KENTARO
文字数 5,113文字
自分が一番心を許した相手は、間違いなく賢太郎だ。
運命を感じずにはいられないひと。とは言え、彼にすべて本当のことを打ち明けたわけではない。
私を曝け出すということは、五歳離れた兄についても触れなければならない。
父も母も、私と遊ぶ時間よりもずっと多くの時間を兄に費やしていた。
兄は周囲の人とコミュニケーションをうまくとることができない。いや、そればかりかみんなと同じことをするにはその何倍もの時間と手助けを必要とした。
年を重ねていけば重ねていくほど、兄の行動は私に狂気的な色と、悲壮的な色を与えた。 中でも、「殺す」ことに関していつも熱心なのが気がかりだった。
祖父母から買ってもらった昆虫図鑑を、トイレやお風呂場まで持って行くほど大切にしていたが、とにかく破るのだ。拡大された蟻やトンボのページをズタズタに切り裂く。
私も幼かったが、兄の奇行は生涯忘れることのないほどのインパクトを胸の奥に残した。
それだけならば、まだ良かった。
やはり、その行為は本物の虫にまで及んだ。トンボの目を、まるで木の実でももぎ取るように雑に扱ったり、躊躇なく羽をむしって並べたり。
兄の発育を遅らせる病気は、確実に家族の心を蝕んでいった。
私が小学三年生になりたての頃、父が女を作って出て行った。
父の部屋のクローゼットからは、ごっそりと父の荷物が抜き取られていた。
残ったのは、父が唯一私に誕生日プレゼントしてくれたラジオだけだった。
母は、もともとメンタルが弱く、深刻なアルコール中毒に悩まされていたが、父に「捨てられた」事実がよほど耐えられなかったのだろう。別れの言葉もなく、ベランダから投身してしまった。
枝葉の多い老木に助けられ、幸い母の顔が損傷することはなかったと、親交の薄い大人たちに言われたが、幼かった私と兄には何が「幸い」なのか理解できなかった。
『時々、神は大罪を犯す』
その月、私の日記帳に太字で書いてあった言葉だ。
葬儀が終わると、すぐに母方の祖父母の家での生活が始まった。
そこでは、私と兄は同じ部屋だった。
色に例えるならば、右半分が白で左半分が黒。言うまでもなく前者が私で、後者が兄だ。くっきりとその色の違いは、狭い部屋からでも見て取れた。
いつからか、部屋の中央には養生テープが貼られていた。直線で一気に貼ることはできなかったのか、ところどころぶつ切りになっていた。
忘れもしない、私が十一歳で兄が十六歳の時のこと。
兄が、私を襲ったのだ。
私の顔面にかかる兄の荒々しい息と、ひたいから滴る汗の粒は、私の身も心もズタズタに引き裂いた。哀しいかな。兄には、私が妹と認識する能力がない。
私は布団に顔を埋め、一晩中泣いた。
自分の身体なのに、もはや私の身体ではないような感覚が、それからずっとまとわりついて離れなかった。
その後、兄とは別の部屋にしてもらった。極力、兄と顔を合わせないよう生活サイクルも変えた。
それでも、目を閉じると私の上に覆いかぶさる兄の顔がたびたび思い出され、夜は果てしない闇でしかなかった。
あとあと、兄が私を襲った時の表情が、動物図鑑を破いたり、虫を殺す時と、まるで同じだったという事実に気づいた。当たり前のように生きているものへの壮絶なる嫉妬なのかもわからない。
言うまでもなく、義務教育は散々なものだった。
自分の家族は常に重荷でしかなかったため、学校に自分の場所がこれと言ってあるわけではなかったが、家にいるより気楽な時があった。
そうして、瞬く間に特に喜ばしくもない十七回目の誕生日が来てしまう。
その日は、昼間から学校をサボって秋葉原の真ん中にいた。
父が唯一、私にくれた誕生日のプレゼントは、ラジオだった。
すでに女を作って出て行った父との連絡手段はない。だからこそ、父の心の深淵と繋がっていると信じていたラジオまでが壊れたと知った時は深く落ち込んだ。
このラジオが贈られた頃は、母と兄の四人でそれなりに家族はひとつだった。
