カズサとの時間
文字数 1,988文字
「あまりに音痴で、こりゃ騒音ものだなと思ったら、即刻、歌うのを止めさせるからな?」
こんなふざけたやり取りだったので、本当にその週末、昇太郎が聞きに来るとは思っていなかった。
いつものように自己紹介ソングからスタートし、五曲ほど披露した。
この頃は、熱心に耳を傾けてくれる人よりも、明らかに途中から立ち去るひとのほうが多かったが、気持ち良く全曲歌い終えると、後ろのほうから力強い拍手の音が響いていた。
赤い比翼シャツに黒のスラックスという、なんともキザないでたちの昇太郎だ。
歌うときは、いつもハーメルンが被るような中折れハット帽を目深に被るのだが、耳まで赤くなったのを彼に悟られないよう、さらに深く被り直した。
以降、昇太郎はぼくの音楽に対して口を出すようになった。彼も曲作りが趣味だったのだから当然の流れかもしれない。ただ、そのことで軽い口論になることはあっても、ゴッホとゴーギャンのように、一度でも友情関係にヒビが入るようなことは幸いなかった。
こんな贅沢な日々がいつまでも続くと期待していたが、ぼくの短い人生は唐突に終わる。
だが、その前にもうひとり話しておきたい人がいる。
雪のような白い肌に、肩の上で外にハネた髪がチャームポイントの彼女は、宮本一紗。
何事もひたむきに取り組む姿に心底惚れた。
絶滅危惧種の動物を救うNPOに所属する傍ら、イラストレーターの仕事もこなす。一言で彼女を表すなら、とても気立ての良い女性だ。
短い時期だが、写真家として生きていこうと思ったこともあった。これ以上、最高の瞬間には立ち会えないと思うほど劇的な写真が撮れた年、自分の写真が秋葉原に展示された。
それを見てひっそり感動するだけでなく、その熱い想いを伝えてくれたのが紛れもなく一紗だった。
その後、紆余曲折を経て夜の世界で再会を果たす。これほど予定調和な人生を、俺はほかに知らない。
自分のことを多くは語りたがらない節はあったが、一向に構わなかった。
それでも、苦労の多い人生だったのではないかと踏んでいる。
過去の不幸をすべて幸福へと転換させてやりたい、いつしかそんな大それた願望を自分は抱くようになっていた。
後半、昇太郎と三人で遊ぶ機会は増えたが、一紗とふたりっきりの時間は特別だった。
最期に一紗と観に行った映画は、リドリー・スコット監督の「オデッセイ」だ。
火星に取り残された宇宙飛行士が、たったひとりでサバイバルな生活を続けて生き延び、最後には無事帰還するという感動的なSF作品。
「死んだと思っていた人が生きていたとわかったときの喜びなんて、想像もできないわ」
雪をあざむくような肌の一紗を横目で盗み見ながら、僕は考えてみた。
「絶滅寸前の生き物が、一紗のような熱心な活動によってふたたび増え始めたときのことを想像すれば、簡単にわかるんじゃない?」
「賢ちゃんってば、なかなかうまいことを言うわね」
右肩から落ちた赤いマフラーを直しながら、一紗は相好を崩す。
「そういえば、来週から正式発表となる狼のモノトン。あれ、なんでうさぎリンゴを齧ってる設定なの?」
「実は、悲しいストーリーがあるのよ」
初めて一紗は、狼モノトンの物語を訥々と語り始めた。
モノトンは、すでに絶滅したとされるニホンオオカミがモデルなの。
誰も生きているところを見たことがないから、本物のニホンオオカミが現れたとき、あらゆる動物たちが怖れた。
それでも、モノトンは自分の存在を知って欲しさにあらゆる動物との接触を試みるの。
なかなか成功しなかったけれど、努力の甲斐あって、ようやく一匹のうさぎだけは話を聞いてくれることに。
でもね、モノトンは正しい接し方を知らなかったから、パクっと目の前のうさぎを噛みついてしまったの。
そしたら、うさぎは意識を失って硬くなってしまい、やがて、うさぎリンゴになってしまった……
「……というお話……。ね、切ないでしょう?」
刹那、一紗の顔から笑みが消えた。
勘ぐり過ぎかもしれないが、もしかすると、モノトンの物語には、彼女の何かしらトラウマとも言える実体験が含まれているのかもしれない。
思えば、ふたりで会っているとき、ふっと疲れたような表情を見せることがあった。いつも周囲を気遣って明るく振る舞う性格なだけに、その一瞬の暗さは逆に目立った。
この日、ぼくは決意する。
二か月後に迫る、彼女の誕生日の四月十三日に、路上ライブでプロポーズをしようと。
昇太郎には、早めにこのことを告げた。
「そこで、頼み事があるんだ」
当日、ライブの前座を昇太郎にお願いした。ドラマティックな告白にするためには、彼の協力は不可欠だった。
