カオルンの過去
文字数 3,392文字
かれこれ、五年ほど前までさかのぼる。
当時、婚活三年目にしても良い縁に恵まれず、躍起になっていた。
今思い出しても不愉快極まりないエピソードだ。
幸せを掴むために時間もお金も投資しているはずが、泥のような徒労感だけ持って帰る日々。そんな矢先、ロシアンブルーの真紀と出会い、その悪循環にピリオドを打つことができた。
あの日は、友人を介して知り合った、同じアパレル関係の男性と新橋で二度目のデートをした。
あらかじめ私の好物を気にかけてくれたようで、当日、魚介類が美味しいと評判の居酒屋を予約していた。カウンター席だったが、隣の席との間隔が広く、ゆったりと座ることができた。
彼は、率先してメニューを私のほうへ傾けながら、「マグロは好き?」「このお店は手毬寿司がメインみたいだけど、食べてみる?」「デザート、欲しくない?」と気を遣ってくれた。
初めてのデートでは、それほど口数が多い印象はなかったが、二回目からはリラックスしてくれたのか、終始、会話までリードしてくれた。
このひとなら、また会ってみたいかも。
ほろ酔い気分になると、そんな言葉が自然と頭に浮かんできた。
「まだお腹に入りそう! 井上さんがビールを注文するときに、ハマチも一緒に頼んでもらっても良いですか?」
直後、なぜ地雷を踏んでしまったのかまったく理解できなかった。
「おまえ、自分の分は自分で頼めよっ」
我が耳を疑った。
それまで穏やかだった彼の口調が一変したのだ。
そして、目を白黒させる私には気にも留めず、彼は何事もなかったかのように自分で盛り付けたサラダの山を崩す。
「あ、じゃあ、私が井上さんのビールと一緒に注文しますね」
もう一度、恐る恐る言ってみる。
「は? だから、自分の分は自分で言えって」
私の脈が一気に速くなった。
彼を見ると、いつの間にか上等なヘッドホンで両耳を塞いでいた。
さらには、注文したお皿とお皿の隙間に携帯を置くと、激しいビートを刻むメロディを再生し始めた。
これは、一種の中毒なのだろうか。それとも、お酒と音楽の最強タッグによってハイになり、気が大きくなってしまったのか。
すでにハマチも井上さんもどうでもよくなってしまった。
ひとまず化粧室へ逃げようと思い、ショルダーバッグに手をかけたときだった。
「そもそも、九龍って書いてカオルンって本気かよ? 嘘言ってない?」
グラスを持った手を、私の顔の前まで傾けてきた。
「昔から変わってるとはよく言われますが……、本名ですから」
「親御さん、遊んじゃったねー。九龍って、どこの地名だっけ?」
沸々と苛立ちがこみ上げてきた。
店内にほかのお客さんがいなければ、頭から水でもかけてやったかもしれない。我慢の限界だった。
「化粧室へ行ってまいります」
私はそう言って、トイレへ行くふりをしながら外へ出た。こんなことならもっと高い物を注文しておくべきだったと少しだけ後悔した。
その後、大股歩きで駅の反対側まで行き、適当な居酒屋に飛び込んだ。そこで私は、強いお酒ばかり積極的に選び、今日の出来事を水ならぬ酒で流すことにした。
気づけば終電はなくなっていた。
私が、国会通り沿いのビルの階段でうなだれていると、ひょっこりとロシアンブルーの真紀がやってきた。
「お嬢さん、お嬢さん。こんなところで無防備に横になっていたら危ないよ」
実に紳士的な口ぶりで猫は、私に声をかけてきた。
ここで、ずっと黙って聞いていたトミちゃんが、「え、どういうこと? 飲みすぎて、幻聴が聞こえたってこと?」と、軍手を脱ぎながらツッコミをいれてきた。
もちろん、猫が人間の言葉を話すわけがない。
では、誰が?