寄り道せずに、祖父の知人が働く店を目指した。
どこの店もアイドルやら、瞳や胸が極端に大きい少女のポスターが貼られて異様に感じられた。
いまとは違って、携帯のキャンペーンガールを除くと、女性の姿はほとんどなかった。とかくこの町の男たちは生身の女に無関心だ。それが私には好都合だったわけだが。
ラジオを修理に出してから、まっすぐ駅へと向かった。行きとは別の改札口だったようで、駅前は歩行者天国になっていた。道路の中央には、額付きの写真がイーゼルにもたれて並んでいた。
桜はすでに散っていたが、そこには幻想的な光景が広がっていた。
「大自然の奇跡」というテーマで撮られた写真展。
ひとつひとつの写真には、被写体だけでなく撮る側も命を懸けて望む姿勢が見てとれた。
盆踊りのような仕草のスマトラオラウータンに、地域住民ですら目撃困難のセンザンコウ、いままさにアリゲーターを食い殺そうとている獰猛なワニなど。
そんなセンセーショナルな写真の中の一枚が、その後の人生観を大きく変えてくれるとは夢にも思わなかった。
重賞レースで転倒したサラブレッドの姿が、他の競走馬たちの脚と脚の隙間から見え隠れする。足元で濡れた土が飛び散っていることもあり、ダイナミックな印象を与えた。
私は、ギリギリまで写真に顔を近づけた。傍から見たら、この人はこのまま写真の世界に飛び込めてしまうのではないかと思うだろう。
「この写真、気に入ったかしら?」
ふと我に返り、素早く写真から顔を離した。
すぐ隣に、グレイヘアのご婦人が佇んでいた。何より、パープルグラデーションに、ステンドグラスのような素材の花模様をしたメガネがインパクト大だった。
ふと、唐突に振られた質問を思い出し、慌てて答えた。
「はい。どの写真も素晴らしいですが、これが特に……」
「そう、それは良かったわ」
ご婦人は、品性を感じさせる笑みを向けてきた。
主催者なのだろうか? それとも、この写真を撮られたご本人なのだろうか。
真正面の傑作写真を見ながらも、あれこれと推察した。
ご本人と出会えるチャンスなんてそうそうない。
そう思い立った私は、怖ず怖ずと訊いてみようとした。
しかし、ふたたび横を見た時には、すでにグレイヘアのご婦人はいなくなっていた。
少し残念な気はしたが、周囲を見渡してもご婦人らしき姿はどこにもなかった。
仕方なく、最も心打たれた写真の鑑賞タイムへと戻ることにした。
「それでも走り続ける」というタイトルとともに、キャプションが添え書きされていた。
この日は、朝まで晴天だった。
それなのに、レースが始まる数分前に辺りが暗くなり、土砂降りとなった。
悪天候の中でも、サラブレッドたちは3200メートル走らなければならなかった。
二つ目のコーナーで、圧倒的人気を誇るサラブレッドが転倒した。
僕は、その瞬間をこの目で見た。
周囲の人々は、申し合わせたように「あぁ」とそろいもそろって呻いた。
その事実にも悲しくなってしまったが、それでも走るほかのサラブレッドたちの姿は、僕に不思議と勇気を与えた。
どんな状況でも、四の五の言わずに自分のゴールに向かって走り続けなければならないのだから。
気づくと私は、真っ先に写真家の名前を確認し、左手の甲に油性ペンでその名を書き留めていた。
写真家の名前は、KENTARO。
北海道出身の二十三歳。写真はあくまでも趣味で、普段はシンガーソングライターとして活動、そう簡潔にプロフィールが書かれていた。
早速、私は写真展のポスターに小さく記載されていた主催者に連絡を取り、電話口でスタッフが対応に困っていたにもかかわらず、「自分への最高の誕生日プレゼントになりました!」と私は熱い思いをぶつけた。誰かに自分の気持ちをさらけ出したことがなかったので、電話を切ってからしばらくの間、満ち足りた気分になった。
次の誕生日を迎えるまでの一年、私は自分の場所を模索しようと思っていたが、実際はその前のめりな気持ちに身体が追い付かず、ちょくちょく体調を崩した。
