遭遇×2
文字数 4,609文字
早いもので、秋のリアルトレンドを特集したファッション誌が続々と入荷してきた。それらを本棚に陳列しながら、脳内であれこれコーディネートをする時間が好きだった。
たとえば、寒すぎず暑すぎずの秋に重宝する七分袖のトップス。
腕時計やブレスレットなど、手元を強調させるアクセサリーや、重ね着によって何パターンにも魅せるスタイルを生み出せる万能アイテム。
はたまた帽子やマフラーなどの小物が生きてくる季節は、色や柄だけでなく、巻き方ひとつで脚長に見える視覚効果でシルエットに動きをつけることも可能となる。
そんなふうに、着回しパターンを無数に考えながら仕事をしていると、お客さんにもとびきりの笑顔で接客することができるのだった。
その日、仕事を終えると珍しいリズムで携帯が振動した。
〈ハーメルン〉
その名を目にしたとたん、心臓が逸った。
ずっとずっと待ちわびていた名前からの通知だった。
思い立ったときにはすでに、有楽町を飛び出して道草なしに秋葉原へと向かっていた。
一年ぶりに彼がツイートしたことが分かったときは、心が跳ね上がるくらい嬉しかった。
一時、ネット上では〈死亡説〉が流れ、ファンをどよめかせた。
いつも同じ指にはめられているハートのシルバーリングに、左手で握られたマイク。
ファン歴の長い者たちには聞き慣れた自己紹介ソングから、いよいよ路上ライブはスタートした。新曲を交えて計十曲が披露された。
いつもならば、拍手を送る頃には心も満たされ、また明日から仕事を頑張ろうと、前向きな気持ちになるところだ。
しかし、この日はそう易々とはいかなかった。
一年ぶりに姿を見せた〈ハーメルン〉に、何かしらの違和感を持つ。
人が違和感を抱くとき、それは大半が正しい。
先日、外部から招いた講師が、万引きについて語った際に口にした言葉が反芻される。
早速、他のファンも自分と同じ違和感を抱かなかったか、注意深く辺りを見渡す。
話したことはなくても、見知った顔触れを何人か確認できた。パッと見はみんな、〈ハーメルン〉に疑念を抱く様子はなく、いつも通り熱視線を送っていた。
もしかするとこれは、漫画家や音楽家が長い充電期間を経て復活したとき、以前の画風や曲調とは微妙に変わってしまったことから生じる、あの違和感なのかもしれない。
ライブ終了後、これまでは必ず短い手紙と、箱にチャリンと気持ちを置いてきたが、この日は自分の気持ちに嘘はつけなかった。
結局、違和感の正体を掴めぬまま秋葉原を後にした。
次の週もつづったーで告知があり、同じ電気街の改札をすぐ出たところで路上ライブが行われた。友人と買い物をする予定だったが、早めに切り上げた。〈ハーメルン〉が現れるところから彼の行動を、逐一チェックするつもりでいた。
相変わらず歌以外でのトークはいっさいなく、パソコンで作成した音楽を流しながら歌うスタイルも健在だった。さらに言えば、ギターなどの楽器を弾かない代わりに、口笛や指を鳴らすところも以前とまったく同じだ。
それは、歌だけでなく服装にも言えた。ハーメルンの笛吹きをほうふつさせる羽根つきハットも同じ紺色で、目元が隠れるほど目深に被るところも変わらない。
キミたちを洞窟へ連れて行くつもりはないよ~♪
ただただ、ボクの心の中へと連れて行きたいだけさ♪
ハーメルンの笛吹き男が死神だって?
ハーメルンの笛吹き男が精神異常者だって?
