第7話 鰻

文字数 4,372文字

 子供の頃、たまに家で鰻を頼んだりする時には、歓声が上がったものだ。
 今もわたしがたまに帰省したりすると、母は必ず近所の鰻屋に、うな重の出前を頼む。
「お前、鰻が好きだったよねえ」
 と言うのだが、そんな時、わたしは曖昧な笑いを顔に浮かべて黙っている。
 わたしが家にいるとわかっていても、早期退職した父は自分の部屋にこもりがちで、あまり出てこないし、会話も殆どない。
 
 あの頃、近所の鰻屋の威勢のいいお兄さんが届けてくれるうな重は、確かにごちそうに見えた。
 でも、歓声を上げるほど好きだったかと言われると、正直首を傾げざるを得ない。
 喜んだふうをしなければ悪い、という気持ちの方が強かったのではないだろうか。
 鰻が本当に好きだったのはわたしではない。妹の加奈だ。
 そして、そのことは母より父の方がよく知っていた。父は、もちろん自分も鰻好きだったのだろうが、妹を喜ばせるために、うな重の出前を頼んでいたようなところもあった。

「よし、今日は鰻だ!」
 父の宣言に真っ先に歓声を上げるのは、いつも妹だった。わたしは二拍も三拍も遅れて、「わーい」と言うのだが、わたしの声は、おそらく父には届いていなかっただろう。
 妹は歓声を上げて父に飛びつき、父は妹を抱き上げて頬ずりする。すると、妹は大袈裟に「お髭、痛ぁい!」と言うのだが、その声がわたしは好きではなかった。父に抱き上げられた妹は、スカートの中の両足を大きく開いて、父の少し出っ張ったお腹を挟むようにする。その恰好も、嫌な感じがした。

 わたしは父に飛びついたことがない。女の子らしい声を出して甘えたこともない。妹がわたしを牽制していることはわかっていたが、妹と競い合う気はなかったし、そのことで喧嘩をしたいとも思わなかった。わたしには、妹のようになりふり構わず父親の愛を独占したいという気負いのようなものが最初から欠けていたのだろう。案の定と言うべきか、父はかなり露骨に妹を贔屓(ひいき)した。

 母はそんな父に対して何も言わなかった。母はわかっていてわざと何も言わないのだと、わたしはずっと思っていた。
 ところが、たまに帰省したわたしに、必ず鰻を取ってくれようとする母を見ると、なんだかわからなくなってくる。
 まさか本当に気づいていなかったのだろうか。それとも、記憶がどこかで入り混じってしまったのだろうか。

「お母さん、鰻が好きだったのはわたしじゃないの。加奈よ」
 ここまで出かかった言葉を、わたしはいつも呑み込む。わたしは、恐れている。
 想像の中の母は、わたしがその言葉を口にすると、ゆっくり振り返る。その眼は、見ず知らずの他人の眼だ。母は低い声で、こう言う。
「あなた、どなた?」
 腋の下に汗が滲む。汗は想像ではなく、本物だ。

 〇

「うな重の箱って、なんだか玉手箱みたいですよね」
 とわたしは言った。
 店内は、わたしたちの他に客はいない。昼時をかなり過ぎているからなのかもしれないが、なんとなく、元々あまり流行っていない店のような気がした。空調の具合が悪いのか、さっき掻いた汗が乾くどころか、逆にブラウスに貼りつくようで不快だった。

 その人のマンションのすぐ近くにあるので、前からここに鰻屋のあることは知っていたのだが、入ってみようと思ったことはなかった。
 それなのに今日、
「鰻なんてどうですか」
 と言ってしまったのは、わたしだった。
 どういう風の吹き回しだったのかわからない。暑い日だったから、単に駅前の商店街まで歩くのが億劫(おっくう)だっただけかもしれない。注文すると、すぐ箱に入ったうな重が出てきた。はやすぎる。ちょっと悪い予感がした。果たして鰻が妙に生臭い気がして、途端に胃が重くなった。玉手箱云々は、それでも気を引き立てようとして言ってみたのだ。


「玉手箱って、浦島太郎の?」
「はい。蓋を開けると、濛々と白い煙が上がるあれです」
「嫌なこと言うなあ」
「え、そうですか」
「白い煙を浴びて、浦島太郎は白髪のお爺さんになってしまうんだろ? なんだかあてつけられてるみたいだ」
「あてつけだなんて、そんな……」
 わたしは少し狼狽した。別に怒っているわけじゃない、こういう時の男の人は、ちょっとつき放したような、投げやりな態度になりがちなのだ。そう自分に言い聞かせる。
 頭ではわかっていても、わたしは男の人の不機嫌そうな顔を見ると、どきっとしてしまうのだ。それは、父に愛された記憶がないことと関係があるのだろうか。恐れるくせに、年上の男の人に惹かれてしまうのも、あるいは同じ理由なのかもしれない。

「いいよ。年が離れているのは事実なんだから」
 その人はちょっとぶっきらぼうに言って、うなぎの身とごはんを箸で挟んだ。そんなにたくさん一口で入るのかと心配したが、開いた口の方がずっと大きかった。生臭いと感じるのはわたしだけなのか、その人はけっこうおいしそうに鰻を食べ始めた。
 男の人がもりもり食べる様子は、見ていて愉快で頼もしくなることもあれば、伸び縮みする暗い口の穴が、何やら得体の知れぬ生き物のように見えてくることもある。