半年間は、不調ながらもデパートに入っているCDショップで、販売スタッフとして働いた。年の近いスタッフと食事に行ったり、好きなイラストレーターの原画展へ一緒に行くこともあった。可もなく不可もなくの日々。
それでも、秋葉原で見つけた写真を時々思い出しては優しい気持ちになれた。
そんなある日、なんと賢太郎から直々に電話がかかってきた。
確かに興奮しながらもスタッフに自分の電話番号と名前を伝えてはいたが、この展開は予測していなかった。
「もしもし? 一年ほど前に秋葉原の写真展で僕の作品を見て感動してくださった、宮本一紗さんですか?」
たとえ一年の月日が流れていようとも、私はあの写真展を昨日のことのように思い出せた。
「あ、はい。そうですけど……」
受話器を右手から左手に持ち替えながら呼吸を整えようとした。
「その節は、僕にはもったいないお言葉をありがとうございました。お礼が遅くなってしまい、
大変申し訳ありませんでした。でも、こうして宮本さんのお声を聴くことができて、感激です!」
相手も緊張していたのだろう。こちらが言葉を挟む隙も与えないほど早口だった。
「もし、その、ご迷惑でなければ、近いうちに喫茶店でお茶でもしませんか?」
とても積極的な人だと思う反面、この誘いは涙ができるほど嬉しいものだった。 しかし、結論から言うと、約束の日、約束した場所に、私は行かなかった。
いや、意志に反して行けなくなってしまった。
指折り数えて会える日を楽しみにしていた。
オシャレには無頓着だったが、何を着ていったら良いだろうかと、こまめに週刊天気予報までチェックしていた。
実際に会って話すことで、自分の人生を新たに開くきっかけにまでなるのではないか、そこまでKENTAROとの出会いには期待を持っていた。
とにかく私は、希望の光を渇望していた。
それなのに、兄はどこまでも私を拘束する。
このタイミングで、―――兄が亡くなったのだ。
すぐには泣けなかった。それどころか、なぜ私の幸せを邪魔するのかと、怒りが沸き上がった。過去に兄から受けた傷を、私はまだ許していないのだ。
祖父母も介護が必要となってから、兄は障がい者支援施設に入所していた。
名前を告げるなり、施設の人から意外なものを手渡された。
「絵を描くことが好きだったカズサにあげる鉛筆はぼくが作る。そう言って、こちらと手紙を渡すよう頼まれました。先週、完成したばかりなんですよ」
業者から請け負った仕事内容が、文房具作りだったこともここで初めて知った。
そして、波打つようにクレヨンで書かれた手紙を広げる。
たくさん虫を殺してごめんね。
たくさん心を殺してごめんね。
明日も殺すかもしれない。
その前に殺されないといけない。
ごめんね。
兄が、初めて私に謝罪をした。
心を殺した相手に自分が含まれていることを、私はすぐに理解した。
読めば読むほど、兄の懺悔は昨日今日思いついた言葉には聞こえなかった。心と体のバランスがうまくとれず、長年苦しんでいたのだろう。
その証拠に、手紙に書かれている『殺』の漢字だけ和紙に描くような、おどろおどろしい字体になっていた。
一方的に父に置き去りにされ、一方的に母に先立たれたのは、何も私だけではなかったのだ。
正直、この病室へ来るまで、こんな展開は微塵も予測できなかった。
兄をぎゅっと抱きしめてあげたい、初めて心からそう思えた。同情からでもなければ、偽善でもなく。 ほんの少しの時間だけ、静かに眠る兄とふたりきりにしてもらった。
華奢な兄の身体は、私を抑えつけてきた時の身体とは別物に変わり果てていた。
薄い肩を抱えると、互いの孤独が骨から骨へと切に伝っていった。
境界線を作ってしまった部屋、距離を置いてしまった心、共有することを恐れた時間。
「私しか見送れなくて、ごめんね」
自然と口からこぼれた。
兄と妹の絆を感じる最期だった。
しばらくの間、家に引きこもる日々が続いた。
