第1話 鯉

文字数 3,500文字

 彼が鯉になったことを告げると、わたしの両親はひとしきり驚き(なげ)いた後で、それでも籍を入れる前でよかったと言った。
 そういう問題ではないでしょう、と言いかけて、ではいったいどういう問題なのか、いや、そもそもどこが問題なのかさえ、自分でもよくわかっていないことに気づいた。 

 結局、わたしはそのまま黙って軽自動車を運転して丘を越え、彼とふたりで二年間住んでいた部屋に戻ってきた。

 ここには、まだ彼の匂いが残っている。
 でも、その嗅ぎなれた体臭に、最近魚の(なまぐさ)さが混じったように感じる。匂いは日に日に強くなり、壁の隙間や絨毯のひだの中に染み込んでいく。

「そろそろ引っ越しを考えないと」
 わたしは部屋の中で、声に出して言ってみる。匂いのせいではない。わたしひとりの安月給では、とても家賃を払っていくことはできないという単純な理由だ。そうか、彼が鯉になって先ず困るのは家賃の問題だったのかと呟いて、いやそれも確かに問題には違いないけれど、わたしはもっと大事なことを忘れているのではないだろうかと思い直す。

 しかし、いくら考えても大事なことの答えは見つからなかったので、わたしは彼に会いに行くことにした。日曜日の午後の過ごし方として、そんなに悪くない気がした。

 わたしはパラソルを差して、マンションの前のだらだら坂を下りていく。まだ五月だが、陽差(ひざ)しはかなり強い。くるくるとパラソルを回す。傘を持つとつい回してしまうのは子供の頃からの癖に過ぎず、別に心が弾んでいるわけではない。

 坂を下り切って、西へ曲がる。ここは暗渠(あんきょ)だと聞いたことがある。以前は橋が架かっていて、川の姿が見えたらしいのだが、今は舗装された道の下に隠れてしまった。それでも、川が消えてしまったわけではない。わたしはここを通る度に、道の下を流れる暗い水のことを思う。まるでわたしの身体の底を流れる水のことを思うように。

 わたしは、ほろほろと歩く。
 暗渠の場所を過ぎてしばらく行くと、丘へと続くなだらかな道に出る。さっきわたしが越えてきた車道ではなく、林道のような土の道だ。暗渠と丘のちょうど真ん中あたりに池がある。そこに、鯉になった彼が()んでいる。

 あたりに(ひと)()のないのを確認して、わたしは彼の名を呼ぶ。
 水面の一点に、黒っぽいものが浮かんでくる。波紋がふわっと広がる。濁った水の表面が皺のように畳まれて、わたしの足元まで届く。
 ああ、いた。元気そうでよかった、と思う。
 人だった時は痩せすぎなほど痩せていたのに、鯉になってからは少し太ったようだ。この池の水は案外、栄養価が高いのかもしれない。

 鯉は嬉しそうにわたしの方へ泳ぎ寄ってきた。ぽかりと大きな口を開けて、水面に浮かび上がる。
 鯉の口の中は暗い。そこにあるのは、小さな虚無。
 そんな(うつ)ろな闇を(くわ)えながら、なんだってあんなに必死に、ぱくぱくと動かすのだろう。
 何か伝えたいことがあるのだろうか。
 それとも、キスでもしたいのかしら。
 鯉には髭がある。人であった時は、いつもきれいに剃っていたのに。なんだか、おかしい。

「だめよ、我慢なさい」
 わたしは笑いながら言う。彼が人であった時は、こんなふうに言えなかった。鯉は髭を震わせて、再び水中に潜る。でも、泳ぎ去りはしない。ゆっくり輪を描くように泳ぎつつ、時折すっと水面に顔を(のぞ)かせる。
 まるでひとりで遊んでいる小さい男の子が、後ろにまだお母さんがいるかどうか確かめるみたいに。
 
 わたしは岸の草の上に腰を下ろし、パラソルの下から、そんな鯉を眺めている。見守っている。水面に浮かび上がる度に、お母さんみたいな顔で頷いてあげる。すると安心したように、鯉はまた泳ぎ出す。
 人であった時より、鯉になってからの方が彼を愛しているらしいことに気づき、わたしはなんだか不思議な気分になる。手の中で、パラソルをくるくると回す。

『もうやめて。いや!』
 あの夜、わたしはベッドの中で叫んだ。
 彼は完璧な男だと言われていた。今や殆ど死語の三高というやつで、友人たちだけでなく、うちの両親も非の打ちどころがないと手放しで褒めていた。そんな彼が、なぜわたしを選んだのかわからない。友人のひとりに、あんたとは釣り合わないと露骨に言われたことさえある。