「うまくいくと良いな」
むろん、彼は快く引き受けてくれた。
こんなふざけたやり取りだったので、本当にその週末、昇太郎が聞きに来るとは思っていなかった。
いつものように自己紹介ソングからスタートし、五曲ほど披露した。
この頃は、熱心に耳を傾けてくれる人よりも、明らかに途中から立ち去るひとのほうが多かったが、気持ち良く全曲歌い終えると、後ろのほうから力強い拍手の音が響いていた。
赤い比翼シャツに黒のスラックスという、なんともキザないでたちの昇太郎だ。
歌うときは、いつもハーメルンが被るような中折れハット帽を目深に被るのだが、耳まで赤くなったのを彼に悟られないよう、さらに深く被り直した。
以降、昇太郎はぼくの音楽に対して口を出すようになった。彼も曲作りが趣味だったのだから当然の流れかもしれない。ただ、そのことで軽い口論になることはあっても、ゴッホとゴーギャンのように、一度でも友情関係にヒビが入るようなことは幸いなかった。
こんな贅沢な日々がいつまでも続くと期待していたが、ぼくの短い人生は唐突に終わる。
だが、その前にもうひとり話しておきたい人がいる。
雪のような白い肌に、肩の上で外にハネた髪がチャームポイントの彼女は、宮本一紗。
何事もひたむきに取り組む姿に心底惚れた。
絶滅危惧種の動物を救うNPOに所属する傍ら、イラストレーターの仕事もこなす。一言で彼女を表すなら、とても気立ての良い女性だ。
短い時期だが、写真家として生きていこうと思ったこともあった。これ以上、最高の瞬間には立ち会えないと思うほど劇的な写真が撮れた年、自分の写真が秋葉原に展示された。
それを見てひっそり感動するだけでなく、その熱い想いを伝えてくれたのが紛れもなく一紗だった。
その後、紆余曲折を経て夜の世界で再会を果たす。これほど予定調和な人生を、俺はほかに知らない。
自分のことを多くは語りたがらない節はあったが、一向に構わなかった。
それでも、苦労の多い人生だったのではないかと踏んでいる。
過去の不幸をすべて幸福へと転換させてやりたい、いつしかそんな大それた願望を自分は抱くようになっていた。
後半、昇太郎と三人で遊ぶ機会は増えたが、一紗とふたりっきりの時間は特別だった。
最期に一紗と観に行った映画は、リドリー・スコット監督の「オデッセイ」だ。
火星に取り残された宇宙飛行士が、たったひとりでサバイバルな生活を続けて生き延び、最後には無事帰還するという感動的なSF作品。
「死んだと思っていた人が生きていたとわかったときの喜びなんて、想像もできないわ」
雪をあざむくような肌の一紗を横目で盗み見ながら、僕は考えてみた。
「絶滅寸前の生き物が、一紗のような熱心な活動によってふたたび増え始めたときのことを想像すれば、簡単にわかるんじゃない?」
「賢ちゃんってば、なかなかうまいことを言うわね」
右肩から落ちた赤いマフラーを直しながら、一紗は相好を崩す。
「そういえば、来週から正式発表となる狼のモノトン。あれ、なんでうさぎリンゴを齧ってる設定なの?」
「実は、悲しいストーリーがあるのよ」
初めて一紗は、狼モノトンの物語を訥々と語り始めた。
モノトンは、すでに絶滅したとされるニホンオオカミがモデルなの。
誰も生きているところを見たことがないから、本物のニホンオオカミが現れたとき、あらゆる動物たちが怖れた。
それでも、モノトンは自分の存在を知って欲しさにあらゆる動物との接触を試みるの。
なかなか成功しなかったけれど、努力の甲斐あって、ようやく一匹のうさぎだけは話を聞いてくれることに。
でもね、モノトンは正しい接し方を知らなかったから、パクっと目の前のうさぎを噛みついてしまったの。
そしたら、うさぎは意識を失って硬くなってしまい、やがて、うさぎリンゴになってしまった……
「……というお話……。ね、切ないでしょう?」
刹那、一紗の顔から笑みが消えた。
勘ぐり過ぎかもしれないが、もしかすると、モノトンの物語には、彼女の何かしらトラウマとも言える実体験が含まれているのかもしれない。
思えば、ふたりで会っているとき、ふっと疲れたような表情を見せることがあった。いつも周囲を気遣って明るく振る舞う性格なだけに、その一瞬の暗さは逆に目立った。
この日、ぼくは決意する。
二か月後に迫る、彼女の誕生日の四月十三日に、路上ライブでプロポーズをしようと。
昇太郎には、早めにこのことを告げた。
「そこで、頼み事があるんだ」
当日、ライブの前座を昇太郎にお願いした。ドラマティックな告白にするためには、彼の協力は不可欠だった。
「うまくいくと良いな」
むろん、彼は快く引き受けてくれた。