第14話 コスモスの約束

文字数 1,812文字

 わたしは、月めくりのカレンダーをめくる。旅先にまで持ってきてしまったカレンダーの、今日の日の余白に目を落とす。

「一緒に旅行に行こうよ」

 それはここ数年、わたしたちの間の合言葉になっていた。顔を合わせる度に、同じセリフが互いの口から出た。

 ノートパソコンの前に額を寄せ合って、わたしたちは「二人で行く旅行の目的地」について議論したものだ。

「あ、ここがいい!」
 そう言って指差したのは、あなただった。

 わたしがパソコン画面に目を遣ると、一面のコスモスが、秋の風に揺れていた。

 ※※※※※

 わたしたちは大学時代からの親友だった。ふたりとも第二外国語で中国語を履修していたから、「閨蜜(クイ・ミー)」という語を覚えて、ふたりの間の秘密の暗号みたいに使っていた。

 クイ・ミー。

 熱帯魚の名前みたいだが、女性同士の親友を表す言葉だ。「閨」というのは女性の部屋を指す。本来は「友」の略なのだそうだが、後に「密」と発音が同じ「蜜」の字を当てるようになったらしい。熱帯魚がひらひらと尾びれをふるような甘やかさがある。

 結論を言ってしまえば、わたしたちがコスモスの咲き乱れる場所へ一緒に旅行することはなかった。

 大学卒業後、別々の会社に就職したわたしたちは、お互いに忙しい日々を送っていた。

 毎日のLINEのやり取りは続けていたし、仕事の後で待ち合わせして食事したり、休日一緒に映画を観たり、互いの部屋で「ふたり飲み会」をしたりもしたけれど、それでもやはり、それぞれの会社にいる時間が生活の中心だった。自分の世界がどんどん広がっていくようで、仕事が面白くもあった。

「一緒に旅行に行こうよ」

 わたしたちは同じ言葉を繰り返した。LINEで。お気に入りのレストランで。古い映画ばかり上映する、観客のあまりいない映画館で。そして、ビールで乾杯しながら……。

「今年こそ、絶対に行くよ。絶対!」
 あなたがきっぱりとそう言い切ったのは、今年の春のことだった。

 わたしの部屋でコーヒーを飲みながら、Netflixの海外ドラマを観ていた時だった。近くの公園の桜が満開だったのを覚えている。

「うん」わたしがマグカップを口に運びながら頷くと、
「それがだめなんだって」
 あなたは厳粛な表情で言った。
「だめ? 何が?」いきなりのダメ出しに、わたしはびっくりして顔を上げた。
「口で言うだけじゃ、だめなの」
「じゃあ、どうすればいいの?」
 あなたはボールペンを取り、わたしの卓上カレンダーをめくり始めた。
「ここ。この日、わたしたちはコスモスを見に行く。行くの。」

 ※※※※※

 ホテルにチェックインした後、わたしは荷物の中から小さなカレンダーを取り出すと、ベッドに腰掛けてそれをめくっていった。

 今日の日の余白に、あなたの字とコスモスのイラストが書き込まれている。イラストは、お世辞にもうまくない。

 カレンダーをベッドサイドテーブルにそっと立てて、わたしは部屋を出た。

 事前に調べた通り、ホテルのエントランスから見て右手にある、なだらかな傾斜をのぼってゆく。やがて細く曲がりくねった、林の中の道に入る。勾配がだんだんきつくなり、少し息が乱れた。いや、本当は乱れたような気がしただけだったのかもしれない。

 突然、ぱあっと視界が開けた。パソコンの画面で見たよりも、十倍も百倍も美しい景色が目の前に広がっていた。やわらかな日差しが降り注ぎ、やさしい風が髪をなぶる。

 どうしてもっとはやくこなかったんだろう? 時間なんて、その気になりさえすれば、どうにでもなったはずなのに。

 わたしは泣いた。泣いたのだと思う。体が水のように透き通っていく気がして、どこまでが体でどこからが涙なのか、自分でもよくわからなかった。

 世界はとても静かだった。光がたゆたい、風がわたしを包み込んだ。コスモスが揺れ、わたしも揺れた。

 そう言えばさっきのホテルも妙に静かだったと、わたしは水のような心で思う。ちゃんとチェックインしたはずなのに、フロント係の顔もよく思い出せない。いや、フロントに誰かいただろうか。そもそも、どうやってここまで来たんだっけ?

 光や風が、わたしの中を通り過ぎていく。なんだか眠くなってきた。このまま陽だまりの猫みたいに、体を丸めて寝てしまおうかしら……。

 ――コスモスの海が、風にそよいでいる。

                                  (第十四話・了)
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