第10話 青馬

文字数 1,251文字

「ご、めんなさい。また、面倒、かけて」
「そんなことを言っているんじゃない! 大けがしたらどうするんだと言っているんだ。俺が拾えなかったら死んでいたかも知れないんだぞ!」
「ごめんなさい」

 消え入りそうな声で言った鳥彦の目が、みるみる大きく見開かれ、口元がわずかにわなないた。

「どうしよう。猿麻呂、すごく血が出て……」

 そういえば痛かったような、と思って額に手をやってみると、ぬるりと生暖かいものが手に触れた。見れば指先が真っ赤に染まっていた。どうやら折れた枝にでも引っかけて切ったらしい。

「このくらい大丈夫だ。首から上を切ると、おおげさな血が出るものなんだよ」

 猿麻呂は何でもないように言うが、鳥彦はふるえる声で何度もごめんなさいとくり返した。いまいましそうに猿麻呂が垂れてきた血をぬぐうと、鳥彦はうつむいてぽろぽろと涙をこぼした。

「もう本当に俺のことなんか、ソラシ殿のところへなんかやらないで川へ捨ててしまっても良いよ」
「は? 何の話だよ」
 猿麻呂は少しおどろいた様子で聞き返した。

「その方が良いんだ。もう誰のところにも行かない。そうすれば……」
「ちょっと待て、その、ソラシがどうしたって?」
 鳥彦は涙でいっぱいにした瞳をしばたかせた。
「だって、俺はソラシ殿の家に行くんだろう。さっき会ったんだ」
 猿麻呂は難しい顔をしてしばらく考えてから、何か思い至った様子で「あの野郎」とさらに険しい顔をした。

「ソラシに何と言われたって?」
「猿麻呂と話し合って、俺はソラシ殿の家の子になるんだって」
 猿麻呂は、はあ、と深くため息をついて額に手を当てた。

「それで、こんなところですねていたのかよ」
「すねてなんかいない! さっきも俺は聞いたんだぞ。猿麻呂たちがあんな役立たずがもらわれただけでもありがたいって笑うのを!」
 それを聞くと猿麻呂は一瞬目を丸くしたが、あっはっはと声を上げて笑った。
「何がおかしいんだよ! やっぱりお前なんか嫌いだ! もうさっさとどこかへ行ってしまえ!」

 鳥彦が声の限りに叫ぶと猿麻呂はふと笑みを収め、腕をふり上げた。思わず鳥彦が目をつぶると、どすん、と重いだけのげんこつが頭に落ちた。

「阿呆。お前の思いちがいだ」
「うそをつくな。俺はちゃんと聞いたんだ」
「いいから聞けよ。確かにソラシは刈り入れを手伝った日にお前をくれと言って来た。去年息子を亡くして難儀していると言ってな」

 見れば、鳥彦は情けない目で猿麻呂を食い入るように見ていた。それに猿麻呂は思わずといったふうに、首の後ろに手をやる。

「……しかし俺はそれはできないと言った。それでもソラシはあきらめきれなかったんだろう。そんなところに、お前がひとりでふらふらしているから、無理にでも連れて帰ろうという気になったんだろうよ」
「だけど小屋で……」
「あれはうちの老いぼれ馬の話だ。ろくに荷も運べない青馬がいたろう。あれを手放すことにしたんだよ。あの老いぼれを銭を出してまで引き取ろうと言うんだから、本当にありがたい話だろう?」
 と猿麻呂は笑う。
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