第4話 頭目の留守

文字数 1,679文字

 少し出てくる、などと言ったくせに猿麻呂は丸一日が過ぎても戻ってこなかった。

 ついには鳥彦も刀自に、猿麻呂はどこへ行ったのかとたずねたが、刀自もわからぬと言う。しかし「またどこぞで子や女を拾って来ねば良いけれどね」などと言って笑っているところを見ると、そのうちには戻ってくるものとみえる。他の男たちもみな一様に、すぐ戻る、大丈夫だと言って詳しくは教えてくれない。

「べつに猿麻呂がいなくても平気なのに」

 ぶつぶつと言って口をとがらせている鳥彦に、黒麻呂は思わず吹き出した。その様子が猿麻呂によく似ていたからである。

「だからどうして笑うんだよ」
 鳥彦は赤い顔をして彼の足下から言う。
「そら、手を放すぞ」
 顔に笑みをのせたまま、黒麻呂は持っていた鳥彦の足首をそっと放した。少しぐらついたものの、鳥彦はそのまま逆立ちになる。

「何が気に入らないんだよ」
「もうあんな奴を、追いかけて、出て行ったりしない、って言っているんだ」苦しげに言って、鳥彦は草の上に足を戻した。じわりと頭に上った血が降りてくる。「なのに俺だけ仲間はずれなんてずるいじゃないか。俺だってそんなに小さな童じゃないのに」

 なるほど、と黒麻呂は苦笑した。先の冬に鳥彦は雪の中へ単身出て行った猿麻呂を追ってゆき、なかば遭難しかけて山の中で一夜を過ごすはめになったのである。そのために自分には猿麻呂の行き先を教えてもらえないものと鳥彦は思っているのだった。

「俺たちも猿兄がどこへ行ったかよく知らないんだよ」
「頭目が行き先も言わないで出て行くなんて、おかしいじゃないか」
「猿兄も、たまには息をつきたい日もあるんだよ。昔からああして時々いなくなるんだ。ひとりどこかで修行してるのか、賭け事に精を出しているのか、女のところに通っているのかは知らないけれど。ほら、もう一度」

 まだ納得できぬという顔をしつつも、鳥彦は言われたとおりに勢いよく若葉の芽吹く地面に手をつく。その足先が黒麻呂の手のひらに当たってばしりと音を立てた。

「そんなに俺に蹴りこむようにしてどうするんだ。もう少しゆるめて自分で釣り合いをとれ」
 小さくうなずいて鳥彦はもう一度地面に手をつく。と、そこに迎えてくれる手のひらはなくすいと足先は(くう)を蹴ってそのまま鳥彦は背中から倒れ込み、それに黒麻呂は大いに声を上げて笑った。

「いたっ」
「だからゆるめろと言ったろう」
「手を放すなら放すって言ってよ!」
 強かに打った腰を痛そうにさする鳥彦に、黒麻呂はさらに笑った。

「黒兄の阿呆。もういいよ。ひとりで木のところで練習するから!」
「はは、そう言うな。この方が早く覚えられる。猿兄が戻るまでに覚えてしまえよ」
「もういい。くそ野郎も戻って来なくていい。どこへでも行っていればいいんだ」
「おや、鳥彦は猿兄がいなくても淋しくないのか?」
「淋しくない!」
「そうかい。俺は猿兄がいないと淋しいけどなぁ」
 見上げると黒麻呂はにこりとする。
「みんなよく猿麻呂の世話は大変だと言うくせに」
「おかげで毎日楽しいじゃないか。そりゃあ面倒なことはやりたがらないし、目を離すとどこぞへ遊びに行ったり、人の飯を盗み食いしたりするけれど、猿兄が頭目でなければ皆集まっていなかったと思うぞ」
「……よくわからないよ」
 眉間に深い谷を刻んでうなる様子に苦笑し、黒麻呂は「そろそろ戻ろう」と言って鳥彦の頭に手のひらをのせた。

 天頂を少し下った所を歩む日の光は、ぽかぽかと心地よく、甘い春風がゆるゆると鼻先をすり抜けてゆく。凍えるような冬が去って後の、この季節は心が自然と浮き立つようだと黒麻呂は思った。

 近頃は宿らせてもらえる家や社寺などなかなか見付からず、寒かろうが雨風が到来しようが天幕(あげはり)で過ごさねばならなかったが、良い季節になった。根無し草なのだから、冬には南へ行けば良さそうなものだが、頭目はそういう考えを良しとせず、なかなかそういうわけにもいかないのである。


 そんなことを思いながらあくびをし、うんと伸びをしながらゆるゆると道を行く。そうして歩むうち、数人の男たちとすれ違うと同時に鳥彦が転んだ。
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