第12話 麦わら帽子(二)

文字数 3,932文字

 湯舟に浸っていると、手足の指先に、ようやく温かみが戻ってくる気がした。

「ここに着替えの浴衣を置いておくわね」
 硝子(ガラス)戸の外で、銀の鈴を振るような声が響いた。
「ありがとうございます。何から何までお世話に……」
 お礼の言葉が尻切れ蜻蛉(トンボ)になってしまった。

 あの方が硝子戸を開けて、お湯殿の中に入っていらしたのだ。
 しかも、生まれたままの姿で。

 妙なことになってしまった、と思った。
 湯舟はたっぷりと広く作られているので、ふたりで楽々と入れるのだが、わたしは隅の方で四肢を縮めていた。

「どうなさったの? もっと手足をお伸ばしになればよろしいのに」
 相手はおかしそうに、くすくすと笑う。
「はい。でも……」
「女同士で、何を恥ずかしがることがあって?」
 わざとのようなあどけないしぐさで、小首を(かし)げてみせる。
 それはそうに違いないのだが、さっきからわたしの心臓が早鐘を打っているのはどうした理由(わけ)なのだろう。お湯が熱すぎるせいかしら。
 
 できるだけ正面を見ないようにしているのだが、それでもずっと顔を背けているのもへんな気がして、おそるおそる視線を戻す。そうよ、女同士なんですもの、意識しすぎるのはかえっておかしいわ。

 お湯は澄んでいる。
 あのほっそりした腰に、さっきまで思いきりしがみついていたんだと思う。それから、微かに揺れているお湯の面のすぐ下にある、ふっくらしたふたつの丘――

「ねえ」
「あ、はい」
「あそこで何をしてらしたの。急に飛び出してこられたから、びっくりしたわ」
「風で帽子が飛んでしまって。追いかけたら、ちょうど辻のところに出てしまったんです」

 下ろしたての水色のワンピースの裾が翻るのも構わず、転がる麦わら帽子を追って走ったわたしは、地面しか見ていなかった。その先でもうひとつの道と交差することは知っていたのだが、人通りもなかったし、まさか向こうから馬に乗った人がやってくるとは夢にも思わなかったのだ。

 馬がするどく(いなな)いて、棹立(さおだ)ちになった。わたしは驚きのあまり、固まって動けなくなってしまった。

 乗馬服姿の人はあわてず、どうどうと言って馬の首を叩いた。ようやく馬が落ち着くと、さっと降りて、わたしの前に立った。

 乗馬帽とテーラード・ジャケット、それから革のブーツ。それらが黒一色の中で、ジョドパーズだけが白かった。降りた時、ジョドパーズに包まれた、すらりと長い足が鮮やかに目に映った。

『けがはなくって?』
『は、はい』
 馬上にあった時は、きりっとした少年かと思ったが、間近で見ると蘭の花のようにあでやかな麗人だった。

『お乗りなさい』
『えっ』

 わたしは目を(みは)った。何を言われたのかわからなかった。

『夕立がくるわ。このままここにいては、濡れ鼠になってしまうことよ。うちの別荘がすぐ近くだから、そこで雨宿りしておいきなさい』

 わたしの頭は既に正常な判断ができなくなっていた。そのまま、まるで夢でも見ているように鞍の上に押し上げられてしまった。馬とは、山みたいに大きなものだと思った。わたしの方はスカートなので鞍を(また)げず、横坐りしかできない。鞍は固く、身体がぐらぐら揺れるので、心細さのあまり泣きそうになった。

 続いて、ひらりと馬上の人になると、この麗人は「わたしの腰にしっかりおつかまりなさい」と強い口調で言った。

 わたしはあわてて、両腕を相手の腰に回し、右手で左の手首を強く握った。

 耳の傍で風を切る音がした。後ろを振り向くと、黒い雲が悪魔の恐ろしい手のように、みるみるこちらへ広がってくるところだった。

 ぽたり。雨だれの(つぶて)が頬を叩いた。次の瞬間、地面が沸騰したかと思うような響きが辺り一帯を満たした――

 ようやく別荘に着いた。そこは主に西洋人の別荘がある一等地の一廓(いっかく)だった。麗人に手伝ってもらって、わたしはなんとか鞍から降りたが、足にまるで力が入らず、蔓薔薇(つるばら)の模様のあしらわれた門扉の傍らに、へたへたとしゃがみこんでしまった。

『だいじょうぶ? しっかりなさって』
 麗人はわたしを抱きかかえるようにして、家の中に入れてくれたのだ。

 夕方にはまだ間があるはずなのに、円柱のある瀟洒(しょうしゃ)なベランダのランタンには既に灯が(とも)り、その周辺だけ雨あしをぼんやりと明るく染めていた。

 どこかに時間の歪んでしまったような、奇妙な感覚があった。しかももうひとつ不思議なのは、この別荘の中がひっそりと静まり返っていて、人の気配が感じられないことだった。

 ご両親はお出かけになっているのだろうか。でも、こうしてお風呂がわいているのだから、使用人はいるに違いない。それにしても、この墓場の中のような静けさはどうしたことだろう。

 身体があんなに濡れていなかったら、わたしはここに長居しようとは思わなかったに違いない。

 高原を渡る風は、真夏でも氷室(ひむろ)を通ってきたように涼しい。加えて夕立に打たれ、ずぶ濡れになった身体はずっと小刻みに震えていて、そのままでは風邪を引きかねなかった。だから、お湯に入っていらっしゃいというお言葉につい甘えてしまったのだが……。

