第2話 ぬばたまの(三)

文字数 2,264文字

 倭文子の弟である祐臣(すけおみ)には、少し(しょう)()の曲がったところがあり、何事によらずひがみっぽかった。

 自分で姉を池に突き落としておきながら、わたしがやったと(わめ)き立てた。そういう浅知恵だけは働く子供だった。
 結果、家中が大騒ぎになった。父は飛んでくるや、事実関係を確かめもせず、わたしの横面を張り飛ばした。伯父の手前、そういう形を見せねばならぬと、とっさに考えたのだろう。だが、既に酔っていた父は力の加減がわからなくなっていた。わたしはそこに積んであったまきの山に頭から突っ込んでしまった。
 起き上がろうとした時、視界が紅く染まった。
 額がぱっくりと割れ、血が吹き出していたのだ。わたしは地に膝をついた姿勢で、手で傷を押さえながら、父を見上げた。ぬるぬるしたものが溢れ、指の間から(したた)るようにこぼれ落ちた。
 元々気の弱い父は、そんなわたしの顔を見て、さすがにぎょっと立ち(すく)んだ。
『馬鹿(もん)。自分の娘を傷ものにする親があるか!』
 伯父はさすがに父を叱った。
 でも、あの時雪の上に(ひざまず)いていたわたしは、痛みも寒さもほとんど感じてはいなかった。自分の額からぽたぽた流れ落ちる血が、牡丹の花弁(はなびら)みたいな染みを白い地面に描いていくさまを、ただ(ほう)けたように眺めているばかりだった。
 
 本家の若い(しゅ)が、馬車で医者を連れてきた。正月二日だというのに、すぐ医者が往診に来たところは、さすがに本家の力だった。もちろん、倭文子はとっくに池から助け出されていたが、医者が到着した時には高熱を発し、意識も朦朧としている状態だった。
 だから、わたしが罪を着せられ、折檻を受けていた事実を倭文子が知らなかったのは無理もない話なのだ。
 それにしても、父が聞く耳を持ったか否かは別として、わたしも多少は弁解を試みてもよかったはずである。それをあえてしなかったのは、奇妙な心の働きだったと言える。
 九つのわたしは、確かにこう思っていたのだ。もし一言も口を利かず、黙ってこの理不尽さに耐えていれば、神だか仏だかが憐れみを垂れ、倭文子の命を救ってくれるのではないか。あの時のわたしは、なぜか一途(いちず)にそう信じていたのだ。

 一時重篤だった倭文子が持ち直し、なんとか起き上がれるようになるまでに、たっぷりふた月かかった。
 その頃には、わたしが倭文子を池に突き落としたという噂が、村の人々の間ですっかり既成事実と化していたけれど、わたしは一切の申し開きをしなかった。今も、わたしはあの件について口を(つぐ)んだままだ。
 しかし、ひたすら沈黙を貫いているわたしが、祐臣の眼にはひどく不気味に映るらしかった。あの日以来、祐臣はわたしを避けるようになった。今日も家のどこかにいるはずだが、まったく姿を見せようとしない。

 ……気がつくと、いつか繭はなくなっており、倭文子は元の倭文子に戻っていた。
 わたしは倭文子の髪の中に、そっと手を伸ばした。
 さっきの荒々しいまでの激しさとは打って変わり、倭文子は絶え入りそうに恥ずかしがり、ずっと髪を洗っていないの、汚いから触らないで、と哀願するように言った。
 わたしはかまわず指を髪の奥深くに差し入れ、櫛で梳くように倭文子の髪を撫でてやった。
 やがて、倭文子はうっとりと目を閉じ、安らかな寝息を立て始めた。
 わたしは汗でしっとりと湿った髪を撫でながら、その哀しいほど美しい寝顔を見つめた。
 
 本家がその財をなしたのがいつの頃なのか、わたしも詳しくは知らない。ただ、ここまでなり上がるにはいろいろ()(こぎ)なこともしたらしく、本家の柱は小作人たちの血、梁は借財人の涙でできている、と村では密かに言われ続けていた。
 多くの人の恨みを買った呪いなのか、本家の娘で二十歳(はたち)を超えて生き(なが)らえたものはいない。

 倭文子は小さい時から、いつもどこか具合が悪く、本当の意味で健康な日など一日もなかったのではないかと思われるほどだ。そのくせ自暴自棄になることもなく、会えばいつも柔らかく微笑んでいた。本家の一人娘だからと我儘を言うこともなく、逆に周りの人に気を遣い、あやまってばかりいた。それが自分が果たすべき(しょく)(ざい)だと信じているかのように。
 今自分の前に横たわっている、(やつ)れ果てた倭文子の身体。それでも

は力を緩めることなく、この哀れな従妹をこの家に縛りつけている。瘦せ衰えた四肢に幾重にも喰い込む太い鎖が見えるようで、あまりの痛ましさにわたしは思わず眼を閉じた。

『ごめんなさい、高子姉さん。いつも迷惑ばかりかけて』

 わたしは(つぶ)った目にぎゅっと力を込めた。そして心の中で、そっと呼びかけた。お願い、倭文ちゃん。お願いだから、もうあやまらないで。
 不思議なことに、面と向かってはほとんど言葉を交わせないのに、心の中では、ごく自然に倭文子に話しかけることができた。
 あの雪の日から、わたしはずっと心の中で倭文子に語りかけていたような気がする。長い長い物語を語ってきたような気がする。
 倭文子の細い髪は時折、わたしの指の先に僅かに引っ掛かった。それは、こんな(むご)い目に()わされながらも、倭文子が自らを必死にこの世に繋ぎとめようとする、その最後の未練なのかもしれなかった。

 倭文子が痛がらないよう、たとえ一時でもその夢が穏やかなものであるよう祈りつつ、わたしはこの美しいぬばたまの黒髪を、ただ撫で続けてやることしかできなかった。

 四囲はしんと静まり返り、火鉢の上の鉄瓶だけが、まるで秘め事のように何ごとかを囁いていた。
                                   (第二話・了)
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