昇太郎
文字数 3,095文字
図書館で本を読んだことはない。
べつだん読書が嫌いというわけではなく、むしろその逆で、趣味は読書と言ってもよかった。だからこそ、「私は本を読んでいるんだぞ」と周囲に無用なアピールをする人たちのなかで、大切な本のページをめくる気にはなれなかった。
それでも、バイト先から近い千代田図書文化館には定期的に足を運んでいる。なんてことはない。地下に喫煙室があることが大きい。
「一日に一本しか吸わないんだから、止めたらどうなの?」
母親のスズコから送られてくるメールには、まるでそれが署名として登録されているのかと思うほど、必ずその一文がくっついてくる。
我が子の健康を気遣っての言葉なのだろうが、いまのぼくにはそれほど響いてはこない。
携帯を鞄にしまい、代わりにバージニアソフィアのタバコを取り出す。
ちょうど火を点けたところで、喫煙室に自分と年齢も背丈もさして変わりない男が入ってきた。しかし、相手はぼくのカジュアルな服装とは対照的に藍色の背広をこぎれいに着こなしている
ぼくの右に立つなり、男は鞄やスーツのジャケットにある、ポケットと言うポケットをまさぐり始めた。誰が見てもライターを探しているのは明白だったので、「良かったら、どうっすか」と気軽にライターを差し出してみた。
男はパッと表情を明るくさせると、ぼくのライターから素直に火を受け取った。
そのとき改めて男の顔を見た。
不思議と、既視感が芽生えた。初対面な気がまったくと言っていいほどしないのだ。
はじめは、バイト先に来る常連客かと推察してみたが、どうもしっくりこない。
自問自答しながらも紫煙を燻らせる。
ふいにガラスの向こう側に目をやると、大ホールから忙しなく年配の男女が出入りしている。その慌ただしい館内の風景を、隣の彼もまた、ぼくと同じように目で追っていた。
喫煙室を立ち去るタイミングまでも、揃ってしまった。
ふと、「安易に野良猫に餌をやってはダメよ。それだけで、ついて来ちゃうんだから」と、むかしスズコが発したセリフが思い出された。なぜこのタイミングなのか。彼は野良猫なのか?
建物を出てからは、さすがに別の道へと入ったが、一週間後にまた、この図書館で彼と再会するとは思わなかった。
しかし、この出会いはのちに運命的なものとなる。なにも運命的な出会いという言葉が恋愛の専売特許ではないだろう。
彼こそが、ぼく自身の〝後継者〟となる人物だった。
二度目の再会は、千代田図書文化館の中にある珈琲店だ。
アメリカン一杯で三時間も居座り、新曲のための歌詞を考えていたところ彼が現れた。いや、正しくは歌詞を考えている最中に、携帯のバッテリーがなくなったのだが、持ち歩いていた充電器が見当たらず。鞄を必死に探しているときだ。
たまたま隣の席に座った彼から、「携帯はiPhoneですか? 良かったら、こないだのお礼です」と言って充電器を差し出された。
こないだのお礼とはなんぞや?と、怪訝な目を向けたが、一寸の間を置いたあとで彼だと分かった。やっぱり彼の顔を、この図書館で出会う以前から知っているような気がする。
相手が女性ならば、ここで〈ときめいた〉と表現するのが妥当なのだろうが、相手が男となると難しい。いっそうのこと、直感的にウマが合うとでも言うべきか。
しかし、それは見込み違いというわけではなさそうだった。
その後のやりとりでぼくと彼には、いくつも奇妙な共通点があることを認め合った。
ともに名前は祖母が命名し、どちらも名前に太郎が入っている。
「実は、ほかにケンタロウも候補としてあったみたいなんですが、最終的には昇太郎になりました」
隙間なくきれいに並んだ歯を見せながら言った。
誕生日までぴたりと揃いはしなかったものの、それでもわずか三日違いだった。おまけに出身も青森と札幌の北国つながりで、読書と曲作りが趣味と言う点まで一致した。
自然と会話の中で敬語がはずれた頃、上野で一緒に飯を食べたことがあった。
そのとき、昇太郎の親御さんが床屋を経営していることが判明。床屋に関しては忘れられないエピソードがあったので、必要以上に食い下がったのを覚えている。
これまで親父について他人に語ることはなかったが、出会って数回しか経っていない昇太郎が、その記録をあっさりと破ってくれた。
「小学生の頃、親父とふたり影を並べて歩くのは、月一と決まっててさ。それも短い距離なんだ。家から徒歩七、八分の通学コースにある床屋と家との往復だけ」
「親父さん、忙しい方だったの?」
ぼくはかぶりを振った。
