第7話 前の春は

文字数 1,387文字

***

 細い(あぜ)を走る背に声をかけられた。

「もし、そなた」

 急いでいるのに、と少々苛つきながらもふり返ると、声の主は猿麻呂の姿に少々おどろいた様子で、小走りに駆けて来た。つやの良い頬や遠慮がちに生えた口ひげに見覚えがある。

「おお、郷長(さとおさ)殿!」
 猿麻呂はしかめっ面を笑みに変えて手をふった。

 郷長は猿麻呂の手前まで来ると仰々しく腰を折り、猿麻呂もまた同じように頭を下げる。ここの郷長はいやに腰が低く人当たりも良い。郷長自ら猿麻呂のような流れ者に頭を下げるということは、そうあることではない。

「やはり猿麻呂殿でしたか。いや、(すく)よかにしておられましたかな」
「おかげさまで病もいただかず、皆元気にしておりまする」
「今年も猿麻呂殿が来られぬかと皆心待ちにしておりましたが、待ちきれずに祭の方が先にやって参りましてなぁ」
「ああ、そういえばもう過ぎてしまいましたな。これは申し訳ない」
 猿麻呂が頭をかくと郷長は楽しげに笑う。

「今年も散楽をやりましたが、やはり昨年のようにはわきませなんだ。やはり猿麻呂殿の成せる技は素晴らしかったのだと改めて感服いたした次第です。今日はお仲間はお連れでないのですか」
「近くまで来たので皆どうしているかと私だけ寄ったのです。そう申せば、井隈(いのくま)のお(じじ)はどうしておいでか。先ほど挨拶に寄ったのだが姿が見えぬようで」
 言いながら猿麻呂が来た方を何気なくふり返りると、郷長は口元にあった笑みをわずかににごした。
「お爺は、冬にあちら側の方になられましてな」
「──やはりそうでありましたか」
 残念です、と猿麻呂はつくろうように微笑んだ。
「昨年は男取りがございましたゆえ、食うには困らなかったのですが、この冬はよう冷えましたでな」
「男取り……」
 思わずつぶやいた猿麻呂に郷長は苦い笑みを浮かべた。
「そう申せば、ちょうど猿麻呂殿がおいでの頃合いでありましたな。ばたばたと騒いでおりましたゆえきちんとお見送りもせぬまま、失礼なことでありました。発たれるおり、行列をご覧になりましたか」
 あ、うん、いや、と猿麻呂は曖昧な声を出したが、幸い郷長はさして気に留めなかったようである。

「春に(ひらめ)く稲妻は、ハタタ神の()しるし。ハタタ様は稲の妻であらせられ、夫を得て稲穂をお生みになられるのです。夫を出せば昨年の秋のように必ず何もかも豊かに実りまする」
「出さなければ?」
稲子(イナゴ)が増えたり、すいた穂ばかりであったりと、ろくなことにはならぬと言われておりまする。まあ私が知る限りでは夫が出なかった年はございませぬが」
 へえ、と猿麻呂はさも感服したように相づちを打った。
「では昨年は良い実りとなったのですな」
「それはもう。実の入りも良く、鳥や虫の害もほとんどなく申し分……何か妙なことを申しましたかな」
 郷長の怪訝そうな顔に、猿麻呂はにやけた顔をけわしく押し戻していやいやと手をふった。

「まあ、妙な祭とお思いでしょうが、井ノ原では重要な祭なのです。男をひとり失うのは惜しいことですが、夫を出した家はその男の田はそのままにして田租(でんそ)が許されまする」

 なるほど、男を取られても失うばかりでもないのか、と猿麻呂はあごに手をやる。

 お上の取り決めにより、田を持てば税がかかるのだが、それをまともに納めては生活できない。その他にも税の類は多くあり、そのため人々は知恵をしぼって何とか生きてゆくのである。
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