階段を上りきったところに、ドレッドヘアの男が座っていた。直感的に私より年齢は上と予測したが、社会人の身なりをしていないせいか、ぱっと見は大学生に見えた。
旅をしながら、似顔絵を描いたり、たまに小学生に絵を教えたりして、それこそ猫のように気ままに生きていると言う。そのなところに惹かれてしまったのだろうか。
まさか、この出会いからツクモとはかれこれ三年、猫の真紀とは五年近く関係が続くとは夢にも思わなかった。
「あなたが猫の正体ね?」
「キミ、大丈夫?」
「ああ、ビッグベンも見えるわ……」
「え? あれは都政会館だよ。こりゃ、相当お飲みになったな」
ツクモの言葉のあとで、真紀も私にツッコミをいれるように掠れた声を出した。
どれくらいそこで、ふたりと一匹で雑談していたかわからないが、夜風で体が冷えてきた頃、私とツクモは近くのファミレスに場所を移した。
「こんなビルが密集している場所に猫なんているのね」
「あの猫は、千代田公園に住んでるんよ」
「野良猫でロシアンブルーって、珍しいわよね?」
「いやいや、あの猫は、よく見ると正統なロシアンブルーではないんよ」
「え、どういうこと?」
「実は、お腹としっぽの先が、白く斑なんだ」
「え、純血じゃないとダメなの?」
「そんな怖い顔しなくても……べつに、ダメとは言ってないよ」
「お腹が白くたって、とことん腹黒くたって、ロシアンブルーで良いじゃん」
「キミ、面白いね。ところで、名前はなんていうの?」
「なに、また名前で判断しようとしてる?」
「何の話? キミ、まだ酔っぱらってる?」
「そもそも、初対面のひとに本名なんて言わないよ?」
「じゃあ、キミの好きな名前を教えてよ」
「好きな名前、好きな名前……真紀? 漢字で書くと、真実の真に、日本書紀の紀」
「即答したところから推測するに、好きな芸能人とか?」
「テレビは時間の無駄だから捨てちゃったし、そもそも芸能人なんか興味ないわ」
「じゃあ、なんでまた?」
「なんか、正統な感じがしない?」
「え? どういう意味? そもそも、さっき言ったことと矛盾してない?」
「してないわよ」
「完全に酔っ払いだな。あはは。正統がイイって、あの猫にケンカ売っちゃってるよ」
「それより、さっきからあの猫あの猫って、なんか気に食わないわ」
「名前がないんだからしかたないんよ。あ、この際だから真紀とでも呼んでみる?」
「あ、それのった!」
「私を拾ってくれた、愛しの真紀のこと、話してよ」
「真紀はな、定期的に僕と真夜中にデートをしてくれるんよ」
「毎日じゃダメなの?」
「ほら、猫にだってパートナーを選ぶ権利くらい、あるだろう?」
私とツクモのやり取りは、フライドポテトと三百円のドリンクバーだけで、始発の電車が走り出す頃まで続いた。
最悪の夜が、真紀とツクモのおかげで最高の夜になった。
「そんな素敵な思い出があるなら、改名しないほうが良かったんじゃない?」
用意周到なトミちゃんは、ボルドーのケリーバッグ(彼女曰く、エルメスの刻印が錆びついてしまったのでアウトドア用なのだとか)から、ふたり分のビスケットを出しながら言った。
「良いの。むしろ、改名のキッカケをもらえたことに、感謝してるの。元カレとの思い出は、完全に消し去りたかったから」
私は薄く笑った。
「このビスケット、おいしいね……」
「キハチのだもの。当然よ」
ふたりで、もう一枚、もう二枚、はむはむと咀嚼した。
「私の職場に来た、元カレの隣には……」
トミちゃんは、真っ赤な爪の奥にはさまったビスケットの粉を取りながら、
「そんな過去の男、忘れちゃいなさい!」
と、ピシャリ言った。
「でも、違うの。元カレが連れていたのは」
か細い声で話を続けるも、トミちゃんは言葉をかぶせてくる。
「よく、元カレ以上に好きになれる人とはもう出会えない、なーんて大げさに嘆く子、いるじゃない?」
目を反らすつもりはなかったが、私は地面に視線を落とした。トミちゃんの言葉の続きを言おうか、言わまいかためらった。