いままで溜め込んでいた感情をすべて外に吐き出すまで、たっぷりの時間と睡眠が必要だった。
運命を感じずにはいられないひと。とは言え、彼にすべて本当のことを打ち明けたわけではない。
私を曝け出すということは、五歳離れた兄についても触れなければならない。
父も母も、私と遊ぶ時間よりもずっと多くの時間を兄に費やしていた。
兄は周囲の人とコミュニケーションをうまくとることができない。いや、そればかりかみんなと同じことをするにはその何倍もの時間と手助けを必要とした。
年を重ねていけば重ねていくほど、兄の行動は私に狂気的な色と、悲壮的な色を与えた。 中でも、「殺す」ことに関していつも熱心なのが気がかりだった。
祖父母から買ってもらった昆虫図鑑を、トイレやお風呂場まで持って行くほど大切にしていたが、とにかく破るのだ。拡大された蟻やトンボのページをズタズタに切り裂く。
私も幼かったが、兄の奇行は生涯忘れることのないほどのインパクトを胸の奥に残した。
それだけならば、まだ良かった。
やはり、その行為は本物の虫にまで及んだ。トンボの目を、まるで木の実でももぎ取るように雑に扱ったり、躊躇なく羽をむしって並べたり。
兄の発育を遅らせる病気は、確実に家族の心を蝕んでいった。
私が小学三年生になりたての頃、父が女を作って出て行った。
父の部屋のクローゼットからは、ごっそりと父の荷物が抜き取られていた。
残ったのは、父が唯一私に誕生日プレゼントしてくれたラジオだけだった。
母は、もともとメンタルが弱く、深刻なアルコール中毒に悩まされていたが、父に「捨てられた」事実がよほど耐えられなかったのだろう。別れの言葉もなく、ベランダから投身してしまった。
枝葉の多い老木に助けられ、幸い母の顔が損傷することはなかったと、親交の薄い大人たちに言われたが、幼かった私と兄には何が「幸い」なのか理解できなかった。
『時々、神は大罪を犯す』
その月、私の日記帳に太字で書いてあった言葉だ。
葬儀が終わると、すぐに母方の祖父母の家での生活が始まった。
そこでは、私と兄は同じ部屋だった。
色に例えるならば、右半分が白で左半分が黒。言うまでもなく前者が私で、後者が兄だ。くっきりとその色の違いは、狭い部屋からでも見て取れた。
いつからか、部屋の中央には養生テープが貼られていた。直線で一気に貼ることはできなかったのか、ところどころぶつ切りになっていた。
忘れもしない、私が十一歳で兄が十六歳の時のこと。
兄が、私を襲ったのだ。
私の顔面にかかる兄の荒々しい息と、ひたいから滴る汗の粒は、私の身も心もズタズタに引き裂いた。哀しいかな。兄には、私が妹と認識する能力がない。
私は布団に顔を埋め、一晩中泣いた。
自分の身体なのに、もはや私の身体ではないような感覚が、それからずっとまとわりついて離れなかった。
その後、兄とは別の部屋にしてもらった。極力、兄と顔を合わせないよう生活サイクルも変えた。
それでも、目を閉じると私の上に覆いかぶさる兄の顔がたびたび思い出され、夜は果てしない闇でしかなかった。
あとあと、兄が私を襲った時の表情が、動物図鑑を破いたり、虫を殺す時と、まるで同じだったという事実に気づいた。当たり前のように生きているものへの壮絶なる嫉妬なのかもわからない。
言うまでもなく、義務教育は散々なものだった。
自分の家族は常に重荷でしかなかったため、学校に自分の場所がこれと言ってあるわけではなかったが、家にいるより気楽な時があった。
そうして、瞬く間に特に喜ばしくもない十七回目の誕生日が来てしまう。
その日は、昼間から学校をサボって秋葉原の真ん中にいた。
父が唯一、私にくれた誕生日のプレゼントは、ラジオだった。
すでに女を作って出て行った父との連絡手段はない。だからこそ、父の心の深淵と繋がっていると信じていたラジオまでが壊れたと知った時は深く落ち込んだ。
このラジオが贈られた頃は、母と兄の四人でそれなりに家族はひとつだった。
寄り道せずに、祖父の知人が働く店を目指した。
