第12話 麦わら帽子(三)

文字数 1,127文字

 落葉松の道を、まるでつばの部分が輪になったみたいに、麦わら帽子はくるくる回りながら走ってゆく。
 それを追っているうちに、未緒子は奇妙な感覚に捉われた。
 自分の身体がふっと軽くなる。髪が乱れて、眼にかかる。片手でかきあげた時、違和感が襲った。

 ――わたしの、髪じゃないわ。

 今のわたしの髪より細くて、やわらかくて、そして長い。
 腰まで届くほどのまっすぐな髪。

 あっと思った。
 これはわたしの書いた物語の主人公ではないか。

 ――わたしの書いた物語?

 未緒子は今更ながら愕然とする思いがした。自分が物語だと思い込んでいたものは、実は全て現実に起こった出来事だったのではないか。

 ――遠い昔、軽井沢のこの道で、わたしと同じ音の名前を持つ少女が、彼女より四つ年上の、美しいもうひとりの少女と出会った。ふたりは激しく惹かれ合い、互いに溢れるような感情を抱き、そして――

〈過去〉とは人の身体に雪のように降り積もり、ともに〈未来〉へ運ばれてゆくものではなく、逆に〈現在〉から切り離され、その場所に(とど)まるものなのかもしれない。

 ちょうど西條八十の詩にある、谿底(たにそこ)へ落ちたあの麦わら帽子のように。

 ――三つのわたしが、偶然〈時〉の谿底を通りかかり、澪子の落とした麦わら帽子を被ってしまったのだとしたら?

 澪子の〈過去〉は、未緒子という少女の中で一旦冷凍保存された。それは少女がひとりの大人の女性へと成長していく過程で少しずつ解凍されていき、ついには(せき)を切ったように溢れ出して、あの一冊の本になった。

 ――わたしはあの物語を〈書いた〉のではなく、何かの力によって〈書かされた〉にすぎなかったのだ。

 荒唐無稽な話なのに、そう考えると、未緒子は妙に腑に落ちる気がした。

 ――じゃあ、今わたしの身に起こっているのは……?

 おそらく同じ落葉松の道で、ふたたび〈時〉の谿が開いたのだ。自分はその中に呑み込まれ、澪子の〈過去〉と同化してしまったのに違いない。

 未緒子の本の中のふたりの少女は、緋沙子の卒業の直前に、手に手を取って死出の旅に出ることになる。

 ――わたしは澪子が歩んだのと同じ道をもう一度辿り直すことになるのかしら? それとも元の道から枝分かれした、別の道に足を踏み入れてゆくのかしら。

 逃げるように転がり続ける麦わら帽子を、未緒子はようやくのことで拾い上げる。

 気がつくと、そこは二本の道が交わる辻だった。

 馬の嘶きが、彼女の耳を打った。

 帽子を持っていない方の手で、乱れた長い髪をうなじの後ろに押さえつけながら、未緒子は、いや澪子は、息がつまる思いでふり仰ぐ――

 また、ざっと風が吹いた。

                                  (第十二話・了)
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