第5話 白熊

文字数 3,626文字

 白熊からわたしのスマホに連絡があったので、わたしはすぐ白熊のマンションへ行った。途中の道沿いにある一軒の家の庭に、白山吹(シロヤマブキ)が咲いていた。

 白熊は、お客さんが来るまでにはまだ時間がある、ちょうどコーヒーを淹れたところだから先に飲もうと言って、二つのマグカップにたっぷりとブラック・コーヒーを注いでくれた。
 わたしはにこにこと、猫の顔がプリントされたマグカップに唇をつける。白熊が淹れてくれるコーヒーは、わたしのお気に入りだ。

 台湾は台北(タイペイ)の、とある小さな珈琲店の特製ブレンドなのだそうで、それをわざわざ航空便で取り寄せて飲んでいる。
 白熊は日本に来る前の一時期、台湾に住んでいた。その時、この珈琲を知ったのだと言う。

「台湾って、とてもいいところだったんだ。でも、あの暑さがねえ」

 白熊は顔に苦笑いを浮かべる。そうすると、口の端がちょっと(めく)れて牙が覗く。牙は一瞬どぎつい光を放つ。この光は、いつも穏やかなバスで話す白熊の内面性とは別個に存在するものなのか、それともこれこそ白熊の隠された本質の象徴なのか。わたしは白熊が笑うたびに、そんな

もないことをぼんやりと考えてみる。

 北極の氷が溶けてしまい、白熊は流浪の民となった。彼は筆舌に尽くしがたい苦労をして諸国を渡り歩き、やがて台湾に辿り着いた。人や食べ物にはとてもよく馴染むことができて、一旦は定住するつもりになったらしい。ところが、夏の暑さがどうしても我慢できず、

涼しい日本に、移り住んだのだそうな。でも日本の夏だって殺人的な暑さなのだから、正直ちょっと心配だ。
 白熊が日本での生活を気に入っているのかどうかはわからない。もしかしたら、あまり好きではないのかもしれないと思うことがある。一度思いきって訊いてみたのだが、白熊は(さざなみ)のような笑いにまぎらせて答えなかった。わたしも、二度は訊いていない。
 
 白熊は東京の(すみ)っこにあるマンションの一室に独りで住んでいる。毎朝窓から外を眺めながら、ゆっくり時間をかけて台北の小さな珈琲店の特製ブレンド・コーヒーを飲む。その時白熊が何を考えているのか、わたしは知らない。

 それにしても、どうして白熊はわざわざ東京に住もうとするのだろう。暑さが苦手なのだから、北海道の方がいいのではないかと思う。すると、それはシロウト考えというものだ、と白熊に穏やかにたしなめられた。

「都会、それもできれば、その国で一番大きな都会がいい。そうでなければ、白熊一頭を()れてくれる隙間(ニッチ)なんて、そうそう見つかるものではないのさ。世間の風ってのは、いつも北風と相場が決まっているからね。ここで言う北風は、もちろんメタファーだけど」
 なるほど、メタファーとしての北風ね、とわたしは感心する。わたしの拳ほどもある、黒曜石に似た白熊の眼に、わたしはいつも、この世界に対するごく控えめな思慮深さといったものを感じて心打たれるのだ。

 白熊は、夢占いをして生計を立てている。
 台湾で『(えき)(きょう)』を学んで身につけた本格的な占いで、よくあたると評判だった。おかげで白熊はわたしよりいい部屋に住んでいる。

 お客さんの予定が入ると、白熊からわたしのスマホに連絡がくる。わたしは白熊のマンションに出かけていって、臨時の受け付け嬢になる。わたしの顔を見ると、お客さんは例外なくほっとした顔をするのだ。
 いくらあたる占いでも、ドアを開けたのが白熊だと、大抵の人はぎょっとするらしい。ホームページにもちゃんと写真入りで「白熊夢占い」と書いてあるし、お客さんは承知で来ているはずなのだが、白熊が営業スマイルのつもりで笑うと口角が捲れあがって牙の覗くのがいけないのか、中には恐怖のあまり失禁してしまう人まで現れたため、わたしが雇われることになったのである。

「本能的な恐怖心だね。未だに闇の恐怖から脱却できないのと同じで、人間は自分を捕食し得る動物を前にすると、冷静さを保つことができないのさ。だからきみみたいに、わたしを前にして平気でいられる人間は、例外中の例外に属する。遺伝学的に言うと、進化の可能性を秘めた突然変異体と言えるかもしれない」

 わたしは白熊を怖いと思ったことはない。ちなみに白熊とは行きつけの美容院で知り合った。
 白熊はなかなかお洒落で、床屋ではなく美容院へ行くのだ。頭頂部が、よく手入れされた芝生みたいにまっ(たいら)でないと気分が悪いらしい。白熊の耳というのは、びっくりするくらいまん円でかわいいのだが、その耳から頬にかけての毛もきちんと整える。
 美容院で初めて会った時、白熊は巨大な身体を椅子の上に無理やりはめ込むようにして、女性ファッション雑誌を眺めていた。

