最終話 ハタタ神より恐いもの
文字数 1,653文字
どれくらい駆けただろうか。
鳥彦は恐ろしさにずっと固く目をつぶっていたが、使いが先ほどから何か言っているのに気がついた。ハタタ神の使いの言葉など聞くものか、と鳥彦は耳をふさごうとしたが、突然、使いが手を放したので鳥彦はどさりと地面に転がった。
「大丈夫か」
赤い顔がにやりと笑みながら鳥彦の顔をのぞき込み、鳥彦はひっとのどを引きつらせて後ずさった。
「しっかりしろよ。もう助けてやらぬと言ったのに、世話の焼ける童め」
その声音に思いいたって見上げると、ハタタの使いはまだにやりとした笑みをたたえたままだったが、膝頭に手をついて苦しそうに肩を上下させている。
「あの……まさか、いや、でも、そんな長い鼻……」
まだ震えている腕を押さえながら鳥彦が言うと、使いは「はあ」と大仰 にため息をついた。
「これだから田舎者は……まあ、そのおかげで助かったわけだが」とぶつぶつ言いながら彼はかぶっていた錦 をぬぎ、頭の後ろに手をやった。「これは胡徳楽 だ。あぁ、つまり、舞で使う面だよ。古くなったのをもらったのさ」
そう言い終わると同時に、紐が解けて赤い笑みがはずれ、その中から汗をしたたらせた顔が現れた。その顔に鳥彦は息が止まりそうになった。
「猿麻呂 ! どうして!」
「お爺を問い詰めた。少々手荒なまねもしたが、まあ、許してくれるだろう」
猿麻呂はこめかみに伝う汗を袖で拭った。
「何をしているんだ! だめだよ! こんなことをしたら父さまがみんなに……」
「阿呆。何のためにこんな妙な格好をしてきたと思っているんだよ。みんな俺をハタタの使いとでも信じたさ」
「でもハタタ様は? こんなことをしたら井ノ原が大変なことになる!」
鳥彦が声を荒げると、猿麻呂は額の汗をぬぐって腰を伸ばした。
「いいか、神様なんていうものはもっと、こう、崇高 なものだ」と猿麻呂は適当な言葉を思い付かない様子で、頭をかきながらも強く言った。「人を食らって喜ぶものなぞ神じゃあない。まがい物だね。そんなものにすがっているようじゃ、あの里もどのみちだめになる」
「何も食われるとは決まってないよ。ああ、どうしよう。ハタタ様は、父さまは、ああ、遠くの方まで見張りの人たちがいるんだ。見付かったら送り返されてしまう」
猿麻呂は黙って鳥彦の前にしゃがむと、ぺちんと鳥彦の顔を両手で挟んで目を合わせる。
「落ち着けよ。見張りの場所ならお爺にちゃんと聞いてきた。
それで、お前はどうしたいんだ。一生旅暮らしの俺と来るか? それともハタタの婿になりたいのか? 山へ行きたきゃ送り届けてやっても良いんだぞ。助けてほしいならそう言え」
ん、と猿麻呂が首をかしげて見せると、鳥彦の目にみるみる涙がわき上がった。
「嫌だ」と言って手を伸ばす。「山へなんか行きたくない。助けて猿麻呂」
よし、と猿麻呂は言ってまだ震えている鳥彦を抱きしめた。
「ずっと恐かったろう。よく頑張ったな」
鳥彦は息が詰まりそうなほど強く彼の首にしがみつき、うめくようにして泣きじゃくった。ちゃんと声を上げて泣くこともできない鳥彦の背中をさすってやりながら、猿麻呂は今後のことを考えて小さく息をついた。
「鳥彦、こうなれば俺はせいいっぱいお前を助けてやるがなぁ、俺ひとりで敵 わぬ時は、お前も共に戦えよ」
え、とか細い声を出して、鳥彦は不安げに猿麻呂の顔を見た。
「俺の散楽党にも律令がある。その四条に『子を拾うべからず』というのがあるんだよ。それを頭目たる俺が犯そうとしているんだから、刀自に相当しぼられることは必至だ」
猿麻呂がああ恐ろしいと首をすくめると、鳥彦はふっと笑って「わかった」とまた猿麻呂の首に抱きついた。
「言っておくがな、刀自は本当に恐いぞ! 怒ったら鬼だって逃げ出すほど恐いんだからな。本当だぞ。ハタタ神よりもだぞ」
