バニーガール
文字数 2,427文字
間を置かずに、ケンちゃんは『うさぎクラブ』へとやってきた。
前と同じソファーに座り、ひとり煙草を吸っていたジーンズ、黒のVネックカットソーにカーキ色の中折れハット帽というコーディネートだった。
私の姿を見つけるなり、軽やかに右手を挙げた。
一見、三白眼でクールな印象を与えるが、ひとたび口を開くと三枚目になる。
「本当に来てくれたんですね!」
「約束は破らない主義だからね。それから……」
「それから?」
ケンちゃんは、首を傾けてもったいぶった顔をする。
私はやや前のめりになって、次の言葉を待った。
「それから……ほら、あれだよ。夏目漱石の、それから!」
明らかに何かをはぐらかそうとしていたが、敢えてツッコミは入れないことにした。
「外ハネちゃんは、読んだことある?」
「ずいぶん唐突ですね? ケンちゃんって、見かけによらず読書家なんですか?」
あえておどけて返すと、彼は自嘲気味に笑った。
「いや、だからその……また映画とか音楽とか、そういう話がしたいなって」
どことなくぎこちない物言いなのが気になったが、ケンちゃんに何度かお酒を注いでいるうちに忘れてしまった。
ふと、ケンちゃんが教えてくれた映画をレンタルして観たことを伝えた。
「え! 観てくれたの? それだけで、マジ嬉しい!」
ケンちゃんは素直すぎるほど歓喜した。
しかし、実際は二度借りて二度再生したものの、途中で観るのをやめてしまった。はじめのうちは、映画や本にまで暗さを求めることに意味を見いだせなかった。
それなのに、私は間を空かずに三度目のレンタルをした。また来るかもしれないけんちゃんに喜んでもらうため。
「無口なカールは、ものすごい純粋な男だと思う。でも、殺すこと以外に解決策を持っていなかった。二度目の殺人は、母親が男にレイプされているのかと思い込んでしまった末の過ち。ここまでは、まぁ異論はあるにせよ、まだ救いはある。でも、三度目の殺人は、十二歳の少年とその母親を救いたいがために暴力的な男を自らの意志で殺っちゃったと」
お酒が入っていることもあり、彼の話す声のボリュームは増していく。
「人間は、変われないってことなのかな」
「感情のコントロールって、簡単じゃないよ。でも、できないこともない。ぼくは基本、楽観的だけどね」
「その楽天的な性格とは裏腹に、暗いストーリーがお好きなんですか?」
私は意図的に話題を逸らした。
「いや、人生なんてみんな明るくて暗いよ。それでも、走り続けることが大切だと、ぼくは思うんだ。カッコつけ過ぎかな?」
その時、私はしばらく身の回りのゴタゴタで忘却の果てにあった人を思い出した。
「それ、私の好きな言葉です!」
急に立ち上がって叫んだ私に、ケンちゃんは目を丸くさせた。
つまみのピーナッツを口に入れながら、「人生は明るくて暗いってとこ?」と問う。
「いえ、どんな状況でも走り続ける、ここです。昔、秋葉原で写真展をやっていたんです。その日は、私の誕生日で、生まれて初めての秋葉原。そこで、私は一枚の写真と、写真家に出会いました。出会ったと言っても、直接会ったことがあるわけではないのですけどね」
息せき切って話す私の顔を見るケンちゃんは、これ以上ないほど目を大きく見開いていた。
「それで……あの、どうかしました? あ、意外と喋る人なんだなって、興ざめしちゃいました?」
右隣で、ケンちゃんは首を静かに横に振った。
その時、天井のシャンデリアがカッと煌びやかに光った。他のテーブルで、ホステスが常連客を囲って誕生日を祝い始めたのだ。
「今月一番高いお酒が入りました!」
その合図とともに、S・ワンダーのHappy Birthdayの曲が流れた。
その間も、ケンちゃんは額に手を当てて難しい顔をしていた。
「お水、持ってきましょうか?」
