第9話 声

文字数 3,053文字

 さびしい花だね。
 あの方は、そう言われました。

 あの方――自分の夫であった人をそうお呼びするのは、自分でも妙なものだと思います。でも夫と呼ぶより、名前で呼ぶより、やはり「あの方」と言うのが、わたしにとって一番しっくりくる気がいたします。

 わたしたちの短すぎる婚姻生活が、あんな形で終わってしまったこと。それは畢竟(ひっきょう)、時代のせいだと諦めるほかないのかもしれません。あの方が当時置かれていた立場の複雑さ、また思想上の問題などという難しいことは、わたしは今でもよくわからないのですから。

 わたしは、いったいあの方の何を知っているのでしょう。
 あまりにも昔のことで、今ではお顔すらはっきりとは思い出せません。でも声――あのお声だけは、まるで蓄音機のラッパを耳元に置いてレコードをかけているように、遠く過ぎ去った「(とき)」の彼方から

と蘇り、わたしの老いた鼓膜を震わせるのでございます。

 静かな、でも決して弱弱しいわけではなく、あくまで男の人らしい頼もしさを湛えたお声でした。しかも声の先が円みを帯びているとでも申しましょうか、すっと柔らかく、わたしの心の襞の奥深くに分け入ってくるのです。あの方のお声を聴いていると、知らぬ間に頬が火照(ほて)ってくるのを覚えたものでした。

 初めてお会いしたのは、上野精養軒で行われたお見合いの席でした。
 ついこの間まで、女学校で「エスの契り※」などと申して、『お慕わしきお姉さまへ』などという手紙を書いていた小娘が、生まれて初めてこんな場所で、男の人とお見合いをすることになったのですからたまりません。もうこちこちに緊張して、最初から最後まで、あの方とはろくに眼すら合わせられませんでした。
 せっかくの晴れ着にしても、きつく締めすぎた帯が苦しくて、高級フランス料理も味わうどころではなく、あの方が何をお訊きになったのか、それに自分が何とお答えしたのか、家へ帰ってからいくら考えても、さっぱり思い出せないほどでした。
 それでもお見合いが終わって二三日して、先方様では積極的に話を進めたい意向だそうだが、お前の気持ちはどうなのかと母から尋ねられた時、わたしはたいして躊躇もなく、こっくり頷いてしまったのです。

 わたしが何も言わずに頷いたのを、母は単にわたしの恥じらいのせいと取ったらしく、笑いながら父に一種の目交(めま)ぜをしました。父は一見厳めしく、髭の先を指で捻って、うむなどと言っていましたが、これでどうやらこの末っ子も(かたづ)いてくれそうだわい、と内心ほっとしたらしい様子でした。娘ばかり三人いる家だったのですが、わたしと長姉の間は、年が十三も離れていたのです。
 でも本当のことを申しますと、あの時は恥ずかしさで声が出なかったのではありません。お見合いの日以来、自分の身体の中で鳴り響いているあの方のお声に、わたしはそっと耳を澄ませていたのです。

 それから、何度か二人だけでお会いしました。
 男の人と二人でカフェーに入るようなことも、それまで経験したことがなく、こんな時には何を話せばよいのやら、皆目見当もつきませんでした。あの方に問われるままに、女学校の時のことなどをお話しするのですが、『こんなことが面白いのかしら』と自分でも疑いながら、おっかなびっくり口にしているので、これでは会話の弾むはずもありません。

 あの方はあの方で、わたしが俯いて、コーヒーをスプーンでかき回してばかりいるので、最初はてっきり御自分が嫌われているとお思いになったそうなのですが、だんだんそういうことではないとわかってくると、あの方はわたしに構わず、ご自分のことを話されるようになりました。わたしとしても、その方がずっとありがたく、ただひたすらあの方のお声に耳を傾け、それが自分の身体に染み込んでゆくのを、ひそかに楽しんでおりました。

 あの方の口にされたことは、わたしにはすべて面白く聴こえました。でも、それはつまり、あの方のお声に乗って流れてくる言葉だったからなのでしょう。今になって、ぼんやりとした頭でほろほろと記憶の細道を辿り、それらをなんとか文字にしてみようと努めても、まるで雲をつかむようなとりとめのない物語の断片ばかりです。

 ある夜、家まで送ってもらう途中の夜道で、いきなり抱き寄せられて唇を奪われ、それがそのまま結婚を承諾した形となり、あとはとんとん拍子に話が進みました。時局柄祝言は簡素なものでしたけれど、それでもあの頃はまだ最後の平和な空気のようなものが残っていて、近場の伊豆へ三日だけとは言え、一応新婚旅行もできたのでした。
 あの方を追い詰める影がすでにひたひたとその足元まで迫っているとも知らず、わたしは明るい伊豆の海に、久方ぶりに胸の晴れる思いを味わい、無邪気にはしゃいでおりました。

 旅館に着いた日の夕刻、浴衣姿で外へ出てみますと、お庭の一廓に夕顔が植えられていて、それがちょうど開いたばかりらしく、潮の香のする薄闇の中に、濡れたような白い花弁を揺らしているのでした。
 わたしは思わず花の傍にしゃがんで、眺め入りました。さびしい花だね。ふと、頭の上からあなたの声が降ってきました。振り向いて見上げようとしたその時――

「あ」

 思わず声を上げてしまいました。
 あの方は背後から覆いかぶさるようにしてわたしを抱きすくめると、右手を浴衣の襟の合わせ目から差し込んできたのでした。
 実は、祝言の日から既に幾晩も(ねや)を共にしているのに、あの方は一度もわたしを抱いていなかったのです。晩熟(おくて)だったわたしは、正直ほっとする気持ちもなかったとは言えないのですが、だからと言ってそれが嬉しかったかと言われれば、やはりそんなことはなく、隣で安らかな寝息を立てているあの方を見ていると、妙に神経が高ぶってきて、思わず揺すぶり起こしてやりたい衝動を感じることもあったのです。
 ですから、あの方がやっとわたしに触れてきた時は、求められる喜びもあった反面、いつ人目につくかわからない場所で、いきなりこんなことをするのは乱暴すぎるという戸惑いもありました。有無(うむ)を言わせぬ男の力と匂いに、なんだか頭がぼうっとしてしまい、わたしはしゃがんだ姿勢のまま、ただじっと身を固くして、されるがままになっておりました。

 これが後にも先にも、わたしがあの方の生臭さに触れた、ただ一度きりの出来事でした。あの方はすぐわたしから身を離すと、なぜか一人で、すたすたと海岸の方へ降りて行ってしまわれたのです。
 旅館の白い浴衣の後ろ姿が遠ざかっていくのを、わたしは乱れた襟をつくろうのも忘れて、ぼんやりと見送っていました。

 そのうち、わたしの眼からとめどなく涙が溢れ出しました。人は時として未来を見る――いえ、感じてしまうことがあるのかもしれません。あの時のわたしは、自分が感じている悲しみの理由を知りませんでした。その理由をわたしが本当の意味で知った時には、かえって涙は一滴も零れなかったものです。

 あの伊豆の海辺の旅館で、わたしはこれからやってくる悲しみを感じ取り、未来の自分のために泣いたのでした。涙のせいで、眼の中のあの方の輪郭が崩れ、ぼうっと広がりました。

 ――それは、あの方がさびしいと言った花の姿に、そっくりでした。

                                   (第九話・了)

※「エス」というのは、「シスター(Sister)」の頭文字で、女学生同士が疑似的な姉妹関係を結ぶことを指す。戦前の女学校風俗の一つだった。
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