第4話 右手(二)
文字数 1,974文字
夜中、わたしは悲鳴を上げて跳び起きた。
スイッチのところへ飛んでいって電気を点ける。クローゼットから柄の長いモップを持ってきて、それで恐る恐るベッドの上の蒲団を捲り上げた。
「やっぱり……」
そこには彼の右手が、まるで悪戯 を見つかった子供みたいに、シーツの窪みのところに縮こまっていたのである。
わたしはモップでそっと、彼の右手をベッドの下に落とそうとした。それが彼の身体の一部である以上、乱暴に扱うのは悪いと思ったからだが、この惻隠 の情が仇 となった。わたしの遠慮を嘲 笑 うかのように、右手が逃げ出したのだ。ベッドの脇のスタンドの傘にさっと飛び移って、こちらへ向き直る。手の甲や指の曲がり方が、猫が毛を逆立てて相手を威嚇する動作にそっくりだった。
それからが、修羅場だった。
何しろ足が五本もある小動物のようなものだから、動きがめくらめっぽうはやい。手が部屋中を駆け回り、その後をモップを持ったわたしが追いかけるという不毛な争いが延々と続いた。
コーヒー・カップが粉 微 塵 になり、サボテンの鉢が割れ、彼の形見のエヴァンゲリオン初号機のフィギュアがばらばらに砕け散った。
彼はこのエヴァ初号機をすごく大事にしていたので、名前を覚えている。わたしが唯一名前を言える彼の「ロボット」だ。これを壊してしまった時はさすがにしまったと思ったのだが、手の反応は、わたしのサボテンの鉢が割れた時と大差なかったので少し安心すると同時に、この手がもはや本体である彼の人格とは完全な別物と化していることが証明された気がして、警戒する気持ちがますます強くなった。
二時間後、疲れ切ったわたしはベッドに戻り、背中を壁にもたせて、はあはあとふいごのような荒い息をついていた。
気がつくと、右手はいつの間にか、そろそろとベッドの下に戻ってきている。
「駄目よ、あっちに行きなさいったら!」
わたしは鉛のように重い腕を上げて、モップで床を叩いた。
手は蜘蛛みたいな動きで、ささっと少し遠ざかるものの、モップの届かない距離をちゃんと心得ていて、安全な場所から狡猾そうにこちらの様子を窺っている。
わたしは思わず、深い溜息を吐いた。
今夜はどうやら眠ることを許されぬらしい。貞操の危機を回避するのは、楽ではなさそうだった。
必死に睡魔と戦っていたが、明け方くらいについうとうとしてしまい、はっとしてモップを握り直した。口の端から垂れていた涎 を拭うのも忘れ、慌てて周囲を見回す。
ありがたいことに、彼の右手はさっきと同じ場所にいた。指を折って丸くなっている。なぜそうなるのかはまったく不明だが、手はどうやら
その時だ。わたしの頭に悪魔的なアイデアが閃 いたのは。
音を立てないように、そっとベッドから下りると、わたしはキッチンへ行った。田舎の母が送ってくれた梅酒の空き瓶があるのを思い出したのである。
わたしは空き瓶を片手に再びベッド・ルームへ戻った。わたしは田舎生まれの人間だから、子供の頃は男の子に混じって、よく虫を捕まえて遊んでいた。わたしの蜻蛉 捕りの技は、並 いる腕白坊主どもにさえ、一目置かれていたものなのである。
虫を捕るには、先ず自分の気配を殺さなければいけない。わたしはそのコツを心得ていた。手はまだ寝ているようだった。わたしは腕が届く間合いまで忍者の如く近づいていくと、一気に瓶を被 せた。
手は跳び上がって瓶の天井にぶつかった。その時にはわたしはもう、絨毯と瓶の口の間に蓋を滑り込ませていた。
わたしは会心の笑みを漏らすと、蓋をした瓶をベッドの上に置いた。手は最初のうちこそ瓶の円みに沿ってぐるぐる回ったり、跳び上がったりして暴れていたが、やがておとなしくなった。
「このまま家の前のどぶ川に捨ててやるから、海まで流れていけばいいわ」
わたしは、瓶に顔を近づけて言った。瓶の表面にわたしの顔が歪んで映っていた。眼に大きな隈をつくって笑っているわたしは、まるで西だか東だかの悪い魔女のようだった。
その時、手が泣いた。
手は文字通り手だから、眼鼻がついているわけではない。涙が零れるはずもない。それでも手には明らかに表情が浮かんでおり、それは泣いているとしか見えなかったのだ。
わたしは、しばらくじっと泣いている手を眺めていた。わたしが泣かない代わりに、彼の右手がその主人を思って泣いている。そんな気がした。