「やっぱり……、そう簡単には掘り起こせないものね」
どちらの意味を指して言ったのだろうか。
気にはなったが、それ以上は何も言わなかった。
その後、どちらからともなく池の近くにあるベンチに座した。帰りの電車に乗るまで黙ったままでいたが、新緑に包まれた千代田公園を、こうしてトミちゃんと眺めているのは嫌じゃなかった。
当時、婚活三年目にしても良い縁に恵まれず、躍起になっていた。
今思い出しても不愉快極まりないエピソードだ。
幸せを掴むために時間もお金も投資しているはずが、泥のような徒労感だけ持って帰る日々。そんな矢先、ロシアンブルーの真紀と出会い、その悪循環にピリオドを打つことができた。
あの日は、友人を介して知り合った、同じアパレル関係の男性と新橋で二度目のデートをした。
あらかじめ私の好物を気にかけてくれたようで、当日、魚介類が美味しいと評判の居酒屋を予約していた。カウンター席だったが、隣の席との間隔が広く、ゆったりと座ることができた。
彼は、率先してメニューを私のほうへ傾けながら、「マグロは好き?」「このお店は手毬寿司がメインみたいだけど、食べてみる?」「デザート、欲しくない?」と気を遣ってくれた。
初めてのデートでは、それほど口数が多い印象はなかったが、二回目からはリラックスしてくれたのか、終始、会話までリードしてくれた。
このひとなら、また会ってみたいかも。
ほろ酔い気分になると、そんな言葉が自然と頭に浮かんできた。
「まだお腹に入りそう! 井上さんがビールを注文するときに、ハマチも一緒に頼んでもらっても良いですか?」
直後、なぜ地雷を踏んでしまったのかまったく理解できなかった。
「おまえ、自分の分は自分で頼めよっ」
我が耳を疑った。
それまで穏やかだった彼の口調が一変したのだ。
そして、目を白黒させる私には気にも留めず、彼は何事もなかったかのように自分で盛り付けたサラダの山を崩す。
「あ、じゃあ、私が井上さんのビールと一緒に注文しますね」
もう一度、恐る恐る言ってみる。
「は? だから、自分の分は自分で言えって」
私の脈が一気に速くなった。
彼を見ると、いつの間にか上等なヘッドホンで両耳を塞いでいた。
さらには、注文したお皿とお皿の隙間に携帯を置くと、激しいビートを刻むメロディを再生し始めた。
これは、一種の中毒なのだろうか。それとも、お酒と音楽の最強タッグによってハイになり、気が大きくなってしまったのか。
すでにハマチも井上さんもどうでもよくなってしまった。
ひとまず化粧室へ逃げようと思い、ショルダーバッグに手をかけたときだった。
「そもそも、九龍って書いてカオルンって本気かよ? 嘘言ってない?」
グラスを持った手を、私の顔の前まで傾けてきた。
「昔から変わってるとはよく言われますが……、本名ですから」
「親御さん、遊んじゃったねー。九龍って、どこの地名だっけ?」
沸々と苛立ちがこみ上げてきた。
店内にほかのお客さんがいなければ、頭から水でもかけてやったかもしれない。我慢の限界だった。
「化粧室へ行ってまいります」
私はそう言って、トイレへ行くふりをしながら外へ出た。こんなことならもっと高い物を注文しておくべきだったと少しだけ後悔した。
その後、大股歩きで駅の反対側まで行き、適当な居酒屋に飛び込んだ。そこで私は、強いお酒ばかり積極的に選び、今日の出来事を水ならぬ酒で流すことにした。
気づけば終電はなくなっていた。
私が、国会通り沿いのビルの階段でうなだれていると、ひょっこりとロシアンブルーの真紀がやってきた。
「お嬢さん、お嬢さん。こんなところで無防備に横になっていたら危ないよ」
実に紳士的な口ぶりで猫は、私に声をかけてきた。
ここで、ずっと黙って聞いていたトミちゃんが、「え、どういうこと? 飲みすぎて、幻聴が聞こえたってこと?」と、軍手を脱ぎながらツッコミをいれてきた。
もちろん、猫が人間の言葉を話すわけがない。
では、誰が?