「いや、違うんだ」
お祭り騒ぎの店内では、隣にいる人の声を聞き取るのもやっとだった。
「その写真って、サラブレッドの写真じゃない?」
「そうですそうです! あ、あの写真は、とても有名なんですね!」
私は両手をひとつにして目を細めた。
「あの写真撮ったのって、実はぼくなんだ」
「え……」
嬉しさや驚きはすぐに去り、胸にこみあげてきたのは罪悪感。
私は、とっさに床に頭をつけて土下座した。
「ちょっと、そんな恰好で何しだすの!」
さすがに何事かと思ったのか、店の奥でほかのスタッフに指示を送っていた店長が血相を変えて駆けつけてきた。
「カズサが、お客様に何か無礼なことをしましたでしょうか?」
小柄の男がしゃがみケンちゃんの顔を覗く。
「いや、自分にも何が何だか……とりあえず、彼女に頭を上げてもらってくれる?」
店長に腕を掴まれる前に、私は頭を上げた。
「実は」
私が話し始めたタイミングで、ケンちゃんの携帯が鳴った。
「ごめん。ここだと電話できないし、もう帰るよ。でも、また来るから」
無造作にお札をテーブルに置くと、ケンちゃんは足早に外へ出てしまった。
携帯はあくまでも口実で、私が土下座をしたことで周囲から好奇の目で見られたことでこの場に居られなくなってしまったのかもしれない。
ケンちゃんが退店してからは、案の定、店長からえらい剣幕で説教された。
ただでさえ新人なのになんてことをしたんだ、この商売はイメージが大事なんだから、しかしなんで、土下座なんてしたんだ、と一方的に捲し立てられた。
しかし、正直なところ店長から叱責されたことは痛くも痒くもなかった。
それよりなぜ私があの時、とっさに土下座したのか? 肝心な理由を相手に伝え損ねてしまったことを深く後悔していた。
もう二度とこの店には来てくれないだろう。
その日から、出勤するのが急に億劫になった。
むろん、どんな客の言葉も私の心を突き抜けてはこなかった。
前と同じソファーに座り、ひとり煙草を吸っていたジーンズ、黒のVネックカットソーにカーキ色の中折れハット帽というコーディネートだった。
私の姿を見つけるなり、軽やかに右手を挙げた。
一見、三白眼でクールな印象を与えるが、ひとたび口を開くと三枚目になる。
「本当に来てくれたんですね!」
「約束は破らない主義だからね。それから……」
「それから?」
ケンちゃんは、首を傾けてもったいぶった顔をする。
私はやや前のめりになって、次の言葉を待った。
「それから……ほら、あれだよ。夏目漱石の、それから!」
明らかに何かをはぐらかそうとしていたが、敢えてツッコミは入れないことにした。
「外ハネちゃんは、読んだことある?」
「ずいぶん唐突ですね? ケンちゃんって、見かけによらず読書家なんですか?」
あえておどけて返すと、彼は自嘲気味に笑った。
「いや、だからその……また映画とか音楽とか、そういう話がしたいなって」
どことなくぎこちない物言いなのが気になったが、ケンちゃんに何度かお酒を注いでいるうちに忘れてしまった。
ふと、ケンちゃんが教えてくれた映画をレンタルして観たことを伝えた。
「え! 観てくれたの? それだけで、マジ嬉しい!」
ケンちゃんは素直すぎるほど歓喜した。
しかし、実際は二度借りて二度再生したものの、途中で観るのをやめてしまった。はじめのうちは、映画や本にまで暗さを求めることに意味を見いだせなかった。
それなのに、私は間を空かずに三度目のレンタルをした。また来るかもしれないけんちゃんに喜んでもらうため。
「無口なカールは、ものすごい純粋な男だと思う。でも、殺すこと以外に解決策を持っていなかった。二度目の殺人は、母親が男にレイプされているのかと思い込んでしまった末の過ち。ここまでは、まぁ異論はあるにせよ、まだ救いはある。でも、三度目の殺人は、十二歳の少年とその母親を救いたいがために暴力的な男を自らの意志で殺っちゃったと」
