夜の仕事
文字数 1,780文字
虚脱感が薄らぎ、変わらなきゃいけないと思い始めるようになったのは、私が成人して間もない頃。
自分の心のリハビリは、絵を描くことだった。
画用紙に鉛筆や一色のサインペンで描く程度ではあったが、その間は心がとても安らいだ。昔から描くことは好きだったが、誰かに披露するどころか、人との話題にすらしたことはなかった。そのため、自分の絵のクオリティについてあまり追求したことがない。果たしてどこまで独学でやれるのかは見当もつかなかった。
一度だけ、絵画のカレッジスクールの体験に行ったことがあった。
平日の午前中ともあって主婦層が多く占めていた。前から二番目の席に座り、講師を待つ。ところが、信じられないことに講師は十五分も遅れてやってきた。
忘れられない。二十代でドレッドヘアの男性講師九十九太郎。
そこそこの美術大学を卒業しているようだったが、軟派な印象はぬぐえなかった。むろん、他の講師は真面目だったのかもしれないが、入会する気はすっかり失せた。
それまでは、美術大学へ進学する道も考えていたが、講師の印象に加え、やはり経済的負担は避けられない。調べれば調べるほど芸術の道で生きていくのは容易ではないと痛感する。美術系の大学を卒業しても、希望の進路につく者はほんの一握りで、事務職や販売職など、大学で学んだことと必ずしも合致しない場合がほとんどだ。当然、画家や絵本作家などは狭き門。
ひとまず、企業が募集するコンクールや、マスコットキャラクターの応募に定期的に挑戦し続けることで、見せる絵を描く習慣を身に着けることにした。
そのうち、何かしら絵に携わる仕事がしたいという思いだけは、どんどん色濃くなっていった。
しかし、現実はやはり甘くはない。
空しくも落選する日々が続いた。いくら応募しても、一次選考すら通過しない。
描く気力が失せたわけではなかったが、気がつくと、流れ作業のアルバイトをこなすだけの無機質な時間から抜け出せなくなっていた。
鬱々とした日々を過ごしていた矢先のこと。
祖母が老衰、その一週間後に祖母の後を追いかけるようにして祖父が心筋梗塞の末、息を引き取った。
ふたりは寡黙なほうで、必要以上に口出しをすることはなかったが、どんな時間に帰宅しても必ずどちらかが、「おかえりなさい」と私を優しく迎えてくれた。
もう二度と、そんなやり取りはできないのかと思うと、本気の涙が落ちた。
これで家族と呼べる人が、本当にいなくなってしまった。
通夜に突如、縁遠かった母方の伯父さんが現れた。
「父に話は聞いていたよ。苦労が絶えなかったね。葬儀場とかお弁当の手配とか、事務的な手続きはすべて伯父さんがやるからね」
母にはどこも似ていなかった。
それどころか、母から伯父さんとの思い出を聞いたことがない。今日まで私は、てっきり母は一人っ子だと思い込んでいた。
しかし、祖父母の死ですっかり心細くなっていた私には、伯父さんの存在が白馬の王子にすら思えた。伯父さんのおかげで、面倒なことをひとりで処理する必要がなくなった。
ところが、その安堵も束の間。
四十九日が過ぎた頃、冷や水をかけられたような衝撃を目の当たりにする。
伯父に、まんまと騙されたのだ。
完全に「面倒見の良い心優しきおじさん」を演じていたのだ。
こちらがまともな判断ができない状態を逆手に取り、祖父母の家、つまりその土地に関する書類を巧みに作成し、サインまでさせられたのだ。
そのせいで、両親を失ってからずっと祖父母と暮らしていた家からあっけなく追い払われてしまった。
伯父に、たったひとりで争う気力は、もはやどこにも残っていなかった。
数少ない親類に裏切られたことが、祖父母を失ったあとの喪失感をより深くした。
どのみち暮らす場所と生きるためのお金が必要だった。
仕事を選ぶ余裕も猶予もなかった。
結局、時給の良い夜の仕事に行き着いた。
履歴書に、どれだけ呑んでも酩酊したことはないと、酒の強さを明記した。血は争えない。
面接は五分で終了。
年齢と外見がすべてなのだろう。
しかし、「イラストレーターの道を目指しながら働く予定なので、すぐに辞めてしまうかもしれません」と、あくまでも自分の小さなプライドは保持した。