「ハタタ様より?」
「たぶんな」
秋が過ぎ冬を越えて春が戻り、また夏が過ぎ。滞りなくいくつもの季節が過ぎ去っていったが、その年の実りがどうであったのか、終 ぞ鳥彦が知ることはなかった。
-第1章 了-
鳥彦は恐ろしさにずっと固く目をつぶっていたが、使いが先ほどから何か言っているのに気がついた。ハタタ神の使いの言葉など聞くものか、と鳥彦は耳をふさごうとしたが、突然、使いが手を放したので鳥彦はどさりと地面に転がった。
「大丈夫か」
赤い顔がにやりと笑みながら鳥彦の顔をのぞき込み、鳥彦はひっとのどを引きつらせて後ずさった。
「しっかりしろよ。もう助けてやらぬと言ったのに、世話の焼ける童め」
その声音に思いいたって見上げると、ハタタの使いはまだにやりとした笑みをたたえたままだったが、膝頭に手をついて苦しそうに肩を上下させている。
「あの……まさか、いや、でも、そんな長い鼻……」
まだ震えている腕を押さえながら鳥彦が言うと、使いは「はあ」と
「これだから田舎者は……まあ、そのおかげで助かったわけだが」とぶつぶつ言いながら彼はかぶっていた
そう言い終わると同時に、紐が解けて赤い笑みがはずれ、その中から汗をしたたらせた顔が現れた。その顔に鳥彦は息が止まりそうになった。
「
「お爺を問い詰めた。少々手荒なまねもしたが、まあ、許してくれるだろう」
猿麻呂はこめかみに伝う汗を袖で拭った。
「何をしているんだ! だめだよ! こんなことをしたら父さまがみんなに……」
「阿呆。何のためにこんな妙な格好をしてきたと思っているんだよ。みんな俺をハタタの使いとでも信じたさ」
「でもハタタ様は? こんなことをしたら井ノ原が大変なことになる!」
鳥彦が声を荒げると、猿麻呂は額の汗をぬぐって腰を伸ばした。
「いいか、神様なんていうものはもっと、こう、
「何も食われるとは決まってないよ。ああ、どうしよう。ハタタ様は、父さまは、ああ、遠くの方まで見張りの人たちがいるんだ。見付かったら送り返されてしまう」
猿麻呂は黙って鳥彦の前にしゃがむと、ぺちんと鳥彦の顔を両手で挟んで目を合わせる。
「落ち着けよ。見張りの場所ならお爺にちゃんと聞いてきた。
それで、お前はどうしたいんだ。一生旅暮らしの俺と来るか? それともハタタの婿になりたいのか? 山へ行きたきゃ送り届けてやっても良いんだぞ。助けてほしいならそう言え」
ん、と猿麻呂が首をかしげて見せると、鳥彦の目にみるみる涙がわき上がった。
「嫌だ」と言って手を伸ばす。「山へなんか行きたくない。助けて猿麻呂」
よし、と猿麻呂は言ってまだ震えている鳥彦を抱きしめた。
「ずっと恐かったろう。よく頑張ったな」
鳥彦は息が詰まりそうなほど強く彼の首にしがみつき、うめくようにして泣きじゃくった。ちゃんと声を上げて泣くこともできない鳥彦の背中をさすってやりながら、猿麻呂は今後のことを考えて小さく息をついた。
「鳥彦、こうなれば俺はせいいっぱいお前を助けてやるがなぁ、俺ひとりで
え、とか細い声を出して、鳥彦は不安げに猿麻呂の顔を見た。
「俺の散楽党にも律令がある。その四条に『子を拾うべからず』というのがあるんだよ。それを頭目たる俺が犯そうとしているんだから、刀自に相当しぼられることは必至だ」
猿麻呂がああ恐ろしいと首をすくめると、鳥彦はふっと笑って「わかった」とまた猿麻呂の首に抱きついた。
「言っておくがな、刀自は本当に恐いぞ! 怒ったら鬼だって逃げ出すほど恐いんだからな。本当だぞ。ハタタ神よりもだぞ」
「ハタタ様より?」
「たぶんな」
秋が過ぎ冬を越えて春が戻り、また夏が過ぎ。滞りなくいくつもの季節が過ぎ去っていったが、その年の実りがどうであったのか、
-第1章 了-