「あの――」
 小さな声で訊いたつもりだったのだが、お湯殿の中のせいか、意外なくらい声が反響した。
「なあに」
「お名前を伺ってもよろしいですか」
「もちろん教えて差し上げますけれど、ご自分が名乗るのが先ではなくって」
 ずけずけ仰るわりには嫌な感じのない、爽やかなお声だった。
早山澪子(さやまみおこ)と申します」
「わたしは、隅田緋沙子(すみだひさこ)よ」

 緋沙子さまは、東京の某女学校の五年生とのことだった。
 女学校では、一学年上なだけで、ずいぶんお姉さまに見えるものだ。横浜にある女学校に今年の春から通い出したわたしにとって、五年生というのは(ほとん)ど雲の上の人に近かった。

「さっきの澪子さんは、まるで西條八十の詩みたいだったわね」
「『ぼくの帽子』の詩ですか」
「そう」
 わたしはつい微笑(ほほえ)んでしまった。

 母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?
 ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
 谿底(たにそこ)へ落したあの麦稈(むぎわら)帽子ですよ。※1
 
 そんな言葉で始まる『ぼくの帽子』は、わたしの愛誦する詩のひとつだったから。

 軽井沢に来る時、あの詩に出てくる碓氷峠を汽車で越えるのが楽しみだった。小さいトンネルを二十六もくぐると聞いていたので、最初は一つひとつ数えていたのだが、途中でわからなくなってしまった。そんな話を緋沙子さまはにこにこしながら聞いていたが、
「澪子さんは、初めて軽井沢にいらしたのね」
 と何気なく仰った。

 緋沙子さまの言葉に皮肉な響きはちっともなかったにも(かか)わらず、わたしはなんだか恥ずかしく、お湯に顎がつくほどうなだれてしまった。

 これまでわたしの家では、夏の一週間ほど、鎌倉の海辺に小さな家を借りて過ごす習慣だったのだが、今年はお父さまがご友人に勧められて買った株がうまく値上がりしたため、上機嫌のお父さまの発案で、初めて軽井沢に別荘を借りたのだった。

 同じ別荘と言っても、わたしたちが借りているのは、それこそ鎌倉の海辺の小さな家がなつかしく思われるようなものだったけれど、それでも碓氷峠をこの眼で見ることができ、また北原白秋のあの有名な『落葉松』の詩、

 からまつの林を過ぎて、
 からまつをしみじみと見き。
 からまつはさびしかりけり。
 たびゆくはさびしかりけり。
 ……※2

 を口ずさみながら、実際に落葉松の道を歩くことができただけで、わたしはもう十分に幸せだったのだ。
 
 でも、こうして英吉利(イギリス)人のようなお姿で乗馬を(たしな)まれる緋沙子さまと向かい合っていると、なんだか自分がひどく場違いなところにきてしまった気がした。

 びっくりして、わたしは顔を上げた。
 緋沙子さまが銃の照準を定めるみたいに片目をつぶり、親指と人差し指を弾いて、わたしの顔にお湯を飛ばしたのだ。

「なによ、ぼんやりなさって。わたしと一緒にいるのがそんなにお退屈? じゃあこうしてやるわ」
 続けざまにお湯が飛んできて、わたしの眼に入った。わたしは手で顔を覆い、いやいやをするように首をふったが、緋沙子さまは許してくれない。

「ひどいわ。もう!」
 わたしもさすがに腹が立って、両手を顔から外してお湯を掬うと、やけのように緋沙子さまにかけてやった。

 やがて、ふたりの笑い声が高くお湯殿に響き渡った。

「ねえ、澪子さんはどちらからいらしたの?」
 髪からぽたぽた落ちる滴を無造作にぬぐいながら、緋沙子さまはすっかり打ち解けた様子で尋ねた。
 わたしが自分の髪を絞りながら、「横浜ですわ」と答えると、緋沙子さまの眼が輝いた。
「横浜って素敵なところよね。東京に戻ったら、わたし遊びに行ってよ。その時は澪子さん、案内してくださるんでしょう」
「ええ、もちろんですわ」
「嬉しいわ。わたしたち、いいお友達になりましょうね」
 わたしが黙っていると、緋沙子さまは(いぶか)しげにわたしの顔を覗きこんだ。
「どうなさったの?」
「だって、お姉さまみたいに素敵な方、きっとお友達がたくさんいらっしゃるに決まっていますもの。東京に戻られたら、わたしのことなんてすぐお忘れになるわ」
「わたし、そんなふうに見えて」

 わたしは、どきりとした。緋沙子さまの声に突然、ひとり曠野(あれの)に立つ人のような響きが混じったから。

 黒目がちの眼が、じっとわたしを見つめている。
 底に光を封じ込めた、黒曜石のような眸だった。

「澪子さん、わたしは不幸な女なの」
 お湯の中のわたしの手に、緋沙子さまの手が触れた。
 反射的に引こうとすると、ぎゅっと握られた。

「あっ!」

 わたしは思わず小さく叫んでいた。

※1 『西條八十全集6 童謡Ⅰ』(国書刊行会、1992年)を参照。
※2 『白秋詩抄』(岩波文庫、1978年)を参照。
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