 彼は外資系企業で、毎日遅くまで働いていた。ストレスの多い仕事らしかったが、わたしに八つ当たりしたり、いらいらしたそぶりを見せたことはなかった。常に自信に満ちた、けれども穏やかな声で話した。俗に「釣った魚に餌はやらない」と言うが、同棲するようになってからも、彼の態度は変わらなかった。記念日には駅前の花屋で花を買って帰ってきたし、家事もきちんと分担してくれた。

 でも――
 夜の行為が、少し強引で乱暴だった。少しだけ。大したことではない、完璧な自分でいることに疲れているだけなのかもしれない。それなら、せめてベッドの中だけでも好きにさせてやるのがわたしの務めなのではないか。そう思おうとしたこともある。でも、ようやくことが終わった後、いぎたなく眠りを(むさぼ)っている彼が、見知らぬ男に見えた。粘着質の嫌悪感は()(ごと)わたしの心を冷やし、(おり)のように身体の底を流れる川に溜まった。川の水が濁り、流れが滞っていくのが苦しかった。

 あの日も、わたしが感じていたものは、(よろこ)びというより苦痛に近いもので、わたしの顔もその通りだったろう。ふと眼を開けると、彼は

笑いを浮かべてわたしを見つめていた。瞬間、全身に冷たい水を浴びせられたようになった。わたしは叫んだ。あの時の彼の顔を、おそらくわたしは生涯忘れない。

 あの出来事が、彼を鯉にしてしまったのだろうか。
 いや、彼の生活には、わたしの知らぬことがいろいろあったのに違いない。彼の会社から電話があって出かけていくと、人事部の人が現れた。意外にも、彼が会社の金を使い込んでいた疑惑のあることを告げられた。その人は最初、わたしが共犯者ではないかと疑っていたようだったが、話しているうちに、わたしが本当に何も知らないことを理解したらしく、今度は憐れみの眼でわたしを見た。彼が他に女をつくり、そのために会社の金に手をつけたとでも考えたのだろう。この女は捨てられたのだ、こいつは確かに男に捨てられるような顔をしているな。

 使い込みの疑惑を不問に付し、ただの失踪扱いにする代わり、退職金は出さない。これでも寛大な処置だと思っていただきたい、とその人は言った。これ以上騒ぎを大きくするつもりなら法的な手段に訴えると暗に釘を刺された。

 違うんです、彼は鯉になってしまっただけなんです。そう伝えたら、この人はどんな顔をするだろう。ますますわたしを憐れむのか。それとも、そうだったんですか、こういうことって最近多いんですよね、それなら労災の対象になりますから、と言って申し込み用紙を渡してくれたりするのか。

 結局、わたしは何も言わなかった。言えなかった。あれだけ彼を気に入っていた両親が、「籍を入れる前でよかった」の一言で済ませた時、何も言えなかったように。夜の彼に(いだ)いた嫌悪感を、誰にも伝えられなかったように。世の中の多くのことは、言っても仕方のないことなのだ。言葉はいつも、届けたい相手の一歩手前で落ちてしまう。だから、鯉になった彼がいくら口を動かしても、わたしの耳には届かない。

 でも、彼が鯉になってこの池に棲むに至ったことが果で、そして果というものが、いくつもの因によって結ばれるのだとすれば、わたしが絶叫したあの夜の出来事も、そうした数ある因のうちのひとつではあったのかもしれない。
 
 同棲していた二年間、わたしは男の味を(たしな)んだことになるけれど、結局男という生き物が、わたしにはわからなかった。昼の彼と、夜の彼と。自信に満ち溢れた有能な若い社員と、会社の金に手を付ける卑劣な犯罪者と。いったい真実(ほんとう)の彼の姿はどこにあったのだろう。男の気持ちはわからない。ましてや鯉の心なんて。
 
 わたしは、軽く伸びをして立ち上がる。空いている方の手でお尻をはたきながら、彼に告げる。

「さようなら。また、来るわ」

 鯉は水面に浮かんで、じっとわたしを見つめる。
 わたしは手を振る。

 鯉はゆっくり身を(ひるがえ)す。手を振り返すように尾鰭を揺らしながら、ゆっくりと潜り始める。

 ふと、空を見上げた。
 少し()(かげ)り始めた五月の空を、一片(ひとひら)の雲がゆっくりと流れてゆく。
 
 そしてわたしは眼を細め、彼が水底から見上げる空を想像する。
 パラソルを、くるくると回す。

                                  (第一話・了)
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