まわりの大人たちは、ただ認めたくないだけさ~♪
ボクの奏でるメロディが、この街をも支配してしまうことを♪
この日、彼は五曲ワンセットを三回繰り返した。
三曲目の〝家族ゾクゾク〟だけが新曲だった。
若い夫婦による乳児虐待や、体に障がいを持って生まれた子どもたちのこと、離婚を繰り返す夫婦の心理など、なかなかきわどい時事テーマを扱った歌詞だ。
なかでも、
「家族をどこまで信頼できるのか 僕だけでは決められないよ ゾクゾクしてしまう 現実はどこになるのか これが現実なのか」
というフレーズがサビとあって、もっとも印象に残った。しかし、これもまたいままでと異なる路線ではない。やはり、少し過敏になり過ぎているだけなのだろうか。いやいや何かしらの違和感はあるのだ。そうした自問自答を繰り返しているうちに、最後の曲までも歌い終わってしまった。
彼が用意した箱には、前回にも増して小銭やお札がたまっていた。それ以外では、ビスケットや、のど飴なんかを差し入れする女性もいた。
歌うとき以外は声を発さないため、どんなことを話しかけられても、〈ハーメルン〉は握手や一礼といったシンプルな対応で通す。だからこそ、うっかり言葉を洩らすようなことはないか、にわかに期待したが、そのようなことは起こらなかった。
私は帰り支度を終えようとする〈ハーメルン〉に、素早く近寄ってみた。ほかとは違う気配に、刹那〈ハーメルン〉が私に怯えたような態度を見せた気がした。
「もし、もし良かったら、私の気持ちを受け取ってください」
これはひとつの賭けだった。寸前でとっさに思いついたやり方だが。
〈ハーメルン〉は、私の顔を凝視した。
かつての自分ならば、こんな間近で愛しの〈ハーメルン〉に見つめられるなんて!と、頬を紅潮させ、恥ずかしさのあまり目線を反らしたかもしれない。
〈ハーメルン〉は、すぐに万札を懐におさめることはせず逡巡する素振りを見せたが、最後は一礼しながらもちゃっかり受け取った。
そのとき、〈ハーメルン〉の手と私の手とがわずかに触れた。
過去に、二、三回、〈ハーメルン〉と握手をしたことがある。そのたびに手袋を脱いだ覚えがあったので、寒い季節だったのは確かだ。しかし、以前と比べものにならないほどその手には、「ヒヤッ」とした冷たさがあった。
それから、〈ハーメルン〉の姿が視界から消えてもなお、違和感は消えてなくならなかった。
あぁ……どうして私は、〈ハーメルン〉の歌を純粋な気持ちで聴くことができなくなってしまったんだろう……。まさか?違和感の原因は、〈ハーメルン〉にあるのではなく、私の感性や心境の変化が原因なのだろうか?
予期せぬ不協和音に、私は一抹の寂しさを覚えた。このまま家に帰る気にはなれなかったので、夜の秋葉原をひとり徘徊することにした。
信号を待つあいだ、カラカラと落ち葉が道路の脇で転がっているのが目に留まった。落ちているタバコに当たり失速したり、ほかの落ち葉を踏み台にしてさらに回転したり。そんなふうに歩いているものだから、途中、前方からくる二人組に軽くぶつかってしまった。
もう、帰ろうかな……。
そんなことを思いながらも、私の足は駅とは真逆の、秋葉原中央通りから外れた道をさまよっていた。
ふと、雑居ビルから伸びたバーの看板が目に入る。
自分のイニシャルと同じ、KSという文字が仄暗い光を帯びていた。これも何かの縁かもしれない。私は、吸い込まれるようにして、地下に続く階段をゆっくりと下りた。
レンガ色のガラス扉をゆっくり押し開けると、蝶ネクタイ姿のウェイターと目が合った。ウェイターは、バーよりスポーツジムのほうが馴染みそうな、こざっぱりと刈られた頭をしている。また、店内のBGMもアニメソングではなく、誰もが耳にしたことのある洋楽だった。
しかし、スターウォーズのぬいぐるみや美少女フィギュアの類と、やはりここは秋葉原なのだと言わしめる物が、レジまわりに隙間なく飾られていた。
「おひとり様ですか?」と、ウェイターに尋ねられてうなづく。
店内は、ほどよく賑わっていたが、奥の席に比較的ゆっくりと寛げそうな席が二、三空いていた。
残されたつまみ皿を回収していた別のウェイターに案内され、その後ろについて歩いているときだった。
「カオルンじゃない!」
稲妻が走ったような風変わりなデザインのサングラスをかけたトミちゃんの声は、いつもよりしゃがれていた。まさかこんなところで彼女と遭遇するとは思わなかった。
頭にはロシア人が被りそうなミンクの帽子に、赤い薔薇がプリントされた膝丈ワンピースと、相変わらず派手ないでたちだ。おまけに今日のグレイヘアは、優しい照明に照らされていっそうキラキラと輝いて見えた。
「ど、どうしてこんな場所で独酌してるんですか!」
私のすっとんきょうな声は、両側の客からも視線を集めた。
「3Dライブを体験してきたところなのよ~!」
だから声が掠れていたのかと、納得する。
いや、それよりも、3Dライブとは何ぞや?
