第10話 なにそれ
文字数 3,123文字
吊り橋効果というのは、都市伝説ではなかった。
波打ち際で、わたしたちはびっしょり濡れていた。わたしの髪の先から、ぽたぽたと水滴がしたたっていたし、彼にいたっては頭に海藻を貼りつけていた。
わたしたちはじっと見つめ合い、そして、恋に落ちた。
久しぶりに、ツキノちゃんとオンライン飲み会をした。
「今このビール飲むのって、微妙かな」
モニターの中のツキノちゃんが飲んでいるのは、コロナビールだ。わたしは日本のビール。コンドー君が好きな銘柄。
「まあ、気にしなくてもいいんじゃない? コロナビールに罪はないよ」
「そうだよね」
ツキノちゃんは、台湾に住んでいる。あの大きな地震の前からだ。向こうの生活にすっかり馴染 んで、生活には特に不満も支障もないようだが、それでも以前は、少なくとも年に一度は日本に帰ってきていた。帰ってくると、必ずわたしと会って、くだらないおしゃべりに花を咲かせた。直接会えなくなって、もうどのくらい経つだろう。
まるでわたしの心の声が聞こえたように、ツキノちゃんはしんみりした口調で言った。
「考えてみたらさ、もう二年半も日本に帰ってない」
「え、そんなになる?」
思わず目を瞠 った。そんなになるのか。
「最近、なんだか自分がすっかり流浪の民になった気がするの」
流浪の民。
その気持ちは、わたしもわかる。わかりすぎるくらいだ。もちろん、「あなたに初めて会った時、わたしはすでに流浪の民だったのよ」なんて、面と向かってツキノちゃんに言いはしないけれど。
「ねえ、それってライムを入れるものなんじゃないの」
ツキノちゃんは、コップに注いだコロナビールに、輪切りにしたレモンを浮かべている。
「同じようなものよ。それに、わたしとしてはやっぱり檸檬じゃないと、ね。それも片仮名じゃなくて漢字の檸檬。——ああ、泡と消えしわが初恋よ」
ツキノちゃんは芝居がかった口調で言う。だいぶイカれている。考えてみれば、ツキノちゃんは最初からかなりイカれていた。中学生の時からの友達だから、付き合いはかなり長い。泡と消えしわが初恋よ。消えるのが初恋なら、大したことはないと密かに思う。
およそ役に立たない日本文学の知識をわたしに植え付けたのは、このツキノちゃんだ。転校してきて間もなかったわたしは、この学校の生徒は皆こんな本を読んでいるのかと思って、ツキノちゃんが勧める本を片っ端から読んだ。他に友達がいなかったから、ツキノちゃんが変わってる子だと気づいたのはずいぶん後の話だ。
ツキノちゃんは、いわゆる文学少女だった。
初恋の人は、「檸檬」の梶井基次郎だったという。
しかし、ツキノちゃんの初恋はある日唐突に終わった。梶井基次郎の写真を見たのがきっかけだったらしい。
『梶井基次郎って、コンドーイサミに似てる。そう思ったら、もうコンドーイサミにしか見えなくなった』
『コンドーイサミって誰?』
知らないの、と目を丸くされ、わたしは焦った。当時のわたしは、いろいろな知識に欠けるところがあって、いつ気づかれるかとびくびくしていたから。
『誰だっけ』
『ほら、新選組の』
ああ、といかにも今思い出したように言ったが、「新選組って何?」と心の中で思っていた。
「あ」
わたしの声がよほど大きかったのか、モニターの中のツキノちゃんが噎 せた。何よ、どうしたの。思い出した、ありがとう。だから何が?
