第3話 河神(二)
文字数 2,533文字
わたしは急いで走廊 に出てみた。
青樓は吹き抜けになっている。欄杆 に摑まって樓下 の広間を覗いたわたしは思わず、
「啊 !」と叫んだ。瑶琴 姐 さん。發生了什麼事兒 ?
広間で聞こえよがしに胴間声を張り上げているのは、思った通り嚴 大人 だった。
嚴大人は元刺史※1で、官を退いた後も隠然たる影響力を保ち、大人の逆鱗に触れたが最後、この州で生きていくことはできぬと言われるほどだったが、同時に淫亂 放蕩 の人として有名だった。
「さあ、はやく箭 を投げよ。壺に入らなければ、罰として着ている衣著 を全て脱ぐのだ」
嚴大人は広間に置かれた椅子の上で、妊婦のように肥えた腹を持て余すように揺らしながら喚き立てた。
手に箭を握らされ、立たされている瑶琴姐さんの姿を見て、わたしは息を呑んだ。後ろで髪を留めていたはずの簪 がなくなって髪が乱れ、翡翠の耳環 もひとつ消えている。遠目にもわかる落花 狼藉 の体 だった。
瑶琴姐さんは歌妓だ。その歌声の美しさだけでなく、類 い稀 な麗質だが、歌妓は「賣藝不賣身 」。それが青樓のきまりだ。
最近、嚴大人がしつこく瑶琴姐さんに言い寄っていたことは皆知っている。おそらく今宵、嚴大人は無理矢理思いを遂げようとし、瑶琴姐さんに撥 ねつけられたのだろう。そこで投壺遊びにことよせ、衆人環視の中、瑶琴姐さんに思い切り恥を見せてやろうという魂胆に違いなかった。
「さあ、快點兒 投げよ! 快點兒 !」
嚴大人の割れるような大声に、瑶琴姐さんの身体はびくりと震えた。おずおずと箭を握った腕を持ち上げるが、樓上 から見てもわかるほどその手が震えている。
「等一下 !」
我知らずわたしは叫んでいた。「わたしが、代わりにやります」
嚴大人は、目の前に立ったわたしの顎を、扇子でくいっと持ち上げた。
「春嵐よ。お前が瑶琴の代わりに投壺をすると言うのか」
赤く濁った眼が不気味に据わっている。柿の腐ったような口臭に耐えながら、わたしは「是的 。大人 」と答えた。
「好 ! 願いを聞き届けよう。もし入れられなかったら、お前が一絲不掛的 身影 で舞を踊るのだぞ、可以嗎 ?」
「大人、お許し下さいませ。春嵐は関わりございません。わたくしが投げます」
瑶琴姐さんが跪 いて、叩頭 した。
「閉嘴 !」
嚴大人の声が鞭のように飛ぶ。それでも喰い下がろうとする瑶琴姐さんを制し、わたしも膝をつくと、姐さんの震える肩を抱いた。
「沒關係的 。交給我就好 」と耳元でそっと囁くと、姐さんは両手の指を祈るように組んで、凝然 とわたしを見つめた。わたしが黙って頷くと、その顔は今にも哭 き出しそうに歪んだ。
「對啦 」
嚴大人は扇子でわたしの肩を軽く打ちながら言った。「自ら身代わりを願い出るからには心得があるのであろう。ただ投げても沒意思 。目隠しをして投げよ」
嗜虐的な笑みが脂ぎった顔に浮かんでいた。
やがて持ってこられた布をわざわざ手で触って調べてから、わたしの眼にきつく巻いて縛る。それから、わたしの身体を陀螺 のようにくるくる回した。
「好過分 !」
「あれじゃあ、方向がまるでわからなくなってしまうわ」
妓女たちの囁き声が聴こえた。でも、わたしはちっとも慌ててはいなかった。微 笑 みたいような気持だった。
だってわたしの傍 らにはずっと河神さまの気配があったから。
眼を閉じているせいで、わたしはかえってはっきりと、女神 である河神さまのお姿が擽 る。
――腕を上げた後、一度ためを作ることを忘れてはいけないよ。好 、是這樣子的 。春嵐、お前は乖孩子 だね。
四囲 がしんと静まり返り、誰かが固唾を呑む音さえはっきりと耳に聴こえた。
それでもわたしは躊躇 いもせず、懼 れもしなかった。腋の下に汗も滲 まなかった。迷わず、上げた腕をひと振りした。水の低きに就 くが如く自然に。
そして、ゆっくりと目隠しを取った。
見なくてもわかっていた。箭は壺の中に収まっている。外れるはずがなかった。
好 ! 好 !
春嵐、投得好 !