「なんだ、自分から入ろうと言ったくせに、全然箸が進まないじゃないか」
「わたし、胃が悪いから、あんまりはやく食べられないんです」
「そうなのか。今まで気がつかなかったけど……」
 胃腸が弱いのは、本当だった。
 小柄で華奢な身体つきのくせに、なんでもぺろりとたいらげてしまうのは妹だった。
 いつも身体中に元気が詰まっている感じで、妹がいるだけで空気の色が華やぐとよく言われていた。それに比べて、わたしは見た目こそ妹より背が高く、いかにも丈夫そうなのに、子供の頃はよく風邪を引いて寝込んだ。ちょっと変わったものを食べるとすぐ胃が痛くなったり、お腹をこわしたりする体質は、大人になった今も改善されたとは言えない。

「最近、向田邦子のエッセイにはまっているんです」
 話題を変えるために言ってみた。
「向田邦子? ずいぶん古いもの読んでるんだなあ。そう言えば、小さい頃、親父やお袋が、向田邦子が書いたホームドラマを見ていたっけ。『あ・うん』だったかな、タイトルが変わっていたから覚えている。内容については、なんか古臭い話だなあという印象しかなかったな」
「わたしもドラマの脚本の方はよく知らないんですが、エッセイがとても面白くて。毎晩寝る前に読んでいるんです。昨日は『隣りの神様』っていう作品を読みました。四十八歳で初めて喪服を作る話です。仕立て上がった喪服が届いたので、鏡の前で着てみます。『出来ばえに気をよくしながら、私はドキンとした』と書いてあるんです」
「へえ、どうして?」
 その人は大して興味があるようにも見えなかったが、それでもおざなりにそう訊いてくれた。
「自分がその喪服をはやく着てみたいと思っていることに気づいたからです」
「それが、いけないの?」
「だって」
 本当にわからないのかな、とわたしは思った。それともただ適当に相槌を打っているだけで、わたしの話なんてちっとも聞いていないのではないかしら。もう話すのをやめようかとも思ったが、「だって」と言ってしまった手前、続けざるを得なかった。
「それって、誰か知り合いの死を待っていることになってしまうでしょう」
 ああ、という顔をその人はした。頷くのではなく、逆に顎を上げる仕草だった。その人の癖でもあった。
「他人の不幸を待ってまで新しく作った服を着てみたい。そこに女の(ごう)を感じたって、向田さんは書いているんです」
「女の業、ねえ」
 その人は、空気が洩れるような笑い方をした。
 唇が鰻の脂で光っていた。わたしは思わず、眼を()らした。

「君って不思議な人だよね」
 その人は湯呑の茶を啜りながら言った。その音が、ちょっとわたしの耳に(さわ)った。
「不思議、ですか」
「まだ若いのに、妙に古風な雰囲気があるんだよな。そういう昭和の作家の本を読んだりしているのが妙に似合うんだ」
「…………」
「いや、褒めてるんだよ。君と一緒にいると、なぜだかほっとするんだ」

『お姉ちゃんってさ、昭和顔だよね』
『何よ、それ』
『わたしもよく知らないんだけど、そういう言い方があるんだって。なんかさ――』
 あの時の妹の笑った顔を、わたしは今でも

と覚えている。
『――貧乏臭い顔、って言うの?』
 妹の頬が音高く鳴っていた。妹に手を上げた、と言うより、妹に対して怒りを露わにしたのが初めてだったと思う。
 妹は当然のごとく派手に泣き喚き、わたしは父にひどく叱られ、謝るよう命令されたが、わたしはだんまりを決め込んでとうとう謝らなかった。父に反抗的な態度を採ったのも、あの時が初めてだったと思う。
 確かわたしが高校生、妹はまだ中学生だったはずだ。あの頃、妹にはもう親に内緒のボーイフレンドがいた。

 妹が男の運転する車に乗っていて、深夜の国道134号線で事故死したのは、短大生の時だった。

 ――あんたは死んだのよ、もうわたしの前にふらふら出てこないで!

 我に返ると、その人が脅えたような眼でわたしを見つめていた。
「あの、わたし今、何か言いました?」
「何かぶつぶつ言いながら、一瞬、とても怖い顔をしたよ」
「ごめんなさい。ちょっと考えごとをしていて。あ、でも、大したことじゃないんです」
「なら、いいけどさ」
 それで納得したようでありながら、その人は、ちらりと探るような眼をわたしに向けた。さっきのわたしは、よほどすごい顔をしていたらしい。
 
「食べてあげようか」
「え」
「鰻さ。食べきれないんだろ」
 わたしの返事も待たず、その人は既に箸を伸ばしかけていた。
「だめ!」
 自分でも思いがけない言葉だったにも(かかわ)らず、声に出した途端、なぜか怒りが湧いてきた。
 わたしは、うな重の箱を自分の方へ引き寄せ、いやいやをするように首を振った。子供の頃の妹が、わたしのぬいぐるみを持ち出したり、わたしの服を勝手に着たりした時、わたしが言えなかった言葉であり、できなかった動作である。もし言えば、「お姉ちゃんなんだから、もっと妹にやさしくしてあげなさい」と頭ごなしにどやされるに決まっていたから。

「持て余しているみたいだから言ってやったのに」
 不服そうなその人を無視して、わたしは箸に力を込めた。うなぎの身がさっくり切れ、わたしはごはんと一緒にそれを頬張った。続けざまに、口に運んだ。

 その人は、あっけにとられたような顔で、黙々と鰻を食べるわたしを見守っている。
 全部食べ終わったら――
 今まで何度も言おうとして言えずにいた言葉を、ようやく口にできそうな気がした。

                                   (第七話・了)

※文中引用した『隣りの神様』は、向田邦子『父の詫び状』(文藝春秋、2006年、P32~P43)を参照した。
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