「わたしの彼」
「ええっ、いつの間に彼氏つくったの」
のけぞらなくてもいいだろうと思いながら、わたしはごく簡単に答える。
「この間、海で」
「この間海でできた彼を、どうして『思い出す』わけ? もう思い出になってるの?」
「違うの。相手の名前を知った時、どこかで聞いたことがあると思って……。ツキノちゃんだったんだね」
「それって、まさかわたしの知ってる人ってこと?」
「ある意味ね」
「だ、誰」
「檸檬」
わたしは言った。ツキノちゃんは、狐につままれたような顔をしていた。
コンドー君が笑うと、甘いマスクではなく、凄みのある表情になる。
わたしは、彼のこういう顔立ちが嫌いではない。もっとも、嫌いだったらそもそも恋に落ちない。ただ、この顔が世の全ての女性にアピールするものでないことは知っている。
わたしは、がっしりした男の人が好きだ。顔もいかつくて、顎なんかタラバガニを殻ごとばりばり噛み砕けるくらいたくましいのが好ましい。いや、本当にタラバガニを噛み砕く人だったら、それはまた別な問題になるので困るけれど、ものの喩えとして聞いてほしい。
わたしが絶対無理なのは、いわゆる王子タイプの男性だ。これはもう、宿命のようなものだとしか言いようがない。
だから、王子タイプの対極にいる人に惹かれるのだ。
だから、コンドー君なのだ。
自己紹介をする時、コンドー君は、自分は近藤勇だと名乗った。
わたしたちはあんまりはやく恋に落ちてしまったので、恋人になった後、互いに自己紹介することになった。
普通なら突っ込みを入れるところだったのだろうが、哀しいかな、常識のないわたしは「どこかで聞いたような名前だなあ」と思っただけだった。
その時、頭の中に一個の色鮮やかなレモンが浮かんだ。
なぜそんな連想がはたらいたのか自分でもよくわからなかったのだが、今ようやく腑に落ちた。
――そうか、ツキノちゃんの初恋の話だったんだ。
「もう一度確認させてもらうけど、あなたは新選組局長近藤勇本人なの?」
「そう」
凄みのある笑顔が顔に浮かぶ。
「本当に本物?」
「わが愛刀虎徹に誓って」
「じゃあ、質問。あなたは今何歳ですか」
「187歳」
打てば響くようにコンドー君は答えた。
「でも、歴史の本では、あなたは1868年に戊申戦争で敗れ、斬首されたことになっているんだけど」
「あれは本が間違っている。実は不老不死だから、オレ」
「不老不死って、人間が簡単になれるもの?」
「なれないだろうね」
「不老不死になれた理由を訊いてもいいかしら」
「人魚の肉を食べたから」
「なにそれ」
とわたしは言った。
コンドー君は、わたしの作った炒め茄子を肴に、上機嫌でビールを飲んでいた。だから、わたしの落胆ぶりに気づいてはいなかったろう。
――あーあ、やっぱりね。
わたしはそっと溜息をつく。コンドー君は、やっぱりたまたま歴史上の人物と同姓同名にすぎなかったのだ。しかも、例の新選組局長が残した一葉の写真と、無理に似ていると思えば思えないこともない容貌体格だったため、こんなジョークを思いついたのだろう。
考えてみれば、嘘に決まっている。本当に不老不死なら、溺れそうになってあんなにじたばたするはずがない。
そう、カナヅチのくせにビーチに遊びにきて、うっかり波にさらわれて死にかけたコンドー君を助けたのは、わたしだ。危ういところを救われたコンドー君は、吊り橋効果でわたしに一目惚れし、わたしも王子キャラの対極にあるコンドー君を好きになってしまった。
コンドー君が人間じゃなければいいなあ、なんて泡のように淡い期待を抱いていた自分が、つくづくアホらしい。
彼がただの人間だとすると、結局典型的な異類婚になってしまうから、わたしの本来属する共同体の掟に思い切り抵触し、結婚のハードルが一気に跳ね上がってしまうのだ。相手の愛が他の人に移ったりすると大変なことになるので、それを阻止するために刃物沙汰にもなりかねない。
修羅場だ。
――えっ、どうしてコンドー君の話がジョークだとわかったかって?
人魚の肉には、元々不老不死の効用なんてないのだ。
(第十話・了)
波打ち際で、わたしたちはびっしょり濡れていた。わたしの髪の先から、ぽたぽたと水滴がしたたっていたし、彼にいたっては頭に海藻を貼りつけていた。
わたしたちはじっと見つめ合い、そして、恋に落ちた。
久しぶりに、ツキノちゃんとオンライン飲み会をした。
「今このビール飲むのって、微妙かな」
モニターの中のツキノちゃんが飲んでいるのは、コロナビールだ。わたしは日本のビール。コンドー君が好きな銘柄。
「まあ、気にしなくてもいいんじゃない? コロナビールに罪はないよ」
「そうだよね」
ツキノちゃんは、台湾に住んでいる。あの大きな地震の前からだ。向こうの生活にすっかり
まるでわたしの心の声が聞こえたように、ツキノちゃんはしんみりした口調で言った。
「考えてみたらさ、もう二年半も日本に帰ってない」
「え、そんなになる?」
思わず目を
「最近、なんだか自分がすっかり流浪の民になった気がするの」
流浪の民。
その気持ちは、わたしもわかる。わかりすぎるくらいだ。もちろん、「あなたに初めて会った時、わたしはすでに流浪の民だったのよ」なんて、面と向かってツキノちゃんに言いはしないけれど。
「ねえ、それってライムを入れるものなんじゃないの」
ツキノちゃんは、コップに注いだコロナビールに、輪切りにしたレモンを浮かべている。
「同じようなものよ。それに、わたしとしてはやっぱり檸檬じゃないと、ね。それも片仮名じゃなくて漢字の檸檬。——ああ、泡と消えしわが初恋よ」
