トミちゃんの部屋
文字数 1,879文字
玄関の照明を点ける前に、ロシアンブルーのマキシムが青い瞳で私を出迎える。長い耳に、しなやかな背中、美しい手足に、艶やかな灰色の毛並み。どの角度から見ても、完璧な美しさだ。
たとえマキシムの目的がご飯だとしても、私の浮腫んだふくらはぎにその柔らかな頭をすり寄せられると、一日の疲れも吹き飛んでしまう。
私が鞄を部屋に置きに行き、トイレへ行き、ネックレスをアクセサリーの箱に戻し、猫のご飯が入っている棚を開ける。そのあいだ、マキシムはずっと喉を鳴らしながら「みゃーお、みゃーお」と啼いて、私のあとをついて歩く。それがあまりにも愛おしくて、何度も背中を撫でてあげた。
マキシムのことは、もともと志村真紀と呼んでいた。なぜ真紀と名付けたかは、おいおい説明するとして、先にマキシムと改名した理由を話そうと思う。
「洋猫にその名前はどうなの? ロシアンブルーに志村真紀なんて、滑稽じゃなくて?」
そう、トミちゃんからまっとうなツッコミをもらったからというのが表向きで、本当の理由は、真紀と呼ぶと、忘れたい過去が引っ張り出されてしまうからだ。
しかし、マキシムもまんざらではないようで、「真紀真紀!」と呼んでも「なーぁお」と野太い声しか出さなかったが、改名後は甘ったるい声で応えてくれるようになった。
ご飯をもらった後は、すぐに定位置の本棚へと飛び乗り、ひと通り毛繕いしてから丸くなってしまう。
それでも、作り置きしていたキーマカレーを咀嚼しながら、「マキシムは今日、どんな日だった?」「今日、前から目をつけていた服がセールで安くなってたんだよ~」「また仕事でお金が合わなくて、それで遅くなっちゃった……」と、つい一方的に話しかけてしまう。
目が合ったマキシムが、「最上階にでも行っとく?」と提案するように、突然「みゃーお」と啼いた。私は少し考えてから、「それのった!」と手を叩いた。そして、皿に移しかえたばかりのキーマカレーを鍋に戻すと、踵のつぶれたスニーカーに足を通した。
一一〇一号室の前で呼び鈴を鳴らす代わりに、「トトトントン」とドアをリズムカルに叩く。
「あら、カオルン」
今日もトミちゃんは、派手なサングラスをかけて出てきた。
一般的には、年齢とともに洋服の色数を増やしたり、華やかな柄をチョイスしたがる傾向にあるが、トミちゃんは「大多数の法則」には乗らない。
レースがあしらわれたアイボリーの膝丈スカートに、丸襟のカットソーと、素材だけ華やかなものをチョイスする。また、いくつになっても毛染めをしないトミちゃんのふわふわグレイヘアは、下手すると私の髪よりも艶があった。
「カレーの匂いね」
トミちゃんは、私が手に持っていた片手鍋のガラスふたを勝手に空けて目を細める。
「加齢臭じゃ、ないからね?」
カオルンがおどけて返すと、トミちゃんはコントのように後退った。
数分後、コペンハーゲンのお皿に盛りつけられた残り物のキーマカレーが、食卓に並べられた。お値打ちしそうな器やカトラリーに包まれて、そのキーマカレーは普段の何倍もおいしそうに見えた。
「いただきます」と口にしてから箸を置くまで、トミちゃんは文字通り食べることだけに集中する。テレビや音楽などのBGMはおろか、食事中はいっさいの言葉も交わされない。
それは父親に躾けられた名残だと、話してくれたことがある。
たいがいトミちゃんよりも、私のほうが先に箸を置く。それでも、目線を持て余すことはない。なぜなら、陰影を意識した光の配置、ガラステーブルには手作りのパンフラワー、バニラ色の壁に星が夜空にまたたくリトグラフ、窓際には船のフォルムをした白い鉢植えの観葉植物など、室内を飾り立てるハイセンスなインテリアが盛りだくさんで目の保養になるからだ。
リビングから見える、ある部屋の扉を除いて……。
自分に霊感こそないが、そこには何かが集まって深い眠りについているように見えた。私は密かにその場所を、〈開かずの間〉と呼んでいる。
「ねぇ、あの部屋は使ってないの?」
唐突に、でも軽妙にそれとなく訊いてみた。
「そ、そうね。長いこと使っていないわね。ずっと……片付けてないのよ」
トミちゃんの黒い瞳が、右に左に泳いだ。
目に映る調度品は、いつも埃を被っていない上に、暇さえあれば私の部屋も隅々まで掃除をしたいと言うトミちゃんなのだ。
