カオルンとトミちゃん
文字数 1,409文字
春になると、無意識にトレンチコートのベルトを目で追いかけてしまう。
両側の通しにベルトを巻きつけて、先端をポケットにしまうスタイルや、ベルトの一方の端を縦に垂らすワンテール結び、腰でリボン結びするスタイルなど。トレンチコートのベルトの結び方ひとつで、その人の性格を想像する。皺だらけで、だらしなく垂らしていたり、リボンが縦結びになっていたりすると、「せっかくスタイルが良いのに、もったいないなぁ」と残念に感じてしまう。
ふと、京浜東北線の車内で、ベルトがほどけて先端を引きずったまま電車を降りようする、グレイヘアのご婦人が目にとまった。事故に巻き込まれることもあるので、彼女のベルトをみすみす見過ごせなかった。
すぐにでも呼び止めようとしたが、座席から立ち上がって手を伸ばそうとしたときには、すでに、ホームへ降りていた。
「ベルト、ほどけてますよ!」
駅のホームが混雑しているせいで、私の声は彼女の耳に届かない。
もういちど呼び止めようとしたが、地面に引きずっていたベルトが踏まれそうになっていたので慌てて拾い上げた。
「危ないですよ!」
さすがに引っ張られて、ご婦人は肩越しに私の姿を認めた。
「あらやだ、お心遣いありがとう」
その言葉と同時に、背後で電車の扉が閉まった。
なかば恰幅のよい男二人組に押し出されるようにして、私と彼女はベンチのほうへと流された。電車が去ったあと、ご婦人は慇懃に頭を下げた。
改めて顔を見たとき、何よりもまず彼女のエキセントリックな黄色いフレームのサングラスに釘づけとなった。もともと、形の良い額、弓なりの黒い眉毛、さらには小顔と三拍子揃った端正な顔立ちだったが、肩の位置でカールされたグレイヘア、目の周りの皺すらもチャーミングに見えるハイライト効果のメイクは、とても洗練されていた。
「でも、降りる場所、ここじゃなかったんじゃない?」
「もしご迷惑でなければ、ほどけにくい結び方、お教えしましょうか?」
質問の答えになっていなかったが、自然とそんな言葉が口からこぼれた。
「まぁ。お優しいのね。でも、老人って言うのは、遠慮をしない生き物なのをご存じで?」
私たちは、声を出して笑った。
トミちゃんこと日向とみ子さんとは、こんな些細な出会いだったが、互いの家が比較的近いこともあって、何度かお茶をする仲にまで発展した。
会話の中で、自分が引越しを考えていることを打ち明けると、トミちゃんは目を細めてこんなことを言った。
「うちのマンションへ来なさいよ」
そうして私は、彼女の粋な計らいで、愛猫と一緒に彼女と同じマンションに移り住むことになった。
最上階に住む彼女の部屋には、ちょくちょく足を運んだ。おまけに私専用のマグカップまで置いてもらえるほど親密になった。
「ねぇ、日向さんはご存知でした?」
「ん? 何を?」
「ご老人にかぎらず、女性というのは遠慮をしない生き物だと言うことをです!」
「あら、似たようなことを聞いたことがあるわね」
「ふふ」
「そうそう、今後は私のこともっと気軽に、とみ子ちゃんとか、トミちゃんって呼んでちょうだい」
「それは、なかなかハードルが高いですねぇ」
「あら、知らなかった? 老人っていうのは、あれしてこれしてと、我儘な生き物でもあるのよ」
「それはそれは、初耳でございます」
こんな掛け合いから、私とトミちゃんの関係は始まった。
両側の通しにベルトを巻きつけて、先端をポケットにしまうスタイルや、ベルトの一方の端を縦に垂らすワンテール結び、腰でリボン結びするスタイルなど。トレンチコートのベルトの結び方ひとつで、その人の性格を想像する。皺だらけで、だらしなく垂らしていたり、リボンが縦結びになっていたりすると、「せっかくスタイルが良いのに、もったいないなぁ」と残念に感じてしまう。
ふと、京浜東北線の車内で、ベルトがほどけて先端を引きずったまま電車を降りようする、グレイヘアのご婦人が目にとまった。事故に巻き込まれることもあるので、彼女のベルトをみすみす見過ごせなかった。
すぐにでも呼び止めようとしたが、座席から立ち上がって手を伸ばそうとしたときには、すでに、ホームへ降りていた。
「ベルト、ほどけてますよ!」
駅のホームが混雑しているせいで、私の声は彼女の耳に届かない。
もういちど呼び止めようとしたが、地面に引きずっていたベルトが踏まれそうになっていたので慌てて拾い上げた。
「危ないですよ!」
さすがに引っ張られて、ご婦人は肩越しに私の姿を認めた。
「あらやだ、お心遣いありがとう」
その言葉と同時に、背後で電車の扉が閉まった。
なかば恰幅のよい男二人組に押し出されるようにして、私と彼女はベンチのほうへと流された。電車が去ったあと、ご婦人は慇懃に頭を下げた。
改めて顔を見たとき、何よりもまず彼女のエキセントリックな黄色いフレームのサングラスに釘づけとなった。もともと、形の良い額、弓なりの黒い眉毛、さらには小顔と三拍子揃った端正な顔立ちだったが、肩の位置でカールされたグレイヘア、目の周りの皺すらもチャーミングに見えるハイライト効果のメイクは、とても洗練されていた。
「でも、降りる場所、ここじゃなかったんじゃない?」
「もしご迷惑でなければ、ほどけにくい結び方、お教えしましょうか?」
質問の答えになっていなかったが、自然とそんな言葉が口からこぼれた。
「まぁ。お優しいのね。でも、老人って言うのは、遠慮をしない生き物なのをご存じで?」
私たちは、声を出して笑った。
トミちゃんこと日向とみ子さんとは、こんな些細な出会いだったが、互いの家が比較的近いこともあって、何度かお茶をする仲にまで発展した。
会話の中で、自分が引越しを考えていることを打ち明けると、トミちゃんは目を細めてこんなことを言った。
「うちのマンションへ来なさいよ」
そうして私は、彼女の粋な計らいで、愛猫と一緒に彼女と同じマンションに移り住むことになった。
最上階に住む彼女の部屋には、ちょくちょく足を運んだ。おまけに私専用のマグカップまで置いてもらえるほど親密になった。
「ねぇ、日向さんはご存知でした?」
「ん? 何を?」
「ご老人にかぎらず、女性というのは遠慮をしない生き物だと言うことをです!」
「あら、似たようなことを聞いたことがあるわね」
「ふふ」
「そうそう、今後は私のこともっと気軽に、とみ子ちゃんとか、トミちゃんって呼んでちょうだい」
「それは、なかなかハードルが高いですねぇ」
「あら、知らなかった? 老人っていうのは、あれしてこれしてと、我儘な生き物でもあるのよ」
「それはそれは、初耳でございます」
こんな掛け合いから、私とトミちゃんの関係は始まった。