ツキノちゃんは芝居がかった口調で言う。だいぶイカれている。考えてみれば、ツキノちゃんは最初からかなりイカれていた。中学生の時からの友達だから、付き合いはかなり長い。泡と消えしわが初恋よ。消えるのが初恋なら、大したことはないと密かに思う。
およそ役に立たない日本文学の知識をわたしに植え付けたのは、このツキノちゃんだ。転校してきて間もなかったわたしは、この学校の生徒は皆こんな本を読んでいるのかと思って、ツキノちゃんが勧める本を片っ端から読んだ。他に友達がいなかったから、ツキノちゃんが変わってる子だと気づいたのはずいぶん後の話だ。
ツキノちゃんは、いわゆる文学少女だった。
初恋の人は、「檸檬」の梶井基次郎だったという。
しかし、ツキノちゃんの初恋はある日唐突に終わった。梶井基次郎の写真を見たのがきっかけだったらしい。
『梶井基次郎って、コンドーイサミに似てる。そう思ったら、もうコンドーイサミにしか見えなくなった』
『コンドーイサミって誰?』
知らないの、と目を丸くされ、わたしは焦った。当時のわたしは、いろいろな知識に欠けるところがあって、いつ気づかれるかとびくびくしていたから。
『誰だっけ』
『ほら、新選組の』
ああ、といかにも今思い出したように言ったが、「新選組って何?」と心の中で思っていた。
「あ」
わたしの声がよほど大きかったのか、モニターの中のツキノちゃんが
「わたしの彼」
「ええっ、いつの間に彼氏つくったの」
のけぞらなくてもいいだろうと思いながら、わたしはごく簡単に答える。
「この間、海で」
「この間海でできた彼を、どうして『思い出す』わけ? もう思い出になってるの?」
「違うの。相手の名前を知った時、どこかで聞いたことがあると思って……。ツキノちゃんだったんだね」
「それって、まさかわたしの知ってる人ってこと?」
「ある意味ね」
「だ、誰」
「檸檬」
わたしは言った。ツキノちゃんは、狐につままれたような顔をしていた。
コンドー君が笑うと、甘いマスクではなく、凄みのある表情になる。
わたしは、彼のこういう顔立ちが嫌いではない。もっとも、嫌いだったらそもそも恋に落ちない。ただ、この顔が世の全ての女性にアピールするものでないことは知っている。
わたしは、がっしりした男の人が好きだ。顔もいかつくて、顎なんかタラバガニを殻ごとばりばり噛み砕けるくらいたくましいのが好ましい。いや、本当にタラバガニを噛み砕く人だったら、それはまた別な問題になるので困るけれど、ものの喩えとして聞いてほしい。
わたしが絶対無理なのは、いわゆる王子タイプの男性だ。これはもう、宿命のようなものだとしか言いようがない。
だから、王子タイプの対極にいる人に惹かれるのだ。
だから、コンドー君なのだ。
自己紹介をする時、コンドー君は、自分は近藤勇だと名乗った。
わたしたちはあんまりはやく恋に落ちてしまったので、恋人になった後、互いに自己紹介することになった。
普通なら突っ込みを入れるところだったのだろうが、哀しいかな、常識のないわたしは「どこかで聞いたような名前だなあ」と思っただけだった。
その時、頭の中に一個の色鮮やかなレモンが浮かんだ。
なぜそんな連想がはたらいたのか自分でもよくわからなかったのだが、今ようやく腑に落ちた。
――そうか、ツキノちゃんの初恋の話だったんだ。
「もう一度確認させてもらうけど、あなたは新選組局長近藤勇本人なの?」
「そう」
凄みのある笑顔が顔に浮かぶ。
「本当に本物?」
「わが愛刀虎徹に誓って」
「じゃあ、質問。あなたは今何歳ですか」
「187歳」
打てば響くようにコンドー君は答えた。
「でも、歴史の本では、あなたは1868年に戊申戦争で敗れ、斬首されたことになっているんだけど」
「あれは本が間違っている。実は不老不死だから、オレ」
「不老不死って、人間が簡単になれるもの?」
「なれないだろうね」
「不老不死になれた理由を訊いてもいいかしら」
「人魚の肉を食べたから」
「なにそれ」
とわたしは言った。
コンドー君は、わたしの作った炒め茄子を肴に、上機嫌でビールを飲んでいた。だから、わたしの落胆ぶりに気づいてはいなかったろう。
――あーあ、やっぱりね。
わたしはそっと溜息をつく。コンドー君は、やっぱりたまたま歴史上の人物と同姓同名にすぎなかったのだ。しかも、例の新選組局長が残した一葉の写真と、無理に似ていると思えば思えないこともない容貌体格だったため、こんなジョークを思いついたのだろう。
考えてみれば、嘘に決まっている。本当に不老不死なら、溺れそうになってあんなにじたばたするはずがない。
そう、カナヅチのくせにビーチに遊びにきて、うっかり波にさらわれて死にかけたコンドー君を助けたのは、わたしだ。危ういところを救われたコンドー君は、吊り橋効果でわたしに一目惚れし、わたしも王子キャラの対極にあるコンドー君を好きになってしまった。
コンドー君が人間じゃなければいいなあ、なんて泡のように淡い期待を抱いていた自分が、つくづくアホらしい。
彼がただの人間だとすると、結局典型的な異類婚になってしまうから、わたしの本来属する共同体の掟に思い切り抵触し、結婚のハードルが一気に跳ね上がってしまうのだ。相手の愛が他の人に移ったりすると大変なことになるので、それを阻止するために刃物沙汰にもなりかねない。
修羅場だ。
――えっ、どうしてコンドー君の話がジョークだとわかったかって?
人魚の肉には、元々不老不死の効用なんてないのだ。
わたしが言うのだから
、間違いない
。(第十話・了)