第48話 イワナ・ヤマメ

文字数 4,958文字


 どうせなので、ヤバイ話はまとめて書いてしまおう。
 だが、これもまあイセエビと同じ、完全に黒、というわけでもなく、ずいぶん昔の話だし、時効ではないかと思う。
 昔……そう、大学を卒業してすぐの頃だったと思う。季節は夏。例のハクレン後輩の地元に、キャンプへ行こうという話になった。
 場所はキャンプサイトなどではなく、自然の河川敷。
 それもイワナやヤマメがたくさんいる渓流、とのことだったから、俺なりに気張って釣りの用意をして行ったわけだが、ハクレン後輩から鼻で笑われた。
「先輩。俺の地元は渓流釣り師がうじゃうじゃ来る場所ですよ? 解禁当日とかならともかく、今頃はスレまくってて素人釣り師じゃ絶対釣れません」
 その言い様には、正直ムッと来たが、素人釣り師は事実である。
 中・下流域や湖沼、海ならまだしも、渓流釣りとなると、ほとんど経験がなかった。
 なにより、ハクレン後輩とはよく海釣りなどには行っていたから、お互いの腕前は熟知している。それを分かっていて言うのであるから、べつにこっちを蔑んでいるわけではないのだ。
「つまり、お前でも釣れないってことか?」
「まあ、そこは地元民ですから、ゼロってことはないでしょうが、釣りより確実な手段があるってことです」
 それは何か? と聞くと、ハクレン後輩は不敵に笑って言ったのだ。
「突くんですよ」
 ホムセンなどで、三つ叉もしくは五つ叉の、モリとかヤスとか呼ばれるものが売られているのを、見たことはおありだろう。
 「捕ったどー!!」でお馴染みの、芸能人が島でサバイバルする時にも使われたりしている。
 だが、それまで俺は、あんなもので魚が捕れるなどとは思ってもいなかった。
 むろん、小学生の時などは、大物を夢見て海水浴の時に持って泳いだりはしていたが、魚の素早いこと素早いこと。追いかけようとしても、そのモリが却って邪魔になって泳げず、一匹も捕れなかった。
 一度、岩の上に鎮座している大きなウツボを見つけ、襲いかかってみたこともあるが、見事に当たったにも関わらす、モリはウツボの体に刺さらず逃げられてしまった。
 それ以来、あんなものはオモチャに過ぎず、実際に獲物が捕れたりはしないのだと思いこんでいたのだ。
 だが、ハクレン後輩はそんな俺の認識を鼻で笑い飛ばした。
「何言ってんですか先輩。俺は小学生の頃、アレで色んな川魚捕って食ってましたよ」
 むうう。そんなに言うならやってみようじゃねえか。
 って話になった。だが、やるなら背水の陣だ。
 キャンプの夕食は、モリで捕った魚のみということにした。他に持っていく食料は米と調味料だけ。ダメなら寂しい夕食を迎えることになる。むろん、その責任はハクレン後輩にあることになる……と、こういうわけだ。
 こうして俺達は、期待半分、不安半分で、人数分のモリを買い込み、某県山中にある、ハクレン後輩地元の、オススメの川原へと向かったのであった。
 さて。
 そもそもハクレン後輩の地元ってのは、山の多い海無し県なのだが、キャンプ予定地は更に究極の山の中だった。
 車は通れるものの、道は舗装されていない山道を延々と進んで、ようやくたどり着けるような場所である。周囲数キロに、コンビニはおろか、人家も鉄塔もダムもなく、要するに人間の痕跡のほとんど無い場所だったのだ。
 こんな場所なら、そりゃイワナもたくさんいるだろうと、テントを立ち上げるのもそこそこに川に入ってみたが、淵にも本流にも、魚の影すらない。
 俺達は早速文句を言い出した。
「魚なんかどこにもいねえじゃねえか。こんなんでモリで突いたり出来るのかよ?」
 だが、ハクレン後輩は落ち着き払っている。
「これだから都会モンは困りますね。こんなカンカン照りの日中に、しかも、大騒ぎして人間どもがやって来てるってのに、イワナがその辺うろうろしているわけないでしょうが。岩の隙間とか、オーバーハングになっている岸のとこ探すんですよ」
 人生で都会モン呼ばわりされたのは生まれて初めてだったが、言われてみればその通りだと、岸辺から草が被さったようになっている場所をのぞき込むと……
「うおわ!! いた!!