どこの店もアイドルやら、瞳や胸が極端に大きい少女のポスターが貼られて異様に感じられた。
いまとは違って、携帯のキャンペーンガールを除くと、女性の姿はほとんどなかった。とかくこの町の男たちは生身の女に無関心だ。それが私には好都合だったわけだが。
ラジオを修理に出してから、まっすぐ駅へと向かった。行きとは別の改札口だったようで、駅前は歩行者天国になっていた。道路の中央には、額付きの写真がイーゼルにもたれて並んでいた。
桜はすでに散っていたが、そこには幻想的な光景が広がっていた。
「大自然の奇跡」というテーマで撮られた写真展。
ひとつひとつの写真には、被写体だけでなく撮る側も命を懸けて望む姿勢が見てとれた。
盆踊りのような仕草のスマトラオラウータンに、地域住民ですら目撃困難のセンザンコウ、いままさにアリゲーターを食い殺そうとている獰猛なワニなど。
そんなセンセーショナルな写真の中の一枚が、その後の人生観を大きく変えてくれるとは夢にも思わなかった。
重賞レースで転倒したサラブレッドの姿が、他の競走馬たちの脚と脚の隙間から見え隠れする。足元で濡れた土が飛び散っていることもあり、ダイナミックな印象を与えた。
私は、ギリギリまで写真に顔を近づけた。傍から見たら、この人はこのまま写真の世界に飛び込めてしまうのではないかと思うだろう。
「この写真、気に入ったかしら?」
ふと我に返り、素早く写真から顔を離した。
すぐ隣に、グレイヘアのご婦人が佇んでいた。何より、パープルグラデーションに、ステンドグラスのような素材の花模様をしたメガネがインパクト大だった。
ふと、唐突に振られた質問を思い出し、慌てて答えた。
「はい。どの写真も素晴らしいですが、これが特に……」
「そう、それは良かったわ」
ご婦人は、品性を感じさせる笑みを向けてきた。
主催者なのだろうか? それとも、この写真を撮られたご本人なのだろうか。
真正面の傑作写真を見ながらも、あれこれと推察した。
ご本人と出会えるチャンスなんてそうそうない。
そう思い立った私は、怖ず怖ずと訊いてみようとした。
しかし、ふたたび横を見た時には、すでにグレイヘアのご婦人はいなくなっていた。
少し残念な気はしたが、周囲を見渡してもご婦人らしき姿はどこにもなかった。
仕方なく、最も心打たれた写真の鑑賞タイムへと戻ることにした。
「それでも走り続ける」というタイトルとともに、キャプションが添え書きされていた。
この日は、朝まで晴天だった。
それなのに、レースが始まる数分前に辺りが暗くなり、土砂降りとなった。
悪天候の中でも、サラブレッドたちは3200メートル走らなければならなかった。
二つ目のコーナーで、圧倒的人気を誇るサラブレッドが転倒した。
僕は、その瞬間をこの目で見た。
周囲の人々は、申し合わせたように「あぁ」とそろいもそろって呻いた。
その事実にも悲しくなってしまったが、それでも走るほかのサラブレッドたちの姿は、僕に不思議と勇気を与えた。
どんな状況でも、四の五の言わずに自分のゴールに向かって走り続けなければならないのだから。
気づくと私は、真っ先に写真家の名前を確認し、左手の甲に油性ペンでその名を書き留めていた。
写真家の名前は、KENTARO。
北海道出身の二十三歳。写真はあくまでも趣味で、普段はシンガーソングライターとして活動、そう簡潔にプロフィールが書かれていた。
早速、私は写真展のポスターに小さく記載されていた主催者に連絡を取り、電話口でスタッフが対応に困っていたにもかかわらず、「自分への最高の誕生日プレゼントになりました!」と私は熱い思いをぶつけた。誰かに自分の気持ちをさらけ出したことがなかったので、電話を切ってからしばらくの間、満ち足りた気分になった。
次の誕生日を迎えるまでの一年、私は自分の場所を模索しようと思っていたが、実際はその前のめりな気持ちに身体が追い付かず、ちょくちょく体調を崩した。