湧きあがるような喝采だった。身を乗り出して眺めていた嫖客たちが一斉に欄杆を叩いて、「好! 好!」と声を上げていた。
嚴大人はすっかり興 醒 めしてしまい、鴇母が「大人、息怒息怒 」と、必死でご機嫌を取り結ぼうとするのを振り切るように帰ってしまわれた。
勿論 わたしとて、嚴大人の報復 を懼れなかったわけではない。鴇母なんか生きた心地もしないらしく、苦虫を噛みしめたような顔でわたしを睨んでいたが、瑶琴姐さんが眼にいっぱい涙を浮かべてわたしの手を取り、
「春嵐、あなたはわたしの救命恩人 よ」
と言ってくれたので、それだけでもう十分報われた気がした。
もしこの州にわたしを容 れる所がないと言うなら、旅に出るまでだ。女ひとりの口を糊 するくらい、どうとでもなるだろう。わたしは何故 か、自分の運命の流れゆく先をあまり恐れてはいなかった。
結論を先に言うと、こうした心配は杞憂に終わった。
その夜の三更 (十二時)も過ぎた頃、嚴大人の公館 に賊が忍び入り、その首を斬り落としたのだ。
翌朝、婢女 が部屋に入ると、嚴大人の首は卓の上に西瓜か何かのように置かれており、その下にべっとりと血に染まった告発状があった。嚴大人が密かに倭寇と通じ、私腹を肥やしていたことが確かな証拠と共に書かれてあったと云う。
しばらくして、嚴大人の首を斬ったのは、河神という外號 を持つ侠 の仕業だという傳聞 が流れた。なんでも水練 に長 け、且つ水路を巧みに利用することからその外號があるという話だった。
わたしはずいぶん熱心に、青樓にくる嫖客から河神に関する話を集めた。
傳聞は口から口へ伝わる間に尾 鰭 がつくらしく、池の魚の如き可愛らしいものから、龍となって天に昇るようなものまで種々 様々であったが、孰 れにしても河神なる者、容貌魁 偉 な大 漢 であるという点に於 て一致しており、女扮男裝 の女侠 であると言う者、ましてや女神であると言う者は、ひとりとしてなかった。
(第三話・了)
※1 「刺史」は地方官の名称。時代によって権限に違いがあるが、この物語では「知州」(州の行政長官)の雅称として用いられている。
青樓は吹き抜けになっている。
「
広間で聞こえよがしに胴間声を張り上げているのは、思った通り
嚴大人は元刺史※1で、官を退いた後も隠然たる影響力を保ち、大人の逆鱗に触れたが最後、この州で生きていくことはできぬと言われるほどだったが、同時に
「さあ、はやく
嚴大人は広間に置かれた椅子の上で、妊婦のように肥えた腹を持て余すように揺らしながら喚き立てた。
手に箭を握らされ、立たされている瑶琴姐さんの姿を見て、わたしは息を呑んだ。後ろで髪を留めていたはずの
瑶琴姐さんは歌妓だ。その歌声の美しさだけでなく、
最近、嚴大人がしつこく瑶琴姐さんに言い寄っていたことは皆知っている。おそらく今宵、嚴大人は無理矢理思いを遂げようとし、瑶琴姐さんに
「さあ、
嚴大人の割れるような大声に、瑶琴姐さんの身体はびくりと震えた。おずおずと箭を握った腕を持ち上げるが、
「
我知らずわたしは叫んでいた。「わたしが、代わりにやります」
嚴大人は、目の前に立ったわたしの顎を、扇子でくいっと持ち上げた。
「春嵐よ。お前が瑶琴の代わりに投壺をすると言うのか」
赤く濁った眼が不気味に据わっている。柿の腐ったような口臭に耐えながら、わたしは「
「
「大人、お許し下さいませ。春嵐は関わりございません。わたくしが投げます」
瑶琴姐さんが
「
嚴大人の声が鞭のように飛ぶ。それでも喰い下がろうとする瑶琴姐さんを制し、わたしも膝をつくと、姐さんの震える肩を抱いた。
「
「
嚴大人は扇子でわたしの肩を軽く打ちながら言った。「自ら身代わりを願い出るからには心得があるのであろう。ただ投げても
嗜虐的な笑みが脂ぎった顔に浮かんでいた。
やがて持ってこられた布をわざわざ手で触って調べてから、わたしの眼にきつく巻いて縛る。それから、わたしの身体を
「
「あれじゃあ、方向がまるでわからなくなってしまうわ」
妓女たちの囁き声が聴こえた。でも、わたしはちっとも慌ててはいなかった。
だってわたしの
眼を閉じているせいで、わたしはかえってはっきりと、
観える
気がした。花の香の息が、わたしの耳元を春風の如く――腕を上げた後、一度ためを作ることを忘れてはいけないよ。
それでもわたしは
そして、ゆっくりと目隠しを取った。
見なくてもわかっていた。箭は壺の中に収まっている。外れるはずがなかった。
春嵐、
湧きあがるような喝采だった。身を乗り出して眺めていた嫖客たちが一斉に欄杆を叩いて、「好! 好!」と声を上げていた。
嚴大人はすっかり
「春嵐、あなたはわたしの
と言ってくれたので、それだけでもう十分報われた気がした。
もしこの州にわたしを
結論を先に言うと、こうした心配は杞憂に終わった。
その夜の
翌朝、
しばらくして、嚴大人の首を斬ったのは、河神という
わたしはずいぶん熱心に、青樓にくる嫖客から河神に関する話を集めた。
傳聞は口から口へ伝わる間に
(第三話・了)
※1 「刺史」は地方官の名称。時代によって権限に違いがあるが、この物語では「知州」(州の行政長官)の雅称として用いられている。