すぐに訊こうとしたが、蝶ネクタイ姿の店員に遮られた。
メニューをぱらぱらとめくってから、やはりいつものウイスキーをロックで注文する。
エイコーンのフレンズ・オブ・オークは、私のお気に入りのウイスキーだ。
英語でどんぐりのことをエイコーンと言うのだが、そこに集まる花や虫、鳥たちを描いた水彩色鉛筆タッチで描かれたラベルが、とにかく洒落ているのだ。
「話の続きだけどね、そこで新しく大学生のお友達ができちゃったのよ!」
「そこって、3Dライブの会場で?!」
「そうなの。驚きでしょう?」
トミちゃんは弾ませた声でそう言うと、片手で握っていたグラスのお酒を一気に飲み干した。
「そもそも、3Dライブへ行くキッカケって、なんだったの?」
「実はね、孫がファンクラブに入っていた二次元アイドルのライブなのよ」
お孫さんが? ファンクラブ? 二次元アイドル? 代わりにトミちゃんが参戦?
日頃からトミちゃんがぶっ飛んでいるのは知っていたが、彼女の年齢でさすがにそれはハードルが高いのではないか? 思わず、目を瞬いてしまった。
「ど、どうしてまた急に、そんな展開に? 急きょ、お孫さんが行けなくなったとか?」
「そうね……。行けなくなったっていうのが正しいわね」
やや奥歯にものが挟まったような言い方だったが、このときはそれほど気にならなかった。
「ペンライト、ちゃんと振り回してきたわよ~! ねぇ、知ってた? カオルン?」
「何を?」
「一本のペンライトで、何色も変えることができちゃうハイテクなライブグッズがあることよ!」
ライブの興奮冷めやらぬと言った状態で、トミちゃんはシャネルのチェーンバッグからペンライトを取り出す。トミちゃんがそれを持つと、もはやそれはただのペンライトではなく、魔法のステッキに見えた。
星型のお皿にのった数種のアーモンドナッツが運ばれてきた。私たちは、それを交互につまむ。
「しっかし、貴重な体験をしたわ。最新鋭のホログラフィックっていうの? ステージ上で踊るキャラクターたちが3Dなのよ! 横から見ても違和感ないほど立体的だったの! ただ笑っちゃったのが、アイドルたちの最後の投げキッス。誰も観客がいない方向にしてたの……ふふふ」
私が三杯目を飲み終えるまで、トミちゃんはずっとこんな調子で熱弁を振るい続けた。
「この年で初体験できるなんて、幸せ者よね」
トミちゃんと過ごせた濃厚な時間は、まさに僥倖。
ひとまず、さっきまで靄がかかったような気分はこの場から消えてなくなっていた。
たとえば、寒すぎず暑すぎずの秋に重宝する七分袖のトップス。
腕時計やブレスレットなど、手元を強調させるアクセサリーや、重ね着によって何パターンにも魅せるスタイルを生み出せる万能アイテム。
はたまた帽子やマフラーなどの小物が生きてくる季節は、色や柄だけでなく、巻き方ひとつで脚長に見える視覚効果でシルエットに動きをつけることも可能となる。
そんなふうに、着回しパターンを無数に考えながら仕事をしていると、お客さんにもとびきりの笑顔で接客することができるのだった。
その日、仕事を終えると珍しいリズムで携帯が振動した。
〈ハーメルン〉
その名を目にしたとたん、心臓が逸った。
ずっとずっと待ちわびていた名前からの通知だった。
思い立ったときにはすでに、有楽町を飛び出して道草なしに秋葉原へと向かっていた。
一年ぶりに彼がツイートしたことが分かったときは、心が跳ね上がるくらい嬉しかった。
一時、ネット上では〈死亡説〉が流れ、ファンをどよめかせた。
いつも同じ指にはめられているハートのシルバーリングに、左手で握られたマイク。
ファン歴の長い者たちには聞き慣れた自己紹介ソングから、いよいよ路上ライブはスタートした。新曲を交えて計十曲が披露された。
いつもならば、拍手を送る頃には心も満たされ、また明日から仕事を頑張ろうと、前向きな気持ちになるところだ。
しかし、この日はそう易々とはいかなかった。
一年ぶりに姿を見せた〈ハーメルン〉に、何かしらの違和感を持つ。
人が違和感を抱くとき、それは大半が正しい。
先日、外部から招いた講師が、万引きについて語った際に口にした言葉が反芻される。
早速、他のファンも自分と同じ違和感を抱かなかったか、注意深く辺りを見渡す。
話したことはなくても、見知った顔触れを何人か確認できた。パッと見はみんな、〈ハーメルン〉に疑念を抱く様子はなく、いつも通り熱視線を送っていた。
もしかするとこれは、漫画家や音楽家が長い充電期間を経て復活したとき、以前の画風や曲調とは微妙に変わってしまったことから生じる、あの違和感なのかもしれない。
ライブ終了後、これまでは必ず短い手紙と、箱にチャリンと気持ちを置いてきたが、この日は自分の気持ちに嘘はつけなかった。
結局、違和感の正体を掴めぬまま秋葉原を後にした。
次の週もつづったーで告知があり、同じ電気街の改札をすぐ出たところで路上ライブが行われた。友人と買い物をする予定だったが、早めに切り上げた。〈ハーメルン〉が現れるところから彼の行動を、逐一チェックするつもりでいた。
相変わらず歌以外でのトークはいっさいなく、パソコンで作成した音楽を流しながら歌うスタイルも健在だった。さらに言えば、ギターなどの楽器を弾かない代わりに、口笛や指を鳴らすところも以前とまったく同じだ。
それは、歌だけでなく服装にも言えた。ハーメルンの笛吹きをほうふつさせる羽根つきハットも同じ紺色で、目元が隠れるほど目深に被るところも変わらない。
キミたちを洞窟へ連れて行くつもりはないよ~♪
ただただ、ボクの心の中へと連れて行きたいだけさ♪
ハーメルンの笛吹き男が死神だって?
