第4話 右手(一)

文字数 2,659文字

 病院のベッドに横たわっている彼は、ぐっすり眠っているようにしか見えなくて、そのあまりに平穏な日常性に、わたしはすっかり戸惑ってしまった。
 心筋梗塞です。最近多いんですよ、こういう若い方が何の前触れもなく突然に……。泣き崩れる彼の母親の声で、医師の言葉はよく聞こえなくなった。彼の父親が母親の背を撫でながら、しきりに慰めている。

「ショックが大きすぎるんでしょう? 我々もですよ。どうしても事実だと受け入れられない」
 あとで彼の父親に、そう言われた。その声には決して棘はなかったのだけれど、わたしは自分が涙を一滴も(こぼ)さなかったことを指摘されているような気がした。彼の母親は何も言わなかった代わり、わたしを見る眼は冷ややかで、そこにはあきらかに非難の色が滲んでいた。外に出る時は皆マスクをするのが当たり前になって、わたしたちは最近、眼から相手の表情を読むことに()けてきた気がする。
 あの時、白い病室の中で、わたしがずっと考えていたのは、なぜ誰も彼の右手が義手(にせもの)であることに気づかないのだろうかということだった。彼の母親の無言の非難は、たぶん当たっている。わたしは、冷たい女なのだろう。

 わたしは、マンションの部屋のドアを開けた。靴を脱いで電気をつける前に、ちょっと耳を澄ました。かさかさっと微かな音がする。いる、いる。ほっとした。そして、ほっとするのが実は()(てつ)もなく異常なことであるのに思い至って慄然とする。
 電気を点けた。
 ソファの上で仔猫みたいに跳ねているものを、わたしは見つめる。「仔猫みたい」というのは、当然ながら「仔猫ではない」という意味を表している。そう、それは――彼の右手だった。

『右手だけ、君のところに残していくってのはどう?』
 彼の提案に、一も二もなく賛成したのはわたしだった。
『それ面白い! まるで川端康成の「片腕」ね』
 彼が「川端康成って誰?」という顔をしていたので、わたしは簡単に説明した。若い娘が「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」と言って、右腕を肩から外して男に渡す。男は娘の腕を自分の部屋に持って帰って、腕をもてあそんだり、腕と話したり(腕自体が話すのだ!)し、ついには自分の右腕とつけ替えてしまう……とても幽玄で、不思議な物語。

「へえ、そうなんだ。実はさ、ネタばらししちゃうと、子供の頃、水木しげるの『墓場の鬼太郎』で読んだことがあるんだ。手だけになった鬼太郎が吸血鬼ラ・セーヌを追い詰めていくって話。そのイメージが頭にあってさ」
 今度はわたしが、へえという番だった。彼はマンガやアニメが好きだ。付き合い始めた頃、初めて彼の部屋にいったら、アニメのフィギュアがいっぱい置いてあってびっくりした。「人形」じゃなくて、「フィギュア」というのだと教えてもらったのも、その時のことだった。
 ただ、胸の大きな女の子のフィギュアがいくつもあって、それにはさすがにちょっと引いた。

 わたしと同棲を始める時、彼は女の子のフィギュアを捨ててくれた。断腸の思いといった顔をしているので、無理しなくてもいいよと言ったのだが、いやこれは捨てなければいけないんだと悲壮な声で言って、本当に捨てた。それでもロボットのフィギュアだけは今でも部屋にある。
 彼はわたしが「ロボット」と言うと、なぜか笑った。じゃあ何て言うの、と訊いても教えてくれなかった。

 彼は、左手で右の手首のところを二三回(ひね)ると、すぽりと右手を取った。それをそっとテーブルの上に置く。右手は、五本の指を軽く内側に曲げて、じっとしていた。少し緊張しているようにも、つんとすましているようにも見えた。小動物が身を縮めているみたいで、可愛いかった。ふと指で突っついてみたくなったが、彼が(くすぐ)ったそうな顔でわたしを見ていたのでやめておいた。

「でも、代わりにわたしの右手を貸してあげるってわけにはいかないわよ。今ちょうど集中してやらなければいけない仕事もあるし」
 慣れない彼の右手をわたしの腕につけた状態で、仕事が(はかど)るとは到底思えなかった。
「いいよ。僕の右手だけ置いていくさ」
「でも、困らないの? 右手がなかったら不自由でしょう」
「ちょっと不自由かもしれないけど、これで僕が会社で浮気をしているという疑いを持たれずに済むなら、それだけの価値はあるよ」

 ずっとリモートで、ひさしぶりに出社することになった彼が妙にいそいそとして見えたので、「会社で誰かいい人が待っているんでしょ?」と揶揄(からか)ってみたのだが、わたしだとてまさか本当に彼の浮気を疑っていたわけではない。
 彼もわたしが冗談を言っているのは百も承知で、自分の右手を置いていくと言っているのだ。そもそも、本気で浮気するつもりなら、右手がなくたってできるだろう。要するに、これは彼のウイットなわけであり、わたしは彼のそういうところが好きなのだった。

 ネットで買った義手を右手に付けて、翌朝彼が元気に会社へ行った後、わたしは自分のパソコンの前に座って、昼近くまで仕事に没頭していた。
 ふと、視界の隅に何かが動いているのを感じ、何の気なしにそちらに視線を移動したわたしは、どきっとした。
 彼の右手が、いつの間にか机の脚をよじ登って、机の端をもぞもぞと移動しているのだ。彼の身体の一部であることに間違いはないものの、こうして動いているところを見ると、彼とは無関係な、一個の別な生物みたいに見えた。
 
 彼の指はすらりと長く、よく人から「女のような手」だと言われ、彼自身まんざらでもないようだったが、こうしてつくづく眺めると、男の手はやはり男の手で、特に指の付け根近くに毛が生えているところなど、蟹の甲羅の毛を思わせた。そういう連想からか、手全体が甲殻類っぽく見えてきて、正直ちょっと不気味だった。

「まあ、いいわ。どうせ今日一日のことなんだもの」
 わたしがそう呟くのを待っていたように、電話が鳴った。
 彼が会社で胸の痛みを訴えた直後に倒れ、救急車で病院に運ばれたことを告げられた。

 わたしは、彼の右手が部屋にあることを、結局彼の両親に伝えられなかった。それを伝えることは、彼の両親にとって、息子を冒涜(ぼうとく)されるに等しいことのような気がしたからである。
 そのうちに、彼の葬儀も終わってしまったが、なぜか彼の右手は依然として元気に部屋の中を動き回っていた。本体であるはずの身体がもうないのに、手だけ動き続けられる理由がさっぱり理解できないのだが、それを誰かに訊くわけにもいかない。

 わたしと彼の右手の奇妙な同居生活は、こうして始まったのだ。
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