母と息子

文字数 1,186文字

 ほんのりとビャクダンの和の香りが移った手紙に、改めて目を通す。
 そう簡単には、割り切れない。
 いまの私の率直な想いだ。

 まぶたを閉じると、警察官に連行されたトミちゃんのうしろ姿がフラッシュバックする。いつもエレガントで溌剌としていたトミちゃんは、私にとって憧れの的だったが、あの輝きは彼女の表面的な部分に過ぎなかった。完璧な人間などいない。
 誰しも、易々と告白できない「闇」を抱えている。

 そう、トミちゃんが連行された翌日。
 すでに帰っているだろうと信じて、最上階の一室の呼び鈴を鳴らした。
 しかし、ドアが開く気配がない。
 ノックもしてみたが、やはり誰も応答しなかった。
 期待せずにドアを引いてみた。すると、鍵はかけられていなかった。
 一瞬、躊躇はしたものの、これは非常事態なのだと自分に言い聞かせて中へと入った。
「トミちゃん! 入るよ!」
 昨日の今日ですっかり心が乱れ、鍵をかけ忘れただけで中にいるに違いないと直感した。
「トミちゃん? いるんでしょ?」
 もう一度、声を張り上げて呼んでみた。
 その瞬間、あのの奥から物音がした。
 ゆっくりとその部屋の前まで歩み寄った時だった。
 ドアが開き、見知らぬ中年男がぬらっと目の前に現れた。
 鼠色の着古したトレーナーとスウェット姿の男を前に、思わずその場に転げそうなほど驚いた。
「あなた、カオルンさん?」
 無機質な声で名前を呼ばれ、再びぞっと戦慄が走った。
「警察署で倒れてしまってね。入院してる。でも、たいしたことない」
 倒れて入院、それのどこが、たいしたことないと言えるのか。
 そもそも、この男とトミちゃんとの間柄は?
 聞きたいことは山ほどあった。
 私が言葉を選んでいる間に、男は次の言葉を口にした。
「誰とも会いたくないと言っている。また日を改めて」
 男は、ぼさぼさの髪を神経質そうに掻いた。その手はやけに黒かった。
「わかりました。では、ひとつだけ、ひとつだけ教えてください。あなたは、トミちゃんとどういう関係なのでしょうか?」
 その疑問を吐き出さずに持ち帰ることだけはできなかった。
「母だが」
 男の目に、一筋縄ではいかない影が差した。
 その言葉にだけは、一種の動揺が含まれて聞こえた。
 重苦しい沈黙が、次にどう行動すべきなのかという私の判断を鈍らせた。
 ふと、ドアの隙間から、長らく畳んでも干してもいないと思われる布団と枕が見えた。そのすぐ横には、祭壇のようなものがあり、遺影らしき写真が立てかけられていた。
 私の無神経な視線に対して癪に障ったのか、男は私を羽虫でも追い払うように玄関まで引き下がらせた。
 忘れてはならない。不法に上がり込んだ私は、招かれざる客なのだ。
 玄関から出ると、靴をきちんと履き終えないうちに鍵は乱暴な音を立てて閉められた。
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登場人物紹介

志村九龍(シムラカオルン)

【カオルン】


悩み多き女性書店員。

ひょんなことから日向とみ子と出会い、友情が芽生える。

かつて〈ハーメルン〉に心惹かれていた。

日向とみ子(ヒュウガトミコ)

【トミちゃん】


グレイヘアの婦人。

駄洒落が好き。

マンションの最上階に住む。

カオルンの良き相談相手。

最近はまっていることがあるようだが……。

マキシム(旧名:志村真紀)


カオルンの飼い猫。

ロシアンブルー。

甘えっ子。

美しい。

井上


カオルンの婚活デートの相手。

第一印象はいいが性格に難あり。

ツクモ


ドレッドヘアの男。

自称画家として気ままに生きる。

偶然会ったカオルンと意気投合し交際するが……。

〈ハーメルン〉


千代田区を拠点として路上ライブを行う。

十代から四十代の幅広い年齢層のファンが支持している。

CDは出さない主義。

しばらく消息を絶っていた。

近藤


日向とみ子の『お友達』。

大学生。

ヲタク。金欠。

宮本一紗(ミヤモトカズサ)


精神に疾患のある兄を持つ。

絵が得意。

訳ありでバニーガールの仕事をするが……。

一紗の兄


精神に疾患がある。

祖父母の家から施設へと預けられた。

妹のおかげで心を開いていく。

賢太郎(ケンタロウ)


北国生まれ。

シンガーソングライター。

一紗とは運命的な再会を果たす。

昇太郎(ショウタロウ)


青森生まれ。

賢太郎とは瓜二つで、出会い鼻から

意気投合する。

一紗の夢を応援している。

正彦(マサヒコ)


ホームレス。

物語の重要な局面に登場する……。

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