半年間は、不調ながらもデパートに入っているCDショップで、販売スタッフとして働いた。年の近いスタッフと食事に行ったり、好きなイラストレーターの原画展へ一緒に行くこともあった。可もなく不可もなくの日々。
それでも、秋葉原で見つけた写真を時々思い出しては優しい気持ちになれた。
そんなある日、なんと賢太郎から直々に電話がかかってきた。
確かに興奮しながらもスタッフに自分の電話番号と名前を伝えてはいたが、この展開は予測していなかった。
「もしもし? 一年ほど前に秋葉原の写真展で僕の作品を見て感動してくださった、宮本一紗さんですか?」
たとえ一年の月日が流れていようとも、私はあの写真展を昨日のことのように思い出せた。
「あ、はい。そうですけど……」
受話器を右手から左手に持ち替えながら呼吸を整えようとした。
「その節は、僕にはもったいないお言葉をありがとうございました。お礼が遅くなってしまい、
大変申し訳ありませんでした。でも、こうして宮本さんのお声を聴くことができて、感激です!」
相手も緊張していたのだろう。こちらが言葉を挟む隙も与えないほど早口だった。
「もし、その、ご迷惑でなければ、近いうちに喫茶店でお茶でもしませんか?」
とても積極的な人だと思う反面、この誘いは涙ができるほど嬉しいものだった。 しかし、結論から言うと、約束の日、約束した場所に、私は行かなかった。
いや、意志に反して行けなくなってしまった。
指折り数えて会える日を楽しみにしていた。
オシャレには無頓着だったが、何を着ていったら良いだろうかと、こまめに週刊天気予報までチェックしていた。
実際に会って話すことで、自分の人生を新たに開くきっかけにまでなるのではないか、そこまでKENTAROとの出会いには期待を持っていた。
とにかく私は、希望の光を渇望していた。
それなのに、兄はどこまでも私を拘束する。
このタイミングで、―――兄が亡くなったのだ。
すぐには泣けなかった。それどころか、なぜ私の幸せを邪魔するのかと、怒りが沸き上がった。過去に兄から受けた傷を、私はまだ許していないのだ。
祖父母も介護が必要となってから、兄は障がい者支援施設に入所していた。
名前を告げるなり、施設の人から意外なものを手渡された。
「絵を描くことが好きだったカズサにあげる鉛筆はぼくが作る。そう言って、こちらと手紙を渡すよう頼まれました。先週、完成したばかりなんですよ」
業者から請け負った仕事内容が、文房具作りだったこともここで初めて知った。
そして、波打つようにクレヨンで書かれた手紙を広げる。
たくさん虫を殺してごめんね。
たくさん心を殺してごめんね。
明日も殺すかもしれない。
その前に殺されないといけない。
ごめんね。
兄が、初めて私に謝罪をした。
心を殺した相手に自分が含まれていることを、私はすぐに理解した。
読めば読むほど、兄の懺悔は昨日今日思いついた言葉には聞こえなかった。心と体のバランスがうまくとれず、長年苦しんでいたのだろう。
その証拠に、手紙に書かれている『殺』の漢字だけ和紙に描くような、おどろおどろしい字体になっていた。
一方的に父に置き去りにされ、一方的に母に先立たれたのは、何も私だけではなかったのだ。
正直、この病室へ来るまで、こんな展開は微塵も予測できなかった。
兄をぎゅっと抱きしめてあげたい、初めて心からそう思えた。同情からでもなければ、偽善でもなく。 ほんの少しの時間だけ、静かに眠る兄とふたりきりにしてもらった。
華奢な兄の身体は、私を抑えつけてきた時の身体とは別物に変わり果てていた。
薄い肩を抱えると、互いの孤独が骨から骨へと切に伝っていった。
境界線を作ってしまった部屋、距離を置いてしまった心、共有することを恐れた時間。
「私しか見送れなくて、ごめんね」
自然と口からこぼれた。
兄と妹の絆を感じる最期だった。
しばらくの間、家に引きこもる日々が続いた。
いままで溜め込んでいた感情をすべて外に吐き出すまで、たっぷりの時間と睡眠が必要だった。