第5話 市場にて

文字数 2,061文字

***

 鳥彦はいくつもの竹籠(たけかご)を抱えながら、目印の(いちい)の木を目指して人混みをかき分けて進んだ。どこへ行っても市は賑やかである。黒麻呂の話では都の市はもっと多くの人が集まると言うのだから、本当に都はこの世で一番の国なのだろうと鳥彦は漠然と感動した。

刀自(とじ)っ」

 汗臭い男たちに挟まれて苦しげな声を出すと、刀自があわてて立ち上がった。
「ご苦労だったね」
 言いながら刀自は鳥彦の抱えていた籠を受け取る。

「もうこれで最後だよ」
「おや、もう最後かい。まあ、ずいぶんと売ったもんだね」
 感心したように言い、刀自は籠をその後ろに立っていた麻彦に手渡した。


 今日は市には来ているものの、芸を見せることはせずに商いをしている。ふつう市とはそういう場所であるが、彼らには少々めずらしいことだった。
 時にはこういうのも楽しいだろう、と笑って刀自は麻彦の抱えている籠と(ほしいい)(ほしにく)と替えてゆく。
 彼女が様々な物と交換しているのは、仕事がないおりに、猿麻呂が日がな一日編んでいる竹籠である。
 彼の作る籠や()は意外にもなかなか評判が良く、世話になった礼に贈ったり、こうして市で売ったりする。年を取って散楽ができなくなったら籠職人にして、朝から晩まで籠を編ませてやるのだと刀自は言った。

 ふと見ると、多くの(みせ)の立ち並ぶ後ろに、明るい()色のつつじが咲いていた。それに鳥彦はあれから季節が一巡りしたのだと改めて思った。
 早いようにも遅いようにも思われたが、鳥彦がこの散楽党に来て一年になる。三月(みつき)と空けずに旅を続け、鳥彦の背も少し伸び、その間に舞を二曲と天地の言葉を覚えた。
 荷を背負っての旅路も、天幕(あげはり)の中で折り重なるようにして眠ることにも慣れたし、里のことを思い出すことも少なくなった。

 目の前を何かが横切り、目をやると麻彦(あさひこ)が自分の背中を指さしていた。何かあるのかと彼の大きな背中に目をやるが、ただ色あせた海松(みる)(海藻の一種)の模様があるだけで変わったことなどない。
 もう一度見上げると麻彦は小さな声で「後ろを歩け」と言った。ああ、と鳥彦はそこでようやく思い至った様子で、麻彦の後ろに回った。鳥彦から見れば壁のような麻彦の背中は良い具合に通行人をさえぎってくれている。

「ありがとう麻兄」
 鳥彦が言うと麻彦は「ん」とくぐもった声を出した。

 この男、とにかく無口なのである。猿麻呂よりも大きな図体をして、顔もはなはだ穏やかでない。しかし刀自ですら時々彼の存在を忘れそうになると言うほど麻彦は物静かで、この集団の中にはそぐわないほど穏やかな性質の男だった。

 以前猿麻呂が、黙々と籠編みを手伝う麻彦の肩に、戯れに蒸した粟粒をのせてみたところ、小鳥が留まって粟を食って行ったという嘘のような本当の逸話を残したほどである。

 しかし彼の軽業はその大きな体からは想像できぬほど軽やかで、舞は猿麻呂にもおとらぬほどに面白い。彼は元々散楽を生業としていたのだが、声を出すことが不得手であるために、(うたい)や人集めができぬというので猿麻呂の元に来たのだと言う。何故彼が散楽というものを生業として選んだのかは定かではない。

 大きな背中にかばわれながら歩むうち、突然麻彦が立ち止まり、鳥彦は当たり前のようにその背に顔をぶつけてしまった。どうしたのかと鳥彦が彼の前に回ろうとしたところ、麻彦の太い腕に押し戻されてしまい、わけがわからぬまま鼻をさする鳥彦の耳に、麻彦をおしとどめた者の声が届いた。


「おお! 俳優(わざおぎ)殿ではありませぬか!」

 驚きを含みつつも、楽しげにに弾んだその声に鳥彦は体を強ばらせた。


「まあ、お懐かしい」
 麻彦の背に阻まれてよく見えないが、刀自にしてはぎこちない言い方だった。鳥彦はざわめきの中、その会話に全神経が集中するのを感じた。

「少々足を伸ばして市まで来てみれば。いや、真に奇遇ですな」
「ええ、真に。我らは流れ者ゆえ、このように他の土地で見知った方にお会いすることもなかなかございませんが」
「また井ノ原へもお越し下され。皆また見たい見たいと申しております」
「それはそれは。あいにく頭目は今留守にしておりまするが、そのようにおっしゃってくださるお方がおいでと申しておきましょう」
「ぜひにも。昨年参られた折には腹を抱えて笑うたものだが、今年の散楽が見劣ってしかたがない。あなた方が参られた頃、子をひとり亡くしましてな。皆気が塞いでおるのです」
「まあ、それはそれは。大変でございましたね」
 刀自らしくもなく声が少し上ずっている。
「父上、そろそろ戻りましょう。日が暮れてしまいまする」
「おお、それもそうだ。それでは皆様もお元気で。また猿楽が見られるのを楽しみにお待ちしておりますからな」
 そう低い声が言って、皆が頭を下げる気配がした。

 こんなことがあるはずがない。鳥彦は知らず知らずのうちに色がなくなるほど手をにぎりしめていた。

 足音がどんどん遠ざかってゆく。
 心の臓がせわしなく耳元で鳴る。

「鳥彦」

 気遣わしげな声で呼ばれた瞬間、鳥彦は声の主が去った方とは反対側へ駆けだしていた。
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