第11話 飴玉(一)
文字数 2,076文字
わたしは今でも、あの日の出来事が夢だったのか現実だったのかよくわからない。
実は当時の自分の年齢さえはっきりと覚えてはいないのだが、幼稚園ほど小さくはなかった気がする。たぶん小学校の一年か二年。三年生以上ではなかったようだ。
学校から帰ってきたわたしは、テレビで再放送のアニメを見ていた。母は買い物か何かに出かけていて留守だった。
ふと、玄関のチャイムが鳴っているのに気づいた。
わたしは立って玄関に行った。土間に置いてあった父親の大きなサンダルを突っかけて、引き戸を開けた。いや、「開けてしまった」と言うべきかもしれない。もしあの時、戸を開けなければ、これから話すことは起こらなかったはずなのだから。
誰か確認もせずに玄関の戸を開けてしまうなんて、ずいぶんうかつなやつだ、と言われればその通りなのだが、あの頃、わたしの家の近所にはまだ古い時代の習慣が残っていた。八百屋さん、酒屋さん、米屋さんなどは軽トラやオートバイでやってきて、そのまま庭から勝手口へと回り、母がいなければそのまま物を置いていった。
他にも、わたしが「目んめくりくりばあちゃん」と呼んでいた人がいた。この人はかなりの年齢なのだが、大きな風呂敷包みを背負って定期的に家に行商にやってくるのだった。
この人は玄関から入ってくる。「どっこいしょ」と言って、上がり框 に大きなお尻を据える。
よくあんな風呂敷包みを背負えるものだと感心するほど大きな風呂敷包みで、そこにはいろいろな魚の干物が入っていた。母はこのおばあちゃんの持ってくる鯵の干物は風味がいいと言って、よく買っていた。
このおばあちゃんには、剽軽 なところがあった。
いつもびっくりしているみたいな大きな目の持ち主なのだが、黒目の部分をくりくりと円を描くように動かすことができるのだ。その動き方がなんとも滑稽で、わたしはおばあちゃんが来る度に、やってくれるようせがんだ。おばあちゃんも、にこにこと愛想よく応じてくれた。近所に住んでいる「お面ばあちゃん」とは、同じおばあちゃんでも月とスッポンだった。
わたしがうっかり玄関の戸を開けてしまったのは、引き戸の曇りガラスの向こうに、風呂敷包みの影のようなものが見えたからだった。わたしは瞬間的に「目んめくりくりばあちゃん」だと思ってしまったのだ。おばあちゃんにしては風呂敷包みの位置が高かったと気づいたのは、そこに見知らぬ男の立っているのを見た後だった。
男はすっと入ってくると、おばあちゃんと同じように上がり框に腰掛けた。土間に立っているわたしからは男の横顔が見えた。
男は切れ長の、眼尻の少し釣り上がった目をしていた。瞳が、ちろっと動いてわたしを捉えた。わたしは、わけもなくどきっとした。
瞬間、男が笑った。笑うと頬に、まるで犬の髭のような皺が寄って人懐こい顔になった。
「お母さんは?」
大人の男にしては細い、ちょっと高い声だった。
今いないと答えると、いつ帰ってくるかとまた訊かれた。わたしは答えず、首だけ横に振った気がする。
「そうかい、じゃあ、また来よう」
意外にあっさり男は立ち上がった。
引き戸に手を掛けて、ふと男は振り返った。ほっとしかけていたわたしは、またどきっとした。
「お嬢ちゃん、一人でお留守番して偉いね。これをあげよう」
引き戸の閉まる音がして、男は出て行った。
曇りガラスにぼんやり映る男の影が完全に消えてから、わたしは引き戸を細く開け、そっと外の様子を窺った。誰もいなかった。わたしは震える右手で鍵を閉めると、居間に駆け戻った。百メートルを全力で走った後のように、心臓が早鐘を打っていた。テレビのアニメ番組はまだ終わっていなかったが、それを見るどころではなかった。
大変なことになったと思いながら、おそるおそる左手を開いた。
そこには、いかにも安っぽい、けばけばしい包装紙につつまれた飴玉がひとつあった。
知らない人から物をもらってはいけないと、母からきつく言われていた。それでも受けとってしまったのは断るのが怖かったからだが、見つかったら叱られるに決まっている。早く捨ててしまわなければならない。とりあえず台所へ行って、流しの生ごみ用のビニール袋に放り込んでみたが、ダメだった。飴の包装紙は、わたしを嘲笑うかのようによく目立った。これではひと目で母にばれてしまう。
そうだ、排水溝に流してしまえばいい。でも、排水溝にはゴミ受けが付いているから、それを取り外さなければ。爪を排水溝とゴミ受けの隙間に入れようとするのだが、滑ってなかなか入らない。
その時だ。
玄関の引き戸が開き、わたしを呼ぶ母の声が聞こえた。
どうしよう、お母さんが帰ってきちゃった!