ハーメルンの笛吹き男が精神異常者だって?
まわりの大人たちは、ただ認めたくないだけさ~♪
ボクの奏でるメロディが、この街をも支配してしまうことを♪
この日、彼は五曲ワンセットを三回繰り返した。
三曲目の〝家族ゾクゾク〟だけが新曲だった。
若い夫婦による乳児虐待や、体に障がいを持って生まれた子どもたちのこと、離婚を繰り返す夫婦の心理など、なかなかきわどい時事テーマを扱った歌詞だ。
なかでも、
「家族をどこまで信頼できるのか 僕だけでは決められないよ ゾクゾクしてしまう 現実はどこになるのか これが現実なのか」
というフレーズがサビとあって、もっとも印象に残った。しかし、これもまたいままでと異なる路線ではない。やはり、少し過敏になり過ぎているだけなのだろうか。いやいや何かしらの違和感はあるのだ。そうした自問自答を繰り返しているうちに、最後の曲までも歌い終わってしまった。
彼が用意した箱には、前回にも増して小銭やお札がたまっていた。それ以外では、ビスケットや、のど飴なんかを差し入れする女性もいた。
歌うとき以外は声を発さないため、どんなことを話しかけられても、〈ハーメルン〉は握手や一礼といったシンプルな対応で通す。だからこそ、うっかり言葉を洩らすようなことはないか、にわかに期待したが、そのようなことは起こらなかった。
私は帰り支度を終えようとする〈ハーメルン〉に、素早く近寄ってみた。ほかとは違う気配に、刹那〈ハーメルン〉が私に怯えたような態度を見せた気がした。
「もし、もし良かったら、私の気持ちを受け取ってください」
これはひとつの賭けだった。寸前でとっさに思いついたやり方だが。
〈ハーメルン〉は、私の顔を凝視した。
かつての自分ならば、こんな間近で愛しの〈ハーメルン〉に見つめられるなんて!と、頬を紅潮させ、恥ずかしさのあまり目線を反らしたかもしれない。
〈ハーメルン〉は、すぐに万札を懐におさめることはせず逡巡する素振りを見せたが、最後は一礼しながらもちゃっかり受け取った。
そのとき、〈ハーメルン〉の手と私の手とがわずかに触れた。
過去に、二、三回、〈ハーメルン〉と握手をしたことがある。そのたびに手袋を脱いだ覚えがあったので、寒い季節だったのは確かだ。しかし、以前と比べものにならないほどその手には、「ヒヤッ」とした冷たさがあった。
それから、〈ハーメルン〉の姿が視界から消えてもなお、違和感は消えてなくならなかった。
あぁ……どうして私は、〈ハーメルン〉の歌を純粋な気持ちで聴くことができなくなってしまったんだろう……。まさか?違和感の原因は、〈ハーメルン〉にあるのではなく、私の感性や心境の変化が原因なのだろうか?