どこか腑に落ちなかったが、「そんな一面があるなんて、意外!」と、返すだけに留めた。
トミちゃんとはその後、つつがなく会話を続けた。
たとえマキシムの目的がご飯だとしても、私の浮腫んだふくらはぎにその柔らかな頭をすり寄せられると、一日の疲れも吹き飛んでしまう。
私が鞄を部屋に置きに行き、トイレへ行き、ネックレスをアクセサリーの箱に戻し、猫のご飯が入っている棚を開ける。そのあいだ、マキシムはずっと喉を鳴らしながら「みゃーお、みゃーお」と啼いて、私のあとをついて歩く。それがあまりにも愛おしくて、何度も背中を撫でてあげた。
マキシムのことは、もともと志村真紀と呼んでいた。なぜ真紀と名付けたかは、おいおい説明するとして、先にマキシムと改名した理由を話そうと思う。
「洋猫にその名前はどうなの? ロシアンブルーに志村真紀なんて、滑稽じゃなくて?」
そう、トミちゃんからまっとうなツッコミをもらったからというのが表向きで、本当の理由は、真紀と呼ぶと、忘れたい過去が引っ張り出されてしまうからだ。
しかし、マキシムもまんざらではないようで、「真紀真紀!」と呼んでも「なーぁお」と野太い声しか出さなかったが、改名後は甘ったるい声で応えてくれるようになった。
ご飯をもらった後は、すぐに定位置の本棚へと飛び乗り、ひと通り毛繕いしてから丸くなってしまう。
それでも、作り置きしていたキーマカレーを咀嚼しながら、「マキシムは今日、どんな日だった?」「今日、前から目をつけていた服がセールで安くなってたんだよ~」「また仕事でお金が合わなくて、それで遅くなっちゃった……」と、つい一方的に話しかけてしまう。
目が合ったマキシムが、「最上階にでも行っとく?」と提案するように、突然「みゃーお」と啼いた。私は少し考えてから、「それのった!」と手を叩いた。そして、皿に移しかえたばかりのキーマカレーを鍋に戻すと、踵のつぶれたスニーカーに足を通した。
一一〇一号室の前で呼び鈴を鳴らす代わりに、「トトトントン」とドアをリズムカルに叩く。
「あら、カオルン」
今日もトミちゃんは、派手なサングラスをかけて出てきた。
一般的には、年齢とともに洋服の色数を増やしたり、華やかな柄をチョイスしたがる傾向にあるが、トミちゃんは「大多数の法則」には乗らない。
レースがあしらわれたアイボリーの膝丈スカートに、丸襟のカットソーと、素材だけ華やかなものをチョイスする。また、いくつになっても毛染めをしないトミちゃんのふわふわグレイヘアは、下手すると私の髪よりも艶があった。
「カレーの匂いね」
トミちゃんは、私が手に持っていた片手鍋のガラスふたを勝手に空けて目を細める。
「加齢臭じゃ、ないからね?」
カオルンがおどけて返すと、トミちゃんはコントのように後退った。
数分後、コペンハーゲンのお皿に盛りつけられた残り物のキーマカレーが、食卓に並べられた。お値打ちしそうな器やカトラリーに包まれて、そのキーマカレーは普段の何倍もおいしそうに見えた。
「いただきます」と口にしてから箸を置くまで、トミちゃんは文字通り食べることだけに集中する。テレビや音楽などのBGMはおろか、食事中はいっさいの言葉も交わされない。
それは父親に躾けられた名残だと、話してくれたことがある。
たいがいトミちゃんよりも、私のほうが先に箸を置く。それでも、目線を持て余すことはない。なぜなら、陰影を意識した光の配置、ガラステーブルには手作りのパンフラワー、バニラ色の壁に星が夜空にまたたくリトグラフ、窓際には船のフォルムをした白い鉢植えの観葉植物など、室内を飾り立てるハイセンスなインテリアが盛りだくさんで目の保養になるからだ。
リビングから見える、ある部屋の扉を除いて……。
自分に霊感こそないが、そこには何かが集まって深い眠りについているように見えた。私は密かにその場所を、〈開かずの間〉と呼んでいる。
「ねぇ、あの部屋は使ってないの?」
唐突に、でも軽妙にそれとなく訊いてみた。
「そ、そうね。長いこと使っていないわね。ずっと……片付けてないのよ」
トミちゃんの黒い瞳が、右に左に泳いだ。
目に映る調度品は、いつも埃を被っていない上に、暇さえあれば私の部屋も隅々まで掃除をしたいと言うトミちゃんなのだ。
どこか腑に落ちなかったが、「そんな一面があるなんて、意外!」と、返すだけに留めた。
トミちゃんとはその後、つつがなく会話を続けた。