、実は失敗も多い。
 そんなもん、きちんと分量を量れば大丈夫だろ、などという方はまだまだ素人。梅のように水分量や味わいが分かっていて、砂糖や酒の分量がほぼ決まっているようなものは別として、それ以外の果実はなかなかうまくいかないのだ。
 たとえば教科書通りに「果実:酒:氷砂糖=2:2:1」などと作っても、同じように出来るとは限らない。特に野生の果実は、その種類だけでなく採取した時の熟れ具合、分量、可食部の割合、皮の厚さや浸透性、皮を剥いたか剥かないか、へたや柄を取ったか取らないか、などによって、エキスが抽出される量や日数、熟成に要する期間が変わる。
 そうすると、砂糖が多すぎたり、逆に焼酎が濃すぎたり、果実が少なすぎたり、水分が多すぎたりしてしまい、シロップみたいに甘かったり、味がとんがったりする。また、果実そのものも酸味が薄かったり、処理を間違えたりすると、味わいがイマイチになる。
 ひどい時にはカビが入って腐敗する場合すらある。
 つまり、作るたびに味は変わってしまうのだ。
 それにもちろん、棚に飾ってあるだけでは味は分からない。美味いかどうかは、やはり飲んでみなくては分からないのだから、見事な果実酒コレクションといえども、それが美味いとは限らないといえる。
 だが、飲んでみるまで分からない、それも楽しみの一つ。
 同じ材料、同じ配合にしたつもりなのに、何故か素晴らしい味わいになったり、その逆もあったりして、最初に口にする時は毎回ドキドキさせてくれるのが果実酒なのだ。
 今、保有している果実酒は定番のウメを筆頭に、ヤマナシ、ブラックベリー、キハダ(樹皮酒だが)、どっかの道の駅で購入した種類不明の木の実の酒、ハクレン後輩から貰ったチョウセンゴミシである。
 長々とえらそうに書いた割に、妙に種類が少ない、とお感じになるであろう。
 それもそのはずで、学生時代から延々と溜め続けた果実酒は、数年前の豪雨で床下浸水の時にすべてダメになってしまったのである。
 保管場所が地下室だったのがまずかった。完全に水没した地下室の水を抜いた時には、果実酒のビンはすべて泥の中。密閉状態だから大丈夫かも知れないが、トイレや浄化槽の汚泥混じりの泥に浸かったモノを、さすがの俺も飲む気にはなれなかった。
 その中には、十年以上寝かせたカリン酒や北海道で入手したハスカップことクロミノウグイスカグラの酒もあったので大変残念であった。しかもその後、妻に地下室に物を置くことを制限されてしまっているのが現状だ。さらに新しく作ることも、ほぼ許可制になってしまったから、ビンを増やすことも出来ないため、どうしてもこのくらいのコレクションにしかならないわけだ。
 フユイチゴの果実酒を仕込む俺の目の前で、また息子と妻のバトルが再開された。
 こういう事を繰り返すくらいなら、塾にでも行かせた方が良いのかも知れないなあ、と思いながら、ビンに日付と種類を書き込む。
 だが、塾が良いとは限らない。勉強漬けの毎日が、明るい未来につながるとは限らないからだ。俺と似たところのある息子には、出来れば同じ轍は踏ませたくない。
 なりたいものになる。
 ただそれだけのことなのだが、その為に必要なことを、ひとつひとつ積み上げていく人間であって欲しいし、そうできる環境を俺の全力をもって提供してやりたいだけなのだ。
 たぶん、幸せってのは、その過程でくっついてくるモノなのだろうから。

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