階段を上りきったところに、ドレッドヘアの男が座っていた。直感的に私より年齢は上と予測したが、社会人の身なりをしていないせいか、ぱっと見は大学生に見えた。
旅をしながら、似顔絵を描いたり、たまに小学生に絵を教えたりして、それこそ猫のように気ままに生きていると言う。そのなところに惹かれてしまったのだろうか。
まさか、この出会いからツクモとはかれこれ三年、猫の真紀とは五年近く関係が続くとは夢にも思わなかった。
「あなたが猫の正体ね?」
「キミ、大丈夫?」
「ああ、ビッグベンも見えるわ……」
「え? あれは都政会館だよ。こりゃ、相当お飲みになったな」
ツクモの言葉のあとで、真紀も私にツッコミをいれるように掠れた声を出した。
どれくらいそこで、ふたりと一匹で雑談していたかわからないが、夜風で体が冷えてきた頃、私とツクモは近くのファミレスに場所を移した。
「こんなビルが密集している場所に猫なんているのね」
「あの猫は、千代田公園に住んでるんよ」
「野良猫でロシアンブルーって、珍しいわよね?」
「いやいや、あの猫は、よく見ると正統なロシアンブルーではないんよ」
「え、どういうこと?」
「実は、お腹としっぽの先が、白く斑なんだ」
「え、純血じゃないとダメなの?」
「そんな怖い顔しなくても……べつに、ダメとは言ってないよ」
「お腹が白くたって、とことん腹黒くたって、ロシアンブルーで良いじゃん」
「キミ、面白いね。ところで、名前はなんていうの?」
「なに、また名前で判断しようとしてる?」
「何の話? キミ、まだ酔っぱらってる?」
「そもそも、初対面のひとに本名なんて言わないよ?」
「じゃあ、キミの好きな名前を教えてよ」
「好きな名前、好きな名前……真紀? 漢字で書くと、真実の真に、日本書紀の紀」
「即答したところから推測するに、好きな芸能人とか?」
「テレビは時間の無駄だから捨てちゃったし、そもそも芸能人なんか興味ないわ」
「じゃあ、なんでまた?」
「なんか、正統な感じがしない?」
「え? どういう意味? そもそも、さっき言ったことと矛盾してない?」
「してないわよ」
「完全に酔っ払いだな。あはは。正統がイイって、あの猫にケンカ売っちゃってるよ」
「それより、さっきからあの猫あの猫って、なんか気に食わないわ」
「名前がないんだからしかたないんよ。あ、この際だから真紀とでも呼んでみる?」
「あ、それのった!」
「私を拾ってくれた、愛しの真紀のこと、話してよ」
「真紀はな、定期的に僕と真夜中にデートをしてくれるんよ」
「毎日じゃダメなの?」
「ほら、猫にだってパートナーを選ぶ権利くらい、あるだろう?」
私とツクモのやり取りは、フライドポテトと三百円のドリンクバーだけで、始発の電車が走り出す頃まで続いた。
最悪の夜が、真紀とツクモのおかげで最高の夜になった。
「そんな素敵な思い出があるなら、改名しないほうが良かったんじゃない?」
用意周到なトミちゃんは、ボルドーのケリーバッグ(彼女曰く、エルメスの刻印が錆びついてしまったのでアウトドア用なのだとか)から、ふたり分のビスケットを出しながら言った。
「良いの。むしろ、改名のキッカケをもらえたことに、感謝してるの。元カレとの思い出は、完全に消し去りたかったから」
私は薄く笑った。
「このビスケット、おいしいね……」
「キハチのだもの。当然よ」
ふたりで、もう一枚、もう二枚、はむはむと咀嚼した。
「私の職場に来た、元カレの隣には……」
トミちゃんは、真っ赤な爪の奥にはさまったビスケットの粉を取りながら、
「そんな過去の男、忘れちゃいなさい!」
と、ピシャリ言った。
「でも、違うの。元カレが連れていたのは」
か細い声で話を続けるも、トミちゃんは言葉をかぶせてくる。
「よく、元カレ以上に好きになれる人とはもう出会えない、なーんて大げさに嘆く子、いるじゃない?」
目を反らすつもりはなかったが、私は地面に視線を落とした。トミちゃんの言葉の続きを言おうか、言わまいかためらった。
「やっぱり……、そう簡単には掘り起こせないものね」
どちらの意味を指して言ったのだろうか。
気にはなったが、それ以上は何も言わなかった。
その後、どちらからともなく池の近くにあるベンチに座した。帰りの電車に乗るまで黙ったままでいたが、新緑に包まれた千代田公園を、こうしてトミちゃんと眺めているのは嫌じゃなかった。