さよならバニーガール

文字数 749文字

 怠慢な仕事ぶりでクビになる前に辞めてしまおうと決意した、金曜日の昼過ぎのこと。
 その日は、店の大掃除をひとりでこなす必要があった。
 胸元を強調する赤いドレスもバニーガールの衣装も、しばらくお預けだった。みじめな衣装であることに変わりないはずだが、着飾らない者が長居するには耐えられない空間だった。
 黙々と煙ったい店内で掃除機をかけていると、誰かに名前を呼ばれた。
 私は掃除機の電源を切り、おもむろに振り向いた。
 そこには、ケンちゃんがひとり佇んでいた。
「どうして、ここに……」
「元気だった? 外ハネバニーちゃん」
「も、もうバニーじゃないですよ……」
 私は真面目に返す。
「ほら、ぼくは約束を破らない主義だからね。それから」
「それから?」
 以前にも、同じようなやり取りをした覚えがあった。
「あの日、神田の喫茶店で、閉店の十時半まで待ってた。でも、一紗は現れなかった」
 私は掃除機を床に置いた。
「ごめんなさい……」
 とっさに顔を両手で覆い隠した。
「どうしてもあの場に行くことができない急用ができてしまったの……」
「それで、こないだ謝ってくれたんだよね?」
 ケンちゃんの足元に視線を落としながら、こくりとうなづいた。
「それから。と、こないだ言いかけたのは、華やかなドレスがとても似合っているよ、と言いたかったんだ。でも、それ言っちゃうと、ワンオブゼムだろう?」
 私がいままで出会ってきた人の中で、一番まばゆい人だった。
 常に坂道を上っているような日々の中で、まさか憧れの人と再会できるという幸福が用意されていたとは思わなかった。
 現金かもしれないが、厭世的になりかけていた気持ちから、この世界に流れるわずかな奇跡をほんの少しだけ信じてみようと前向きになれた。
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登場人物紹介

志村九龍(シムラカオルン)

【カオルン】


悩み多き女性書店員。

ひょんなことから日向とみ子と出会い、友情が芽生える。

かつて〈ハーメルン〉に心惹かれていた。

日向とみ子(ヒュウガトミコ)

【トミちゃん】


グレイヘアの婦人。

駄洒落が好き。

マンションの最上階に住む。

カオルンの良き相談相手。

最近はまっていることがあるようだが……。

マキシム(旧名:志村真紀)


カオルンの飼い猫。

ロシアンブルー。

甘えっ子。

美しい。

井上


カオルンの婚活デートの相手。

第一印象はいいが性格に難あり。

ツクモ


ドレッドヘアの男。

自称画家として気ままに生きる。

偶然会ったカオルンと意気投合し交際するが……。

〈ハーメルン〉


千代田区を拠点として路上ライブを行う。

十代から四十代の幅広い年齢層のファンが支持している。

CDは出さない主義。

しばらく消息を絶っていた。

近藤


日向とみ子の『お友達』。

大学生。

ヲタク。金欠。

宮本一紗(ミヤモトカズサ)


精神に疾患のある兄を持つ。

絵が得意。

訳ありでバニーガールの仕事をするが……。

一紗の兄


精神に疾患がある。

祖父母の家から施設へと預けられた。

妹のおかげで心を開いていく。

賢太郎(ケンタロウ)


北国生まれ。

シンガーソングライター。

一紗とは運命的な再会を果たす。

昇太郎(ショウタロウ)


青森生まれ。

賢太郎とは瓜二つで、出会い鼻から

意気投合する。

一紗の夢を応援している。

正彦(マサヒコ)


ホームレス。

物語の重要な局面に登場する……。

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