第5話 流れ者

文字数 1,283文字

「何だこの……」男らはののしろうとして鳥彦らを見ると、あからさまに眉を寄せる。「いけねえ。流れ者に触れちまった」
「おお、本当だ。(にお)いが移るぞ」

 大きな声に周りの者がふり返り、黒麻呂は小さく眉をひそめた。
 鳥彦は黙って起き上がると、ぱたぱたと衣をはたいた。ひりひりすると思って見ると少し膝をすりむいていた。

「これはこれは、申し訳ありませぬ」
 黒麻呂が頭を下げると、男はふんと鼻を鳴らした。見ればまだ若い百姓風の男たちである。

「ここは流れ者の来るような所じゃあない。さっさとどこかへ流れて行け」
 そう言って男たちは二人に砂をかけ、げらげらと笑った。
「田のひとつも(たがや)さぬ(なま)け者ぞ。(みな)つぶてのひとつもくれてやれ」
 思わず言い返そうと、一歩踏み出した鳥彦を制するように黒麻呂が彼の手を引き、投げつけられた小石が彼の肩に当たると、一同はまたげらげらと品の悪い声を上げた。

「黒兄っ」
「こらえろ」
 黒麻呂が低く言って鳥彦の砂埃を払うと、鳥彦はぎゅっと彼の袖をにぎりしめた。

 猿麻呂の定めた猿麻呂律令の第三条には『(はらわた)が煮えても里人には手も口も出すべからず』というのがあった。流れ者の鉄則だ、と猿麻呂は言ったのだが、ああまで言われて言い返すどころか何故頭を下げねばならぬのか、と鳥彦は唇を引き結んだ。



 水で洗うと傷口がぴりりと痛んだ。たいした傷ではないが、先ほどの男たちの顔を思い浮かべると自然と眉根がよる。そんな鳥彦を横目に見つつも、気にしている風でもない黒麻呂の様子がさらに面白くなかった。

「そんなにふくれるなよ」
「だって。いくら猿麻呂律令があるからと言ってあんなことを言われて、石まで投げられたのに、どうして黒兄は平気な顔をしていられるんだよ」
「田を耕さぬのは本当だろう。お前も百姓の子ならあれがどれだけ大変なことだかわかるだろう?」
「でもみんな怠け者じゃない」

 言いながら鳥彦が頭をはたくとぱらぱらと砂が落ち、黒麻呂は苦笑しながら肩に落ちた砂を払ってやる。

「そんなことをいちいち説明して歩くのか? ああいう(やから)には言わせておけば良い」
 とはいえ、『里人には手も口も出すべからず』を定めた当の本人があの場におれば、そのまま帰れたとも思えないのだったが。

「そんなのはおかしい。あんな奴らの田なんか干上がってしまえばいいんだ」
 悔しげに言う鳥彦に笑って、黒麻呂は彼の鼻をつまむと鳥彦は、む、とくぐもった声を出した。

「意地悪をする相手とやり合ってはいかん。そういう者ほど味方にしてしまえ」
「どういうことだよ」
 そのままだ、と言って黒麻呂はにっと笑ったが、鳥彦は()に落ちぬという顔をした。あんなやつらが味方になるとも思えぬし、味方にしたいとも思わない。
「よくわからないよ」
 黒麻呂はそのうちわかると笑って、鳥彦の鼻を解放した。

 まったくもって大人の言うことはよくわからない。そのうち天からつり下がっている星を取ってみろなどと言い出しかねないな、と鳥彦はため息をついて春に(かす)んだ天を見上げた。その青の中を(つばめ)がすいと空を切るように飛んでいる。


 鳥彦は少し、猿麻呂が早く戻ってくれば良いと思った。

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