親父につられて床屋行くと、決まってぼくは自分が作曲したものを周囲に披露した。そのたびに、床屋のご夫婦から、近所のおばちゃんおじちゃんまで、みな口をそろえて「すごいねぇ」と褒めてくれた。はじめは、そんな息子の姿を親父は誇らしく感じてくれているものかと思っていたが、どうもぼくを連れて床屋へ行く目的は、他にあるようだった。
ぼくの曲に周囲の意識が集まっているあいだ、何とも信じがたいことに、親父は床屋にある物品をくすねていたのだ。
あの頃の僕は、価格に関係なく盗むという行為が必ずしも罰せられるとはさほど思っていなかった。盗品の価値が小さければ、それほど問題ではないと思い込んでいた。そのせいか、いくら盗みを繰り返そうとも、当時の親父を一方的に突き放す気にはなれなかった。
「最後まで良いか悪いかはべつとして、誰かに見つかって通報されることはなかった」
我ながら馬鹿正直な男だと思う。親父の犯罪行為をありのまま打ち明けてしまった。
「え? それって、うちの店でも何か盗んだことがあったりしないよね?」
こんな話でも冗談で返してくれる男だとは思っておらず、良い意味で裏切られた。
ところが、これは単なる冗談に終わらなかった。
ふたりにとって驚愕の共通点は、この他にある。
「同じクラスメイトで、父親と一緒に月一で俺の店にやってくるヤツが実際にいたなぁ。そいつは自分で曲作りまでしていなかったけど、幼い頃からの夢はやっぱりシンガーで、実際地元ではそこそこ名の知れたグループのヴォーカルを担当していたよ」
思わず、笑いがこみあげてきた。
「ここまでくると、神がかりだな。これ以上、偶然が重なったら、昇太郎にプロポーズでもしちゃいそうで、怖えーよ」
昇太郎も上半身を揺らす。
「でもまぁ、この際だから訊くけどさ。どこかで昇太郎の顔を見たことがあるような気がするんだけど……東京での生活って、そこそこ長いほう?」
さすがにないと一蹴されると思ったが、意に反して昇太郎は意味深に小首を傾げた。
「たぶん、互いに面識はなかったと思うよ。ただ……、気色悪いと思わないで欲しいんだけど、俺の店に父親と来ていたってさっき話した地元の同級生って、賢に顔立ちが似ていたような気もするんだよね。鼻が高くて、目元がシャープで、そいつもやっぱり猫っ毛だった」
そこまで言われると、ドッペルゲンガーの写真が見たくなってくる。
念のため頼んでみたが、同級生が写っている写真は手元にないとのことだった。
「もう、この辺でやめとこーぜ」
どちらからともなく、共通点暴露大会は打ち切られ、他愛もない話題に移った。
とにかく昇太郎とは、心の深いところで魂が共鳴しあっていた。
その後も、不規則な生活になりがちなIT業界で働く昇太郎の時間が許すかぎり、ぼくたちは直接会って募る話をした。
べつだん読書が嫌いというわけではなく、むしろその逆で、趣味は読書と言ってもよかった。だからこそ、「私は本を読んでいるんだぞ」と周囲に無用なアピールをする人たちのなかで、大切な本のページをめくる気にはなれなかった。
それでも、バイト先から近い千代田図書文化館には定期的に足を運んでいる。なんてことはない。地下に喫煙室があることが大きい。
「一日に一本しか吸わないんだから、止めたらどうなの?」
母親のスズコから送られてくるメールには、まるでそれが署名として登録されているのかと思うほど、必ずその一文がくっついてくる。
我が子の健康を気遣っての言葉なのだろうが、いまのぼくにはそれほど響いてはこない。
携帯を鞄にしまい、代わりにバージニアソフィアのタバコを取り出す。
ちょうど火を点けたところで、喫煙室に自分と年齢も背丈もさして変わりない男が入ってきた。しかし、相手はぼくのカジュアルな服装とは対照的に藍色の背広をこぎれいに着こなしている
ぼくの右に立つなり、男は鞄やスーツのジャケットにある、ポケットと言うポケットをまさぐり始めた。誰が見てもライターを探しているのは明白だったので、「良かったら、どうっすか」と気軽にライターを差し出してみた。
男はパッと表情を明るくさせると、ぼくのライターから素直に火を受け取った。
そのとき改めて男の顔を見た。
不思議と、既視感が芽生えた。初対面な気がまったくと言っていいほどしないのだ。
はじめは、バイト先に来る常連客かと推察してみたが、どうもしっくりこない。
自問自答しながらも紫煙を燻らせる。
ふいにガラスの向こう側に目をやると、大ホールから忙しなく年配の男女が出入りしている。その慌ただしい館内の風景を、隣の彼もまた、ぼくと同じように目で追っていた。
喫煙室を立ち去るタイミングまでも、揃ってしまった。
ふと、「安易に野良猫に餌をやってはダメよ。それだけで、ついて来ちゃうんだから」と、むかしスズコが発したセリフが思い出された。なぜこのタイミングなのか。彼は野良猫なのか?