 騒がしさに避難していたのだろう。そこには数匹のヤマメがひしめいていたのであった。
 だが、俺の姿を見るなり、クモの子を散らすように逃げてしまう。とてもではないが、追っかけてモリで仕留めるなんて事は出来そうにない。
 ここで、ハクレン後輩のレクチャーが始まった。
「いいッスか? ひらひら泳いでいる魚を突こうったって、絶対に突けません。モリはそんなに鋭くないし、スピードもない。止まっている魚を狙ってください」
「止まってる魚ぁ? そんなもんいるのかよ?」
「イワナは漢字で岩の魚。岩にへばりつくようにして隠れているヤツがいます。そいつにモリの先端を数センチ、最低でも十数センチの位置まで近づけ、ゴムを放します。そして川底や岩に押しつけるようにして刺す。それでも、暴れてモリを抜いて逃げ出す猛者もいますから、完全に貫くまで決して手をゆるめないこと。いいですね?」
 ここまで懇切丁寧に説明してもらえば、さすがの俺達にも要領が分かった。
 これまで魚が捕れなかったのは、その辺を泳いでいるヤツを追いかけていたからなのだ。
 たしかに、ハクレン後輩の言う通りにすれば、魚が捕れないはずはない。とはいえ、ちょろちょろと目の前を泳ぎ回る大物を無視して、動いていないイワナを探すってのは、結構ストレスが溜まる作業だ。
 しかし十数分後。
 いたいた。一抱えくらいの大岩ふたつの間に、尻尾だけをのぞかせて潜んでいる大物イワナ。この状況なら向こうはこちらが見えていない上に、こちらからはあの美しい水玉模様の背中が丸見えだ。
 水深は浅いが、流れが速い。押し流されそうになる体を、なんとか左手だけで固定して、じっとしているイワナに出来るだけモリを近づける。
 水中ながら、緊張して汗ばむ気持ち。シュノーケルを通す息の音が、イワナに気付かれないかとビクビクしながら、それでもなんとかモリの刃先をイワナの数センチ以内にまで近づけた。
(今だ!!
 俺の手を離れたモリは、ゴムの反動で素早くイワナに向かって突き刺さった。
 間違いなく刺さった感覚はあったが、ハクレン後輩の教え通り、貫いて岩に当たるゴリッとした感覚が伝わってくるまで、更に押し込む。
 ようやく捕れた。
 水中だとでかく見えるせいか、水上に上げたイワナは三十センチには満たないサイズだったが、なかなかの型。寸前で逃げようとしたのか、当たったのは狙った場所より尻尾寄りだった。
 人生初のモリで捕った獲物。美しい水玉模様と腹の朱色は、今もこの目に焼き付いている。
 その後も、数人で川の中をうろつき、三十センチ内外のイワナやヤマメを、十数匹モリで仕留めた。
 面白いことに、モリで狙うのはカンカン照りの日中がよく、少しでも曇ったり日が陰ったりすると、ヤツらは素早く泳ぎ出し、俺達の手には負えなくなるのだ。
 夕刻近くまで粘ったが、泳いでいる魚の数は増えるのに、捕獲率は急低下したため、俺達はモリを収めた。
 キャンプのおかずは、むろんイワナ、ヤマメの塩焼き。
 汚れなき源流で育った立派な魚たちだ。不味かろうはずはない。あれから、養殖モノなら何度も食べる機会があったが、あれほど美味なイワナやヤマメには、いまだにお目に掛かっていない。
 食べ終わった骨は焚き火で焼き直し、熱燗の日本酒に入れて骨酒にした。
 これがまた少しも生臭くなく、どこまでも澄み切った旨味が口の中に広がる絶品であった。
 中には、少し育った卵を持っていたイワナもいて、同行していた農業系ワイルド後輩は、川水で洗って、その内臓を生のまま食べていた。
 ハクレン後輩も誘われて食っていたが、どうも絶品であったらしい。しかし、もちろん、俺は食わなかった。火を通していない川魚の内臓など、寄生虫の塊だからだ。
 頼まれても食わない。
 彼等は「こんな綺麗な場所じゃあ、寄生虫なんていませんよ」とか言っていたが、俺の認識は違う。寄生虫は汚いからいるワケじゃないはず。どんな綺麗な場所だろうが、寄生する宿主が生活できれば、寄生虫もまた生活できるに違いない。汚染や病原菌とは違うのだ。
