ケンちゃん
文字数 1,154文字
その日、勤務先の店『うさぎクラブ』が十周年ともあって、胸元が開いたレオタードに黒の網タイツ、頭にはうさぎの耳がついたヘアーバンドを装着のバニーガール姿で常連客をもてなすことになった。
祖母と同じくらいの年齢で、大手レコード会社の重役レベルが私の接客相手だと上から聞いていたが、当日現れたのは自分と同じくらいにしか見えない男だけだった。
「なんか、騙されちゃいましたわ」
開口一番、男は笑いながらも自虐的に言った。
てっきり、当クラブのシステムに対する不満かと思ったが、そうではなかった。
「私でよければ、どんなお話でもお聞きしますよ?」
「ありがとう。いやー、音楽会社の人に、デビューそそのかされたっていうの? 自分のデモテープだけ、奪われた感じ」
「え、そんな……泣き寝入りしちゃ、ダメです!」
叫ぶように言ってから、無意識に腰が浮いた。
私を見上げる男は、目を白黒させている。
「やっぱり、大胆なところあるんだね」
「やっぱりって?」
「いや、何でもないよ。ぼくの代わりに憤慨してくれてありがとう」
男は枝豆を摘まみながら、あっけらかんと言った。いや、そう見せているだけかもしれない。
「でも、こういう場ってさ、みんな愚痴か自慢話かセクハラ発言しか口にしないでしょ? ワンオブゼムじゃ、つまらない。だからさ、好きな映画とか、最近感動した本とか、そういう話しない?」
働いて三ヶ月を過ぎようとしていたが、このタイプの客は初めてだった。
男は、軽く二、三杯ウイスキーを飲みながら、自分の趣味について語り始めた。
一方的に好みを押し付けるのではなく、時折こちらの好みにも耳を傾ける話し方にも好感が持てた。
ギラギラした店内には、ホステス同志の嫉妬や薄っぺらい世辞ばかりが飛び交っていたが、私たちのテーブルを包み込む空気だけが澄んでいるようだった。
「アンジェリーナ・ジョリーの昔の夫が監督、脚本、主演を務めている洋画で、タイトル忘れちゃったけど。なかなかの衝撃作だったんだ」
彼は、私の知らない映画についても気持ちよさそうに語った。
日付が変わっても、大手レコード会社の重役は来なかった。
「また来るよ。あと、ぼくのことはケンちゃんでいいよ」
名刺を渡すと、彼は両手でそれを受け取った。
「それまで、風邪とか引かないでよね、外ハネヘアーのバニーちゃん」
その言葉には、一種の愛を感じた。
むろん、人はいくつものマスクを持っている。店から一歩外に出ると、お年寄りに席を譲らない狭い心の持ち主であったり、親に対して罵倒するような人かもしれない。
でも、枯渇した私の心を潤すな何かを彼は持っていた。
店の前のパネルミラーに映る自分のバニーガール姿も、不思議とみじめに見えなかった。
祖母と同じくらいの年齢で、大手レコード会社の重役レベルが私の接客相手だと上から聞いていたが、当日現れたのは自分と同じくらいにしか見えない男だけだった。
「なんか、騙されちゃいましたわ」
開口一番、男は笑いながらも自虐的に言った。
てっきり、当クラブのシステムに対する不満かと思ったが、そうではなかった。
「私でよければ、どんなお話でもお聞きしますよ?」
「ありがとう。いやー、音楽会社の人に、デビューそそのかされたっていうの? 自分のデモテープだけ、奪われた感じ」
「え、そんな……泣き寝入りしちゃ、ダメです!」
叫ぶように言ってから、無意識に腰が浮いた。
私を見上げる男は、目を白黒させている。
「やっぱり、大胆なところあるんだね」
「やっぱりって?」
「いや、何でもないよ。ぼくの代わりに憤慨してくれてありがとう」
男は枝豆を摘まみながら、あっけらかんと言った。いや、そう見せているだけかもしれない。
「でも、こういう場ってさ、みんな愚痴か自慢話かセクハラ発言しか口にしないでしょ? ワンオブゼムじゃ、つまらない。だからさ、好きな映画とか、最近感動した本とか、そういう話しない?」
働いて三ヶ月を過ぎようとしていたが、このタイプの客は初めてだった。
男は、軽く二、三杯ウイスキーを飲みながら、自分の趣味について語り始めた。
一方的に好みを押し付けるのではなく、時折こちらの好みにも耳を傾ける話し方にも好感が持てた。
ギラギラした店内には、ホステス同志の嫉妬や薄っぺらい世辞ばかりが飛び交っていたが、私たちのテーブルを包み込む空気だけが澄んでいるようだった。
「アンジェリーナ・ジョリーの昔の夫が監督、脚本、主演を務めている洋画で、タイトル忘れちゃったけど。なかなかの衝撃作だったんだ」
彼は、私の知らない映画についても気持ちよさそうに語った。
日付が変わっても、大手レコード会社の重役は来なかった。
「また来るよ。あと、ぼくのことはケンちゃんでいいよ」
名刺を渡すと、彼は両手でそれを受け取った。
「それまで、風邪とか引かないでよね、外ハネヘアーのバニーちゃん」
その言葉には、一種の愛を感じた。
むろん、人はいくつものマスクを持っている。店から一歩外に出ると、お年寄りに席を譲らない狭い心の持ち主であったり、親に対して罵倒するような人かもしれない。
でも、枯渇した私の心を潤すな何かを彼は持っていた。
店の前のパネルミラーに映る自分のバニーガール姿も、不思議とみじめに見えなかった。