 わたしは時々、ふざけて白熊を「ボス」と呼ぶ。「ボス」と呼ばれると、白熊はちょっと(くすぐ)ったそうな顔をする。わたしは白熊とそういう関係であることが、なんだかひどく楽しい。「白熊をボスと呼ぶ女」――これを、今後の人生のキャッチ・フレーズにしようかと真面目に考えているほどだ。

 それにしても、世の中には変てこりんな夢を見る人がいるものだと感心せずにはいられない。
 今日のお客さんは、一見大企業の部長さんふうの立派な紳士。そんな人が真面目な顔で自分が見た夢の話をする。オムレツを食べようとしてフォークを突き立てたら中からするするっとヤシの木が生えてきたんです、ヤシの木のてっぺんには楽器を持った小さな猿たちがいて、すごくロックな感じでリンキン・パークの“Numb”を演奏し始めました……。わたしは笑いを(こら)えるのに必死でお腹が痛くなる。

 白熊はもちろん吹き出したりなぞせず、最後まで静かに話を聞き、聞き終わると(おもむろ)算木(さんぎ)筮竹(ぜいちく)を使って占いをする。あなたは今大きな成功を掴もうとしています。でも、その成功の(うち)には、あなたの幼少時のトラウマを刺激するものが含まれています。得るものが大きいほど、代償も少なくはないのです。肝心なのは物事にこだわり過ぎないこと、執着し過ぎないことです。
 白熊の言葉はお客さんの心の琴線(きんせん)に触れたらしい。紳士は白熊にはもちろんのこと、わたしにまで丁寧なおじぎをして帰っていった。

「君の夢も占ってあげよう。君にはいつもお世話になっているから、もちろんただでみるよ」
 白熊はいつもわたしにそう言ってくれるのだが、わたしは(ほほ)()んで首を振る。あいにくわたしは夢を見ないのだ。だから、占ってもらう材料がない。

「どうして夢を見ないんだろう」
 その日、白熊は首を(ひね)ってわたしをじっと見つめた後で、こう尋ねてきた。「夢を見たいとは思わない?」
 うん、そうね。わたしはちょっと考えてから答えた。「たまには見たいと思うわ。オムレツから出てきたロックな猿がリンキン・パークの歌をうたう夢なんて、なかなかおもしろそうだし」
「見る方法はある」
 白熊はいつもの思慮深い眼で言った。「私のお腹の中に入ればいい」

 白熊はあくびでもするように大きく口を開けた。牙が光った。ぱちっと電燈が消えるようにあたりが暗くなった。
「ここが、あなたのお腹の中なの」
 わたしはおそるおそる訊いた。
『そう』
 白熊の声はひどく遠く、しかもくぐもって聞こえたが、内容はなんとか聞き取れた。
『どうだい、居心地は』
「なかなか快適よ」
 嘘ではなかった。しっとりと湿った闇が、わたしを柔らかく包んでいた。湿ってはいるが、べとべとするほどではない。ぽかぽかと温かくて、乾草(ほしくさ)のようないい匂いがした。

『私にはわかる。きみが夢を見なくなって、今日でちょうど千日目だ。奪われたその夢を、きみは取り戻さなくちゃいけない。私のお腹の中でね』

 そうだ。わたしは思い出す。昔から夢を見なかったわけではない。三年近く前、ひどく悲しい出来事があって、それから夢を見られなくなってしまったのだ。夢を見なくなってからのわたしは蝉の脱殻(ぬけがら)のようなもので、だから人間が白熊を眼の前にして当然(いだ)くべき本能的恐怖心もないのだ。進化の可能性を秘めた突然変異体なんてご大層なもんじゃない。一度死んでしまった人間は、おそらく幽霊を恐れはしないだろう。たぶんそれと同じ面白くもない理屈なのだ。理屈なんてものは、たいていつまらないものだけれど。
 
 ほろほろと、わたしは泣いた。
 涙はわたしの眼から溢れ、闇の中を白山吹の花びらのように落ちた。あとからあとから落ちて、膝を抱えて座るわたしのまわりに散り敷き、(うずたか)く盛り上がり、しまいにはわたしの身体が浮かび上がるほどになった。千日分の涙の量はあたかも小さい海だった。
 身体の中の水が涙として流れ出ていくのと入れ替わりに、眠気が静かな(うしお)のように()ちてきた。わたしはそっと眼を閉じると、赤ん坊みたいに四肢を丸めて涙の海に浮かぶ。

 温かく、乾草の匂いのする白熊のお腹の中で、涙の海を揺蕩(たゆた)いながら、わたしは千の夢を見るのだ。

                                   (第五話・了) 
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