わたしは一種のパニック状態に陥ってしまったのだと思う。無理やり高いところへ上げられた高所恐怖症の人が、恐怖を解消する最短の方法として、そこから飛び降りてしまうことがあると言うが、わたしの行動もどこかそれに似ていたのかもしれない。
なんとわたしは、とっさに包装紙を開き、その飴玉を呑み込んでしまったのである。
実は当時の自分の年齢さえはっきりと覚えてはいないのだが、幼稚園ほど小さくはなかった気がする。たぶん小学校の一年か二年。三年生以上ではなかったようだ。
学校から帰ってきたわたしは、テレビで再放送のアニメを見ていた。母は買い物か何かに出かけていて留守だった。
ふと、玄関のチャイムが鳴っているのに気づいた。
わたしは立って玄関に行った。土間に置いてあった父親の大きなサンダルを突っかけて、引き戸を開けた。いや、「開けてしまった」と言うべきかもしれない。もしあの時、戸を開けなければ、これから話すことは起こらなかったはずなのだから。
誰か確認もせずに玄関の戸を開けてしまうなんて、ずいぶんうかつなやつだ、と言われればその通りなのだが、あの頃、わたしの家の近所にはまだ古い時代の習慣が残っていた。八百屋さん、酒屋さん、米屋さんなどは軽トラやオートバイでやってきて、そのまま庭から勝手口へと回り、母がいなければそのまま物を置いていった。
他にも、わたしが「目んめくりくりばあちゃん」と呼んでいた人がいた。この人はかなりの年齢なのだが、大きな風呂敷包みを背負って定期的に家に行商にやってくるのだった。
この人は玄関から入ってくる。「どっこいしょ」と言って、上がり
よくあんな風呂敷包みを背負えるものだと感心するほど大きな風呂敷包みで、そこにはいろいろな魚の干物が入っていた。母はこのおばあちゃんの持ってくる鯵の干物は風味がいいと言って、よく買っていた。
このおばあちゃんには、
いつもびっくりしているみたいな大きな目の持ち主なのだが、黒目の部分をくりくりと円を描くように動かすことができるのだ。その動き方がなんとも滑稽で、わたしはおばあちゃんが来る度に、やってくれるようせがんだ。おばあちゃんも、にこにこと愛想よく応じてくれた。近所に住んでいる「お面ばあちゃん」とは、同じおばあちゃんでも月とスッポンだった。
わたしがうっかり玄関の戸を開けてしまったのは、引き戸の曇りガラスの向こうに、風呂敷包みの影のようなものが見えたからだった。わたしは瞬間的に「目んめくりくりばあちゃん」だと思ってしまったのだ。おばあちゃんにしては風呂敷包みの位置が高かったと気づいたのは、そこに見知らぬ男の立っているのを見た後だった。
男はすっと入ってくると、おばあちゃんと同じように上がり框に腰掛けた。土間に立っているわたしからは男の横顔が見えた。
男は切れ長の、眼尻の少し釣り上がった目をしていた。瞳が、ちろっと動いてわたしを捉えた。わたしは、わけもなくどきっとした。
瞬間、男が笑った。笑うと頬に、まるで犬の髭のような皺が寄って人懐こい顔になった。
「お母さんは?」
大人の男にしては細い、ちょっと高い声だった。
今いないと答えると、いつ帰ってくるかとまた訊かれた。わたしは答えず、首だけ横に振った気がする。
「そうかい、じゃあ、また来よう」
意外にあっさり男は立ち上がった。
引き戸に手を掛けて、ふと男は振り返った。ほっとしかけていたわたしは、またどきっとした。
「お嬢ちゃん、一人でお留守番して偉いね。これをあげよう」
引き戸の閉まる音がして、男は出て行った。
曇りガラスにぼんやり映る男の影が完全に消えてから、わたしは引き戸を細く開け、そっと外の様子を窺った。誰もいなかった。わたしは震える右手で鍵を閉めると、居間に駆け戻った。百メートルを全力で走った後のように、心臓が早鐘を打っていた。テレビのアニメ番組はまだ終わっていなかったが、それを見るどころではなかった。
大変なことになったと思いながら、おそるおそる左手を開いた。
そこには、いかにも安っぽい、けばけばしい包装紙につつまれた飴玉がひとつあった。
知らない人から物をもらってはいけないと、母からきつく言われていた。それでも受けとってしまったのは断るのが怖かったからだが、見つかったら叱られるに決まっている。早く捨ててしまわなければならない。とりあえず台所へ行って、流しの生ごみ用のビニール袋に放り込んでみたが、ダメだった。飴の包装紙は、わたしを嘲笑うかのようによく目立った。これではひと目で母にばれてしまう。
そうだ、排水溝に流してしまえばいい。でも、排水溝にはゴミ受けが付いているから、それを取り外さなければ。爪を排水溝とゴミ受けの隙間に入れようとするのだが、滑ってなかなか入らない。
その時だ。
玄関の引き戸が開き、わたしを呼ぶ母の声が聞こえた。
どうしよう、お母さんが帰ってきちゃった!
わたしは一種のパニック状態に陥ってしまったのだと思う。無理やり高いところへ上げられた高所恐怖症の人が、恐怖を解消する最短の方法として、そこから飛び降りてしまうことがあると言うが、わたしの行動もどこかそれに似ていたのかもしれない。
なんとわたしは、とっさに包装紙を開き、その飴玉を呑み込んでしまったのである。