わたしはせっかく閉めた瓶の口を再び開け、そっとベッドの上に横たえた。
手は、捕らえられた虫が虫籠の口を急に開けられた時にしばしばそうするように、降って湧いた幸運が信じられないといったふうに瞬時躊躇 い、それからそろそろと這 い出してきた。
「今度変なことしたら、絶対許さないわよ。いい?」
わたしは怖い顔で言った。手はおじぎでもするように、こつこつと指を曲げた。
スイッチのところへ飛んでいって電気を点ける。クローゼットから柄の長いモップを持ってきて、それで恐る恐るベッドの上の蒲団を捲り上げた。
「やっぱり……」
そこには彼の右手が、まるで
わたしはモップでそっと、彼の右手をベッドの下に落とそうとした。それが彼の身体の一部である以上、乱暴に扱うのは悪いと思ったからだが、この
それからが、修羅場だった。
何しろ足が五本もある小動物のようなものだから、動きがめくらめっぽうはやい。手が部屋中を駆け回り、その後をモップを持ったわたしが追いかけるという不毛な争いが延々と続いた。
コーヒー・カップが
彼はこのエヴァ初号機をすごく大事にしていたので、名前を覚えている。わたしが唯一名前を言える彼の「ロボット」だ。これを壊してしまった時はさすがにしまったと思ったのだが、手の反応は、わたしのサボテンの鉢が割れた時と大差なかったので少し安心すると同時に、この手がもはや本体である彼の人格とは完全な別物と化していることが証明された気がして、警戒する気持ちがますます強くなった。
二時間後、疲れ切ったわたしはベッドに戻り、背中を壁にもたせて、はあはあとふいごのような荒い息をついていた。
気がつくと、右手はいつの間にか、そろそろとベッドの下に戻ってきている。
「駄目よ、あっちに行きなさいったら!」
わたしは鉛のように重い腕を上げて、モップで床を叩いた。
手は蜘蛛みたいな動きで、ささっと少し遠ざかるものの、モップの届かない距離をちゃんと心得ていて、安全な場所から狡猾そうにこちらの様子を窺っている。
わたしは思わず、深い溜息を吐いた。
今夜はどうやら眠ることを許されぬらしい。貞操の危機を回避するのは、楽ではなさそうだった。
必死に睡魔と戦っていたが、明け方くらいについうとうとしてしまい、はっとしてモップを握り直した。口の端から垂れていた
ありがたいことに、彼の右手はさっきと同じ場所にいた。指を折って丸くなっている。なぜそうなるのかはまったく不明だが、手はどうやら
寝ている
らしい。その時だ。わたしの頭に悪魔的なアイデアが
音を立てないように、そっとベッドから下りると、わたしはキッチンへ行った。田舎の母が送ってくれた梅酒の空き瓶があるのを思い出したのである。
わたしは空き瓶を片手に再びベッド・ルームへ戻った。わたしは田舎生まれの人間だから、子供の頃は男の子に混じって、よく虫を捕まえて遊んでいた。わたしの
虫を捕るには、先ず自分の気配を殺さなければいけない。わたしはそのコツを心得ていた。手はまだ寝ているようだった。わたしは腕が届く間合いまで忍者の如く近づいていくと、一気に瓶を
手は跳び上がって瓶の天井にぶつかった。その時にはわたしはもう、絨毯と瓶の口の間に蓋を滑り込ませていた。
わたしは会心の笑みを漏らすと、蓋をした瓶をベッドの上に置いた。手は最初のうちこそ瓶の円みに沿ってぐるぐる回ったり、跳び上がったりして暴れていたが、やがておとなしくなった。
「このまま家の前のどぶ川に捨ててやるから、海まで流れていけばいいわ」
わたしは、瓶に顔を近づけて言った。瓶の表面にわたしの顔が歪んで映っていた。眼に大きな隈をつくって笑っているわたしは、まるで西だか東だかの悪い魔女のようだった。
その時、手が泣いた。
手は文字通り手だから、眼鼻がついているわけではない。涙が零れるはずもない。それでも手には明らかに表情が浮かんでおり、それは泣いているとしか見えなかったのだ。
わたしは、しばらくじっと泣いている手を眺めていた。わたしが泣かない代わりに、彼の右手がその主人を思って泣いている。そんな気がした。
わたしはせっかく閉めた瓶の口を再び開け、そっとベッドの上に横たえた。
手は、捕らえられた虫が虫籠の口を急に開けられた時にしばしばそうするように、降って湧いた幸運が信じられないといったふうに瞬時
「今度変なことしたら、絶対許さないわよ。いい?」
わたしは怖い顔で言った。手はおじぎでもするように、こつこつと指を曲げた。