予期せぬ不協和音に、私は一抹の寂しさを覚えた。このまま家に帰る気にはなれなかったので、夜の秋葉原をひとり徘徊することにした。
信号を待つあいだ、カラカラと落ち葉が道路の脇で転がっているのが目に留まった。落ちているタバコに当たり失速したり、ほかの落ち葉を踏み台にしてさらに回転したり。そんなふうに歩いているものだから、途中、前方からくる二人組に軽くぶつかってしまった。
もう、帰ろうかな……。
そんなことを思いながらも、私の足は駅とは真逆の、秋葉原中央通りから外れた道をさまよっていた。
ふと、雑居ビルから伸びたバーの看板が目に入る。
自分のイニシャルと同じ、KSという文字が仄暗い光を帯びていた。これも何かの縁かもしれない。私は、吸い込まれるようにして、地下に続く階段をゆっくりと下りた。
レンガ色のガラス扉をゆっくり押し開けると、蝶ネクタイ姿のウェイターと目が合った。ウェイターは、バーよりスポーツジムのほうが馴染みそうな、こざっぱりと刈られた頭をしている。また、店内のBGMもアニメソングではなく、誰もが耳にしたことのある洋楽だった。
しかし、スターウォーズのぬいぐるみや美少女フィギュアの類と、やはりここは秋葉原なのだと言わしめる物が、レジまわりに隙間なく飾られていた。
「おひとり様ですか?」と、ウェイターに尋ねられてうなづく。
店内は、ほどよく賑わっていたが、奥の席に比較的ゆっくりと寛げそうな席が二、三空いていた。
残されたつまみ皿を回収していた別のウェイターに案内され、その後ろについて歩いているときだった。
「カオルンじゃない!」
稲妻が走ったような風変わりなデザインのサングラスをかけたトミちゃんの声は、いつもよりしゃがれていた。まさかこんなところで彼女と遭遇するとは思わなかった。
頭にはロシア人が被りそうなミンクの帽子に、赤い薔薇がプリントされた膝丈ワンピースと、相変わらず派手ないでたちだ。おまけに今日のグレイヘアは、優しい照明に照らされていっそうキラキラと輝いて見えた。
「ど、どうしてこんな場所で独酌してるんですか!」
私のすっとんきょうな声は、両側の客からも視線を集めた。
「3Dライブを体験してきたところなのよ~!」
だから声が掠れていたのかと、納得する。
いや、それよりも、3Dライブとは何ぞや?
すぐに訊こうとしたが、蝶ネクタイ姿の店員に遮られた。
メニューをぱらぱらとめくってから、やはりいつものウイスキーをロックで注文する。
エイコーンのフレンズ・オブ・オークは、私のお気に入りのウイスキーだ。
英語でどんぐりのことをエイコーンと言うのだが、そこに集まる花や虫、鳥たちを描いた水彩色鉛筆タッチで描かれたラベルが、とにかく洒落ているのだ。
「話の続きだけどね、そこで新しく大学生のお友達ができちゃったのよ!」
「そこって、3Dライブの会場で?!」
「そうなの。驚きでしょう?」
トミちゃんは弾ませた声でそう言うと、片手で握っていたグラスのお酒を一気に飲み干した。
「そもそも、3Dライブへ行くキッカケって、なんだったの?」
「実はね、孫がファンクラブに入っていた二次元アイドルのライブなのよ」
お孫さんが? ファンクラブ? 二次元アイドル? 代わりにトミちゃんが参戦?
日頃からトミちゃんがぶっ飛んでいるのは知っていたが、彼女の年齢でさすがにそれはハードルが高いのではないか? 思わず、目を瞬いてしまった。
「ど、どうしてまた急に、そんな展開に? 急きょ、お孫さんが行けなくなったとか?」
「そうね……。行けなくなったっていうのが正しいわね」
やや奥歯にものが挟まったような言い方だったが、このときはそれほど気にならなかった。
「ペンライト、ちゃんと振り回してきたわよ~! ねぇ、知ってた? カオルン?」
「何を?」
「一本のペンライトで、何色も変えることができちゃうハイテクなライブグッズがあることよ!」
ライブの興奮冷めやらぬと言った状態で、トミちゃんはシャネルのチェーンバッグからペンライトを取り出す。トミちゃんがそれを持つと、もはやそれはただのペンライトではなく、魔法のステッキに見えた。
星型のお皿にのった数種のアーモンドナッツが運ばれてきた。私たちは、それを交互につまむ。
「しっかし、貴重な体験をしたわ。最新鋭のホログラフィックっていうの? ステージ上で踊るキャラクターたちが3Dなのよ! 横から見ても違和感ないほど立体的だったの! ただ笑っちゃったのが、アイドルたちの最後の投げキッス。誰も観客がいない方向にしてたの……ふふふ」
私が三杯目を飲み終えるまで、トミちゃんはずっとこんな調子で熱弁を振るい続けた。
「この年で初体験できるなんて、幸せ者よね」
トミちゃんと過ごせた濃厚な時間は、まさに僥倖。
ひとまず、さっきまで靄がかかったような気分はこの場から消えてなくなっていた。