自分の心のリハビリは、絵を描くことだった。
画用紙に鉛筆や一色のサインペンで描く程度ではあったが、その間は心がとても安らいだ。昔から描くことは好きだったが、誰かに披露するどころか、人との話題にすらしたことはなかった。そのため、自分の絵のクオリティについてあまり追求したことがない。果たしてどこまで独学でやれるのかは見当もつかなかった。
一度だけ、絵画のカレッジスクールの体験に行ったことがあった。
平日の午前中ともあって主婦層が多く占めていた。前から二番目の席に座り、講師を待つ。ところが、信じられないことに講師は十五分も遅れてやってきた。
忘れられない。二十代でドレッドヘアの男性講師九十九太郎。
そこそこの美術大学を卒業しているようだったが、軟派な印象はぬぐえなかった。むろん、他の講師は真面目だったのかもしれないが、入会する気はすっかり失せた。
それまでは、美術大学へ進学する道も考えていたが、講師の印象に加え、やはり経済的負担は避けられない。調べれば調べるほど芸術の道で生きていくのは容易ではないと痛感する。美術系の大学を卒業しても、希望の進路につく者はほんの一握りで、事務職や販売職など、大学で学んだことと必ずしも合致しない場合がほとんどだ。当然、画家や絵本作家などは狭き門。
ひとまず、企業が募集するコンクールや、マスコットキャラクターの応募に定期的に挑戦し続けることで、見せる絵を描く習慣を身に着けることにした。
そのうち、何かしら絵に携わる仕事がしたいという思いだけは、どんどん色濃くなっていった。
しかし、現実はやはり甘くはない。
空しくも落選する日々が続いた。いくら応募しても、一次選考すら通過しない。
描く気力が失せたわけではなかったが、気がつくと、流れ作業のアルバイトをこなすだけの無機質な時間から抜け出せなくなっていた。
鬱々とした日々を過ごしていた矢先のこと。
祖母が老衰、その一週間後に祖母の後を追いかけるようにして祖父が心筋梗塞の末、息を引き取った。
ふたりは寡黙なほうで、必要以上に口出しをすることはなかったが、どんな時間に帰宅しても必ずどちらかが、「おかえりなさい」と私を優しく迎えてくれた。
もう二度と、そんなやり取りはできないのかと思うと、本気の涙が落ちた。
これで家族と呼べる人が、本当にいなくなってしまった。
通夜に突如、縁遠かった母方の伯父さんが現れた。
「父に話は聞いていたよ。苦労が絶えなかったね。葬儀場とかお弁当の手配とか、事務的な手続きはすべて伯父さんがやるからね」
母にはどこも似ていなかった。
それどころか、母から伯父さんとの思い出を聞いたことがない。今日まで私は、てっきり母は一人っ子だと思い込んでいた。
しかし、祖父母の死ですっかり心細くなっていた私には、伯父さんの存在が白馬の王子にすら思えた。伯父さんのおかげで、面倒なことをひとりで処理する必要がなくなった。
ところが、その安堵も束の間。
四十九日が過ぎた頃、冷や水をかけられたような衝撃を目の当たりにする。
伯父に、まんまと騙されたのだ。
完全に「面倒見の良い心優しきおじさん」を演じていたのだ。
こちらがまともな判断ができない状態を逆手に取り、祖父母の家、つまりその土地に関する書類を巧みに作成し、サインまでさせられたのだ。
そのせいで、両親を失ってからずっと祖父母と暮らしていた家からあっけなく追い払われてしまった。
伯父に、たったひとりで争う気力は、もはやどこにも残っていなかった。
数少ない親類に裏切られたことが、祖父母を失ったあとの喪失感をより深くした。
どのみち暮らす場所と生きるためのお金が必要だった。
仕事を選ぶ余裕も猶予もなかった。
結局、時給の良い夜の仕事に行き着いた。
履歴書に、どれだけ呑んでも酩酊したことはないと、酒の強さを明記した。血は争えない。
面接は五分で終了。
年齢と外見がすべてなのだろう。
しかし、「イラストレーターの道を目指しながら働く予定なので、すぐに辞めてしまうかもしれません」と、あくまでも自分の小さなプライドは保持した。