第12話 釣れぬ釣り

文字数 1,383文字

***

 針に乱暴に餌を付けると、これまた乱暴に糸を放る。緩やかに流れる川面がわずかに揺らぎ、憐れなミミズが沈んでいった。

 釣れもせぬまま、餌だけを取られて糸を上げまた餌を付ける、という作業を鳥彦は二刻(一時間)ほど続けている。釣りと言えばいつもついてくる刀自の姿はなく、めずらしく鳥彦は一人だった。

 くん、と糸がわずかに引きあわてて竿を上げるが、ミミズが少し短くなって上がってきただけで、そこに魚の姿はない。はあ、と大きくため息をつくと、鳥彦は仏頂面でミミズを川の中へ見送った。

 機嫌が悪いのである。

 猿麻呂がいないことも、昨日雨が降ったことも、皆が鳥彦を甘やかすことも面白くない。
 雨がわりと激しく降って、他でもないあれが迎えに来るのではないかと少々おびえたのは確かであるが、それに周りがおろおろとあわてたり、あれやこれやと世話を焼いたりするのも気にくわない。

 猿麻呂がいなくて面白くないとは思う。しかし淋しくて泣くような童ではないし、雨が降っただけでびくびくしてしまう自分は弱虫と言われてもしかたがないが、か弱い女童(めのわらわ)のようにかばわれたいわけでもないのである。

 そういうわけで、今日はついて来ようとする彼らを押し留めて、一人でも大丈夫だと言いはるように、一人で釣りに来たわけである。しかし釣れればともかく、いっこうに釣れない一人釣りは驚くほどたいくつで、鳥彦の眉の間に現れた谷はますます深くなってゆく。

 元はと言えば、頭目ともあろう者が勝手にふらふらどこかへ消えてしまうのが悪いのではないか。もう仕事は終わっていたのだし、さっさと荷をまとめてよそへ移っていればと、そこまで考えると、しゅるしゅると力が抜けていくような心持ちがした。

 さっさと移っていれば、父には会わなかったかも知れない。

 二度と会うことはないと思っていた。姿を見たわけではないが、声を聞いてどうしようもなく体がふるえてしまった。結局顔を見ることは叶わなかったが、元気そうで、生きていてくれて、それがとても嬉しかったし、それを確かめられて良かったと思う。しかし会いたかった、というのも少し違う。

 皆一様に、帰りたかろう、つらかろう、と気遣(きづか)わしげに鳥彦の世話を焼くが、そうされるたび鳥彦は腹の奥から少しずつ体温が奪われていくような、心許(こころもと)ない感覚に襲われる。それが何なのか鳥彦にはよくわからなかったが、猿麻呂にまでそんな風にあつかわれるなんて耐えられないと思った。

 もし戻れるなら、井ノ原で暮らしたいと思う。猿麻呂のように旅が好きなわけではないし、井ノ原には家族も友もいる。雨の染まぬところで眠りたいとも思う。

「でも、みんなも一緒でなければ嫌だ」

 そんな思いが口からぽつりとこぼれると、みぞおちがぎゅっとしめつけられて、鳥彦は口を引き結ぶ。見れば針の先にいたはずのミミズはいつの間にか姿を消し、代わりに藻のかたまりが釣れている。

「……やっぱり猿麻呂がいけないんだ。少し出て来るとか言いながらいったいいつになったら戻って来るんだ。俺をこんなひどい目に遭わせておいて、つまらない用事だったらもう一生味方してやらないからな。戻ってきたら本当のことを言うまで問うて(すね)をけり飛ばしてやる」

 歯ぎしりするように言って、新たな餌を針に付けようと、魚籠(びく)に手をやったところで、頭にこつんと小石が当たって落ちた。
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