第6話 春の祭

文字数 1,252文字

 昨年の春、猿麻呂ら一行は井ノ原という里へおもむいていた。さして広くもないが、豊かそうなその里の、春の大祭に是非にと()われて社の庭で散楽をした。

 それは疫病を防ぐためのものであり、また豊かな実りを祈る祭でもあった。神職のみが社の奥で行う神事自体には、里人らもさほど興味はないらしかったが、その後に庭で奉納される散楽は大いにわいた。それで終わっていればよくある祭なのだったが、井ノ原にはさらなる祭が別にあった。

 それは毎年行われるわけではなく、春の大祭が終わって後ひと月の内に、天に稲妻が(ひらめ)いた場合にのみ行われる祭りであり、それが里人の恐れる『(おのこ)取り』であった。

 井ノ原にひとつだけ建つ社の祭神はハタタ神と呼ばれる雷の女神で、彼女は時々稲の妻となるため夫を探しに井ノ原へ天降る。そのしるしが雷鳴であり、神は夫のいる家の前に稲穂を置き、社の奥にそびえる山にて夫を待つのである。
 彼女が夫を得れば井ノ原には豊かな実りが訪れるが、夫が出ねば不作となる。百姓ばかりの井ノ原ではとても重要な祭であった。

 昨年の男取りでは、そのしるしの稲穂が鳥彦の家に降り、七人いる兄弟の内ただ一人、もらわれ子だった鳥彦が夫として出されることとなったのだが、事の次第を知った猿麻呂はその山へ向かう道中ハタタ神の使いになりすまし、鳥彦を奪って逃げたのである。


 何かを施す代わりに人の身を欲するものなど神ではない、と猿麻呂は言ったのだが本当のところは誰にもわからない。





「鳥彦」

 遠慮がちに呼ばれて鳥彦はぴくりと肩をふるわせた。しかし顔を上げようとはしない。
 (やぶ)のそばに忘れられたようにしてある古井戸の脇で、鳥彦はうずくまっていた。

「どこまで駆けて行くんだよ。探したじゃないか」
 困ったように言って刀自が肩に手をそえると、ようやく鳥彦は顔を上げた。予想に反して鳥彦は泣いてはいなかった。しかしそれが返って刀自を不安にさせた。

「ねえ、あの声……(ちち)さまだったんだろう?」
「あの口ぶりからすると、そうだろうと」
 刀自が言うと鳥彦は彼女の袖をしがみつくようにして引いた。
「ねえ、父さま元気そうだった? 疲れていなかった? 兄様は? 他には誰もいなかったのか?」
「大丈夫。元気そうだったよ。もう一人若い男と一緒だったけれど、その他には連れはいないようだったよ」
 刀自が困ったように笑うと鳥彦は弱々しくそうとだけ言った。刀自の袖をにぎる手が少しふるえている。
「お前をこのまま一緒に帰してやれると良いんだけれどね」
 そう言って刀自が頭をなでると鳥彦は首をふった。
「帰りたいわけじゃないよ」
「こんな時まで怒りやしないよ」
 苦笑する刀自を見もしないで、鳥彦は黙って首をふった。
「……猿麻呂には言わないで」
「どうして」
「お願い。猿麻呂には言わないで」

 鳥彦はどこか追い詰められたような目で刀自を見上げた。鳥彦がいったい何を言わんとしているのか刀自にはよくわからなかったが、「じゃあ麻彦にも口止めしておかなければね」と笑んで見せると鳥彦はへへっと弱々しく笑った。
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