第6話 うわさの わざおぎ

文字数 1,112文字

 井隈(いのくま)のお(じじ)は、ここ井ノ原で一番低い山の(きわ)に住んでいる。井ノ原の(くま)(すみっこ)に住んでいるので、井隈のお爺と呼ばれているのだが、本当の名を鳥彦は知らなかった。

 目も耳も悪く、目の前に立つまで誰ともわかってもらえぬし、何度も何度も聞き返すので、話をするのにも人の倍はかかる。福麻呂(さきまろ)は気味が悪いと言って鼻にしわをよせるが、鳥彦はこの、のんびりしたお爺が好きだった。

 今日も色々と用を言い付けられていたが、昼を過ぎるまでにやり終え、福麻呂に邪魔されぬように、行き先を問われたらうまくごまかしてくれるよう、次男の子麻呂(ねまろ)に頼んで家を出てきた。



 お爺の家には垣がなく、どこまでがお爺の家なのか、誰もよく知らなかったが、あのあたりは石や岩が多く、田畑を作るには向かないため、お爺が見渡せる所を全部を自分の物にしたとしても、とやかく言う者もいないだろう。

 ただ広い土地に、ぽつんと取り残されたように、お爺の古びた家が建っている……はずだったのだが、来てみれば、家の前に奇妙な小屋のような物が二、三建っていた。小屋と言っても木組みに布や(わら)をかけてあるだけで、風が吹けば飛んでしまうのではないかと思われた。

 これが俳優(わざおぎ)の寝屋なのだろうか、と横目に見つつ、脇を通り抜け、戸口から「お爺」と大声で呼ばわった。いつものことだが返事はない。

「お爺! いないのか?」
 また大声で叫ぶが返事はない。

「お爺は留守だ」

 背後から、低い声が不機嫌そうに言って、鳥彦は思わずびくりと体を強ばらせた。
 おそるおそるふり返ってみると、見覚えのある男が立っていた。

 あっ、と、まぬけな声が重なった。

「おや、どんくさい童じゃないか。足は治ったか?」
 男は大げさな笑みを顔一面に広げて言った。他でもない、山で鳥彦を穴から引き上げた男である。

「まだ痛い」
 鳥彦がぽそりと言うと、男はがはがはと大声で笑った。毎度のことながら、いったい何がそんなに面白いのか、というような笑い方である。

「それはそうと、お爺に何か用か? うちの若いのと川へゆくと言って出て行ったが」
 鳥彦が首をふると男は大げさに首をかしげてみせる。
「……散楽俳優(わざおぎ)が来てるって聞いたんだけれど……」
 鳥彦が言うと男はまた大声で笑い始めた。
「そうかそうか、今度は俺に会いに来てくれたわけだな。俺がその散楽俳優(わざおぎ)(こまの)猿麻呂(さるまろ)様だ」

 誇らしげに男が言ったが、鳥彦はくいと首をかしげた。

「何だよ」
「……おとといは、猿麻呂とは呼ばれていなかった」
 鳥彦が不満げに言うと男は、ああ、と手をひらひらさせた。
「仲間内では猿麻呂(さまろ)と呼ぶ者もいる」
 どちらでもかまわん、と猿麻呂は笑って言ったが、鳥彦は自分がトヒコと呼ばれるのは嫌だと思った。
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