建物を出てからは、さすがに別の道へと入ったが、一週間後にまた、この図書館で彼と再会するとは思わなかった。
しかし、この出会いはのちに運命的なものとなる。なにも運命的な出会いという言葉が恋愛の専売特許ではないだろう。
彼こそが、ぼく自身の〝後継者〟となる人物だった。
二度目の再会は、千代田図書文化館の中にある珈琲店だ。
アメリカン一杯で三時間も居座り、新曲のための歌詞を考えていたところ彼が現れた。いや、正しくは歌詞を考えている最中に、携帯のバッテリーがなくなったのだが、持ち歩いていた充電器が見当たらず。鞄を必死に探しているときだ。
たまたま隣の席に座った彼から、「携帯はiPhoneですか? 良かったら、こないだのお礼です」と言って充電器を差し出された。
こないだのお礼とはなんぞや?と、怪訝な目を向けたが、一寸の間を置いたあとで彼だと分かった。やっぱり彼の顔を、この図書館で出会う以前から知っているような気がする。
相手が女性ならば、ここで〈ときめいた〉と表現するのが妥当なのだろうが、相手が男となると難しい。いっそうのこと、直感的にウマが合うとでも言うべきか。
しかし、それは見込み違いというわけではなさそうだった。
その後のやりとりでぼくと彼には、いくつも奇妙な共通点があることを認め合った。
ともに名前は祖母が命名し、どちらも名前に太郎が入っている。
「実は、ほかにケンタロウも候補としてあったみたいなんですが、最終的には昇太郎になりました」
隙間なくきれいに並んだ歯を見せながら言った。
誕生日までぴたりと揃いはしなかったものの、それでもわずか三日違いだった。おまけに出身も青森と札幌の北国つながりで、読書と曲作りが趣味と言う点まで一致した。
自然と会話の中で敬語がはずれた頃、上野で一緒に飯を食べたことがあった。
そのとき、昇太郎の親御さんが床屋を経営していることが判明。床屋に関しては忘れられないエピソードがあったので、必要以上に食い下がったのを覚えている。
これまで親父について他人に語ることはなかったが、出会って数回しか経っていない昇太郎が、その記録をあっさりと破ってくれた。
「小学生の頃、親父とふたり影を並べて歩くのは、月一と決まっててさ。それも短い距離なんだ。家から徒歩七、八分の通学コースにある床屋と家との往復だけ」
「親父さん、忙しい方だったの?」
ぼくはかぶりを振った。
親父につられて床屋行くと、決まってぼくは自分が作曲したものを周囲に披露した。そのたびに、床屋のご夫婦から、近所のおばちゃんおじちゃんまで、みな口をそろえて「すごいねぇ」と褒めてくれた。はじめは、そんな息子の姿を親父は誇らしく感じてくれているものかと思っていたが、どうもぼくを連れて床屋へ行く目的は、他にあるようだった。
ぼくの曲に周囲の意識が集まっているあいだ、何とも信じがたいことに、親父は床屋にある物品をくすねていたのだ。
あの頃の僕は、価格に関係なく盗むという行為が必ずしも罰せられるとはさほど思っていなかった。盗品の価値が小さければ、それほど問題ではないと思い込んでいた。そのせいか、いくら盗みを繰り返そうとも、当時の親父を一方的に突き放す気にはなれなかった。
「最後まで良いか悪いかはべつとして、誰かに見つかって通報されることはなかった」
我ながら馬鹿正直な男だと思う。親父の犯罪行為をありのまま打ち明けてしまった。
「え? それって、うちの店でも何か盗んだことがあったりしないよね?」
こんな話でも冗談で返してくれる男だとは思っておらず、良い意味で裏切られた。
ところが、これは単なる冗談に終わらなかった。
ふたりにとって驚愕の共通点は、この他にある。
「同じクラスメイトで、父親と一緒に月一で俺の店にやってくるヤツが実際にいたなぁ。そいつは自分で曲作りまでしていなかったけど、幼い頃からの夢はやっぱりシンガーで、実際地元ではそこそこ名の知れたグループのヴォーカルを担当していたよ」
思わず、笑いがこみあげてきた。
「ここまでくると、神がかりだな。これ以上、偶然が重なったら、昇太郎にプロポーズでもしちゃいそうで、怖えーよ」
昇太郎も上半身を揺らす。
「でもまぁ、この際だから訊くけどさ。どこかで昇太郎の顔を見たことがあるような気がするんだけど……東京での生活って、そこそこ長いほう?」
さすがにないと一蹴されると思ったが、意に反して昇太郎は意味深に小首を傾げた。
「たぶん、互いに面識はなかったと思うよ。ただ……、気色悪いと思わないで欲しいんだけど、俺の店に父親と来ていたってさっき話した地元の同級生って、賢に顔立ちが似ていたような気もするんだよね。鼻が高くて、目元がシャープで、そいつもやっぱり猫っ毛だった」
そこまで言われると、ドッペルゲンガーの写真が見たくなってくる。
念のため頼んでみたが、同級生が写っている写真は手元にないとのことだった。
「もう、この辺でやめとこーぜ」
どちらからともなく、共通点暴露大会は打ち切られ、他愛もない話題に移った。
とにかく昇太郎とは、心の深いところで魂が共鳴しあっていた。
その後も、不規則な生活になりがちなIT業界で働く昇太郎の時間が許すかぎり、ぼくたちは直接会って募る話をした。