お酒が入っていることもあり、彼の話す声のボリュームは増していく。
「人間は、変われないってことなのかな」
「感情のコントロールって、簡単じゃないよ。でも、できないこともない。ぼくは基本、楽観的だけどね」
「その楽天的な性格とは裏腹に、暗いストーリーがお好きなんですか?」
私は意図的に話題を逸らした。
「いや、人生なんてみんな明るくて暗いよ。それでも、走り続けることが大切だと、ぼくは思うんだ。カッコつけ過ぎかな?」
その時、私はしばらく身の回りのゴタゴタで忘却の果てにあった人を思い出した。
「それ、私の好きな言葉です!」
急に立ち上がって叫んだ私に、ケンちゃんは目を丸くさせた。
つまみのピーナッツを口に入れながら、「人生は明るくて暗いってとこ?」と問う。
「いえ、どんな状況でも走り続ける、ここです。昔、秋葉原で写真展をやっていたんです。その日は、私の誕生日で、生まれて初めての秋葉原。そこで、私は一枚の写真と、写真家に出会いました。出会ったと言っても、直接会ったことがあるわけではないのですけどね」
息せき切って話す私の顔を見るケンちゃんは、これ以上ないほど目を大きく見開いていた。
「それで……あの、どうかしました? あ、意外と喋る人なんだなって、興ざめしちゃいました?」
右隣で、ケンちゃんは首を静かに横に振った。
その時、天井のシャンデリアがカッと煌びやかに光った。他のテーブルで、ホステスが常連客を囲って誕生日を祝い始めたのだ。
「今月一番高いお酒が入りました!」
その合図とともに、S・ワンダーのHappy Birthdayの曲が流れた。
その間も、ケンちゃんは額に手を当てて難しい顔をしていた。
「お水、持ってきましょうか?」
「いや、違うんだ」
お祭り騒ぎの店内では、隣にいる人の声を聞き取るのもやっとだった。
「その写真って、サラブレッドの写真じゃない?」
「そうですそうです! あ、あの写真は、とても有名なんですね!」
私は両手をひとつにして目を細めた。
「あの写真撮ったのって、実はぼくなんだ」
「え……」
嬉しさや驚きはすぐに去り、胸にこみあげてきたのは罪悪感。
私は、とっさに床に頭をつけて土下座した。
「ちょっと、そんな恰好で何しだすの!」
さすがに何事かと思ったのか、店の奥でほかのスタッフに指示を送っていた店長が血相を変えて駆けつけてきた。
「カズサが、お客様に何か無礼なことをしましたでしょうか?」
小柄の男がしゃがみケンちゃんの顔を覗く。
「いや、自分にも何が何だか……とりあえず、彼女に頭を上げてもらってくれる?」
店長に腕を掴まれる前に、私は頭を上げた。
「実は」
私が話し始めたタイミングで、ケンちゃんの携帯が鳴った。
「ごめん。ここだと電話できないし、もう帰るよ。でも、また来るから」
無造作にお札をテーブルに置くと、ケンちゃんは足早に外へ出てしまった。
携帯はあくまでも口実で、私が土下座をしたことで周囲から好奇の目で見られたことでこの場に居られなくなってしまったのかもしれない。
ケンちゃんが退店してからは、案の定、店長からえらい剣幕で説教された。
ただでさえ新人なのになんてことをしたんだ、この商売はイメージが大事なんだから、しかしなんで、土下座なんてしたんだ、と一方的に捲し立てられた。
しかし、正直なところ店長から叱責されたことは痛くも痒くもなかった。
それよりなぜ私があの時、とっさに土下座したのか? 肝心な理由を相手に伝え損ねてしまったことを深く後悔していた。
もう二度とこの店には来てくれないだろう。
その日から、出勤するのが急に億劫になった。
むろん、どんな客の言葉も私の心を突き抜けてはこなかった。