 ところで、これほど澄み切っていて、栄養も何もない川で、こんな大魚が育っている理由は何なのか? 川底にもどこにも餌らしいものはない。じつは、餌は、周囲の川から飛び込んでくる虫が大半なのである。
 では、なんでその虫達が、わざわざ川の中へ飛び込んでくるかといえば、これもまた偶然ではない。体内の寄生虫……ハリガネムシに操られて入水自殺するからだ、というのは最近発表された研究結果。
 もちろん、ハリガネムシは魚はもちろん、人間にも寄生はしないのだが、同じパターンを利用して魚を中間宿主にしている寄生虫が絶対にいないと、なぜ断言できるか。
 当時の俺はむろん、そんなことを知るよしもないわけだが、なんとなく感覚で寄生虫の怖さを感じていた。
 そういうわけで、生では食わなかったが、とにかく渓流魚は堪能できた。ハクレン後輩の言った通りになったわけだ。
 たしかに、釣りであったらイワナを一匹でもゲットできたかどうか、正直怪しい。
 潜って追いかけてみて、初めてイワナの警戒心の強さや素早さ、行動パターンが分かったような気がした。
 まあ、もし機会があれば、今度こそは釣りでチャレンジしてみたい気もするが。
 さて、これがなんでヤバイ話なのかと言うと、以上のような、夢のごとき体験は、漁業権の存在する水域では違法行為だ、ということなのだ。
 漁業権のある場所では、禁止漁法というモノが存在し、それは法律と場所を管理する漁業権者によって定められている。大抵の場所ではモリの使用は禁止か、よくてグレーゾーンになるのである。
 例えば、毒を流したり電気ショックで魚を捕るのは、研究目的以外でなければ完全な法律違反。だが、投網やモリ、素潜りなどは、場所によって禁止されていると考えていただきたい。
 しかし、海ならまだしも、渓流でのモリは、どうも禁止されている場所が多そうなのだ。
 俺達がやった場所は、昔からハクレン後輩がモリで魚を突いていた場所だというし、入漁券を売りに来るオッサンもいない。禁止漁法などの立て看板もないし、イワナも完全な天然物だとの話だが、きちんと確認したわけではない。
 だから、違法かといえばよく分からないのだが、あまり勧められた行為でないのは間違いないだろう。
 とはいえ、捕った魚を売ったわけでもなければ、全滅させるほど捕ったわけでもなく、毎年行って資源を枯渇させたわけでもない。もう二十年以上前のことでもあるので、ここは一つご容赦願いたい。
 しかしまあ、ご存じのように投網は釣具店に普通に売っているし、モリは釣具店どころかホムセンにだって置いてある。値段も安ければ数百円。そんなモリを持って、川で遊ぶのが違法行為だと言われれば、何で売ってるの? と言いたくもなる。
 しかし、今もあの場所が以前の通り、イワナの宝庫であり続けていてくれるかは分からない。
 なにしろ、日本中どこも人の手が入らないところはないくらいになってしまっているのだから。
 禁止漁法などよりも、ダムを一つ造る方が、よほどイワナたちにはダメージになる。そこまでしなくとも、コンクリ護岸工事、崩落防止の段差工、舗装道路の開通など、どれか一つあっただけで、あの聖地は消え失せているだろう。
 逆に資源を増やそうと養殖イワナを放流しても、その場所のイワナの遺伝子特性は失われ、事実上『その場所のイワナ』というものは絶滅する。
 地域によってどころか、川によってイワナ、ヤマメなどの渓流魚は、遺伝的に特化していたのだ。そういう意味では、日本の渓流は、もはや修復不可能なほど乱されてしまっているわけだが。
 もはや、遠い夏の日の思い出の中にしか存在しないのかもしれない、原初の澄み切った渓流を泳ぐ、たとえようもなく美しいイワナ。
 それを、自分の手で仕留め、自分で料理して食べるという贅沢。
 自分の子供達にも、一度でいいからあの気持ちを味あわせてやりたいのだが……。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み